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あのブドウは甘いに違いない。と言える者は、ブドウを手に入れるために努力できる。

 世の中の人間のほとんどは、自分のできること、自分が理解して経験していること以外の物事や、他人の仕事を簡単に単純に考えている。

 この「他人の仕事は簡単に見える」を言い換えれば「他人の庭の芝生は青い」と言うコトワザになる。
 これは誰もがそう考える、という普遍的な事実である。
 逆に言えば、普遍的な事実だからこそ、コトワザになっているわけである。

 それなりに仕事をやって、経験を積めば、こういう考えは持たなくなるものだが、どうにも考えの浅い人間。他人が馬鹿に見えて仕方ない人間は、この「他人の仕事は簡単だ」と思い込んで、それを疑わない。

「ラーメン屋なんか、あんなもの、麺を茹でて、スープの中に入れて、上にチャーシューとかネギ乗せるだけじゃないか、誰にでもできる」

「ライトノベルみたいな、あんなもの、一冊を二時間で読めてしまうような簡単な小説じゃないか、誰にでも書ける」

 この言い方、パターンは、どんな仕事にも当てはまる。

「医者なんか、あんなもの、患者の話を聞いて薬出すだけじゃないか、誰だってできる」

「刀鍛冶なんてあんなもの、鉄を赤く焼いてハンマーで叩くだけじゃないか、誰だってできる」

 物事を単純化して言葉にすれば、ものすごく簡単に見えてくるわけである。

 ほとんどの人は「そう見える」ことと「そうである」こととは違うことに、薄々感づいているので、あまりこういう言葉を口にしないが、中には本気でそう考えている人もいる。

考えてみれば、世の中に「誰でもできる仕事」が、そう簡単に転がっているわけが無いのだが、それに気づかない。

「俺にもできるはずだ」と思って手を出す。
 確かに世の中には「天才」という種類の人間がいて、できるはずだ、で、できてしまう。

 でも、そんな人間は、めったにいない。天才というのは忘れた頃に出現するのだ。

 ほとんどの人間、99.99%の人間は、凡才である。
 当然「できるはず」で、できない。

 簡単な、誰でも書けるはずの「小説」が書けない。書けたとしても、金を取れるレベル。新人賞に入選するレベルの小説を書ける人はめったにいない。

 さて、ここで、どう考えるだろうか?

 書けない理由、入賞しない理由を、どこに求めるか、である。
 その理由を自分に求め、自分の力が至らないのだ、と考える事ができれば、その人は次を書ける。書き続けることができる。

 だが、その理由を自分の力量以外に求める人は、徐々に書けなくなっていく。

「審査員の見る目が無い」
「売れることしか考えていない編集部が馬鹿」
「そもそもライトノベルは程度が低すぎる」

 こういうことを言い出すと、どんどん書けなくなっていく。

 これはつまり「あのブドウは酸っぱいに違いない」と言っているのに他ならない。
 そう言ってしまう、そう考えてしまうと、そこで、ブドウを手に入れるための努力しなくてもいい理由ができてしまうのだ。
 
 否定したものを、手に入れる理由は無いのだ。
「審査員の見る目が無い」のだから書かなくてもいい。
「売れることしか考えていない編集が無能」だから書かなくてもいい。
「程度が低いライトノベル」なんだから書かなくてもいい。

 自分が望むものが手に入らない。
 その理由を合理化するために、その望むものを否定し、貶めれば、自分の中にそれを求める理由が無くなる。
 
 それによって、自分の自我は救われ、自分の自尊心は傷つかなくなる。

 これで、あきらめてしまえば、特に問題は無い。
 作家になることをあきらめて、読者でいることを選択する、もしくは、商業とは違う道を行くことを選ぶのなら、何の問題も無い。

 だが、それでもなお「作家」を目指すとなると、どういうことになるかと言うと
 自分が否定したものよりも、はるかに優れたものを生み出さなくてはならなくなるわけである。つまり

「見る目の無い審査員をあっと言わせる小説」
「売れることしか考えていない編集が、考えを悔い改めるような傑作」
「程度が高い、素晴らしい小説」

 これを書かねばならなくなるわけである。

 自分が否定したものと同じものを書くわけには行かないのだから、そうなるのは当然である。

 そうやって、自分の中のハードルを上げてしまうとどうなるか。
 答えは簡単「書けなくなる」のである。
 何を書いても、どう書いても「これじゃない、これじゃダメだ」になる。

 当然といえば当然のことである。
 天才ならいざしらず。ごく普通の、それもほとんど経験も積んだことが無い、読者でしかなかった人間が、いきなり書き手になって、そんな「至高にして究極の、万人が認め、感動し、賞賛する傑作」なんてものを書けるはずがないのだ。

 ダメだったら、悔しがればいいのだ。
「ああクソ、あのブドウは甘いに違いない」と言えばいいのだ。
「あの新人賞は嬉しいに違いない」と言えばいいのだ。

 だからこそ、次が書ける。次はどうしよう? と考える事ができる。
「あの方法はダメだった、ならばキャラクターをもっとメリハリをつけてみよう」
「あの書き方はダメだった、ならばセリフをもっと短く、すっきりとさせてみよう」
 次の一手を考えることができる
 より目標に近づくために努力することができる。

 目標を否定してしまえば、そこに近づく努力はできない。
 習作を書くことができなくなるのだ。

「あのブドウは酸っぱいに違いない」と言うのは、あきらめた人間の捨て台詞である。
 あきらめていないのなら、決して言ってはいけない。
 あきらめていない人間は「あのブドウは甘いに違いない」と言うべきなのだ【笑

 


 

文化と知性とは記憶のことなのかもしれない。

身内の事を少し書こうと思う。

別に露悪趣味があるわけではない。私の身の上に起こった出来事が、おそらくこれを読んでいる、まだ若い人の将来の上にも起こるかもしれないからだ。

私は1958年生まれである。昭和で言えば33年生まれ。東京タワーが作られた年でもある。
小学校入学時に東京オリンピックがあって、中学一年の時に大阪万博があった。
いわば日本の高度成長の恩恵を一身に浴びて育ってきた世代だ。

父は大正生まれ。母も大正十五年、つまり昭和元年の生まれである。

父が69歳で脳梗塞で倒れたために、静岡の実家を処分して埼玉の私の家の隣に父の家を建て、父が死去したあと、母と兄は隣の家で暮らしてきた。

母がおかしくなったのは、同居の兄が脳梗塞で倒れてからである。
兄が入院した直後に、母も心臓発作で入院してしまった。
幸いにも兄はリハビリの結果、左半身に少しマヒが残る程度で、自力で生活できる程度には回復したが、母はなかなか回復しなかった。

それでも何とか回復して母が退院してきたのは、約一年後。
この頃から、少しずつ母の痴呆が進み始めた。

曜日と時間の感覚が失われ、自分の家の間取りを忘れる。
良く、マンガやドラマで「自分が食事したことを忘れて、メシはまだか? と聞く老人」という老人のパターンがあるが、あれは、誇張でもなんでもなく、本当のことなのだということを
初めて知った。

着替えや食事の世話をする妻の顔を忘れ、家政婦だと思い込む。
夜中の三時に「散歩に行きたい」と言い出す。

このあたりなら、まだ笑い話で済むが、トイレに五分おきに行くようになってしまったのには参った。

本人はさっき自分がトイレに行ったことを忘れているのである。
ひどいときは、ベッドから起きてトイレに行き戻ってくる途中でまたトイレに行くのだ。

これを寝ているとき以外繰り返すのである。
睡眠時間も短く、二時間程度しか寝ない。
二時間寝て、三時間ほどベッドとトイレの往復を繰り返し、また二時間寝る。

そのたびに、家人を呼ぶのである。

去年の暮れからこういった行動が始まり、心臓が悪かった兄が再び入院することになり、私と妻が二交代で24時間付き添うことになった。
正午時頃私が起きて、そのまま翌朝の五時まで母と共にいて、午前五時に妻と交替して正午頃まで寝るのである。

これを三ヶ月ほど続けていた。
これは私が在宅勤務、つまり作家業だからできたのだと思う。

母の徘徊行動が始まってから、福祉課を通じ、施設を当たっていたのだが、どこも一杯で、なかなか空きが無く、この4月にやっと、痴呆老人の保健医療センターが受け入れてくれた。

独身の兄が倒れ、心臓の持病のために歩き回ることも苦しいという状態になったまま、そこに痴呆の進んだ母を抱え込むという、まさに踏んだりけったりの状態で、このままの状態が続けば、私も妻も共倒れになりかねないところだった。

もともと半分引き篭もりのようなもので、家で原稿を書いているのだから、兄と母の面倒を見ながら、原稿を書くというのは簡単だろうと思っていたのだが、そうはいかない。

原稿を書くというのはこれはこれで、集中力を使う作業なのである。

その集中力が続かないのだ。
書いている最中に作業が中断させられると、パソコンの前に戻ってきても、なかなかもとのテンションに戻らないのだ。

なんというか、小説を書くという作業は、その作品世界に没入することでもある。
視点人物になりきって、そこで見えるもの、そこで考えることを作者がトレースするような部分がある。

そのトレース作業を、母に呼ばれると中断しなくてはならないのだ。
トイレの手伝いをして、ベッドのところまで連れて帰って、さて、パソコンの前に戻ると。

すっかりトレースが外れている。
文章を書いても、なんというか「書いているだけ」という状態に戻ってしまうのだ。

必要な情報は書いてある、読める、だが、どこか違うのだ。
これが続くと、書き進む速度が、がたん、と下がる。

十分おきに私を呼び、トイレに行きたがる母を見て、悲しくなった。
母は学歴こそないが、聡明で、洋裁が得意で、子供の頃、私と兄の服は母の手作りだった。
経済的理由もあったのだろう。昭和三十年代の終わり、まだ日本は裕福でも何でもなかった。

知性とは記憶である。人間が物事を判断する基準は経験であり経験とは記憶である。
記憶を失えば、人は子供に戻る。それをすればどうなるか、それをしなければどうなるか、それを知らない存在に戻るのである。

知識とは記憶である。
文化とは知性の蓄積であり、記憶の蓄積である。

何かを思いつくためには、知識が無くてはならない。いくらネットに情報があろうが、ハードディスクに蓄えられていようが、、思いつかねばならないときに、記憶の中にその情報がなければ、何の役にも立たない。

知識を蓄えることを馬鹿にして「そんなのネットで検索すればいいじゃん、覚えるなんて非合理的だ」と思う人は別にそれで構わない。

だが、人間の記憶はまだネットと直接リンクしているわけではない。
ものを考える、思考する、思いつくための作業領域である自分の脳内に、データや情報が入っていなければ、考えることや思いつくことはできない。

そして、そうやって思いついたもの、それは、何かに残さねば消えるのだ。

私が死ねば、私の脳内にある作業領域も知識もすべてが無に還る。
死なずとも、脳が衰え、痴呆が進めば私もまた母と同じように、五分前のことを忘れ、子供のようなメンタリティに変わっていくだろう。

文明とか、文化とか、そういうものは、そういった一人一人の人間の記憶、知性の記録の積み重ねだと思うのだ。

たとえ、自分が死んでも、どこかに残ればそれはこの2013年の時代の記録となって、どこかに積み重なっていく。
文明のひとかけら、一つの要素になる。

書きたい物語があれば書こう。
書きたい論があれば書こう。

書かねば消える。
書けば残る。

その単純にして簡潔な結論に行き着くのだ。


今月末と来月頭に新刊まとめて三冊出ます(2013年最初の更新)

いまさら「あけましておめでとうございます」と言うのもなんだが、2013年最初のブログ更新である。【笑

 なぜ、こんなに更新の時間が開いてしまったか、その理由を書いてもいいが、何を書いても私にヘイトを向ける人間は「言い訳をするな」と言うに決まっているので、理由は書かない。

 「理由を言って見ろ」と言うくせに、理由を言うと「言い訳をするな」と返して、そこから攻撃を始める上司がよくいる。
 そういう上司には「理由を言って見ろ」と言われたら「何を言っても言い訳になりますから申しません、私の責任です」と答えるのがよろしい。
 攻撃の取っ掛かりを無くしてさっさと仕事を始めた方が、お互い幸せである【笑

 さて、今年最初の出版物が、三冊ほぼ同時に書店に並ぶことになった。

 4月27日に、早川書房から「宇宙軍士官学校・3」
 4月27日に、角川スニーカー文庫から「召喚主は家出猫・呼ばれてみれば最前線」
 5月10日に、電撃文庫から「ご主人様は山猫姫・12 帝国再興編」

 なぜ、三冊同時に刊行になったかと言うと、三冊同時に書いていたからである。
 このへんが、今年に入ってから、ブログを更新しなかった理由の一つでもある。

 最初は、こんな風にダンゴになるとは思っていなかった。
 ちゃんと、一カ月おきに三冊出る予定だったのだが、最初の一冊が遅れ、そしてそれが次の一冊を遅れさせ、最後にどうにもならなくなって、三冊を同時進行で書くハメになったわけである。

 運が良かったのが「宇宙軍士官学校」はスペオペ。「召喚主」は魔法世界が舞台のファンタジー。「山猫姫」は架空古代中華世界。と見事にシチュエーションが分かれているために、三冊を同時進行で書いても、混乱が少なかったと言うことである。

 それでも書いていると、主人公の名前を間違えてしまったり、小さなミスは結構あった。

 私はどうやら自作のキャラに思い入れが出来ないタイプらしい。
 私が書きたい物語は「展開」>「キャラ」というものなので、その辺は仕方ないのかもしれない。

 私は、主人公たちが絡む事態が、どう進み、それにどう対処し、どう解決するか。という「展開」が書きたいタイプの人間で、その「展開」が描ければ、キャラは実質どうでもいいのかもしれない。
 展開を描くに足りるだけのデティル、つまり感情移入できる最低限のものさえあれば、それで物語が描けるわけで、それ以外にキャラに望むものは無いわけである。

 私が書く物語のほとんどが、個人の枠の中で物語が進まない。全体を描く物語なのは、この辺りに理由があるような気がする。

 私は個人の戦闘にあまり興味が無い。物語の視点が近すぎるものは、結局個人のレベルで終わってしまう。
 「ケンカが強ければ偉い」と言う価値観は、どうにも好きになれないのである【笑

 個人で出来ることには、限りがある。

 この「厳然とした現実」を、乗り越える方法として「特殊能力」を主人公に持たせると言うのが、ごく一般的なエンタティメントの物語である。
 
 私は「個人で出来ることには限りがある」と言う現実を乗り越える方法として「組織で立ち向かう」という方法を描こうとする。

 組織の力。組織の使い方。
 私はそれを身をもって知ってきたし、組織をより効果的に使う方法を常に考えて生きてきたわけで、この辺の価値観が抜けないのだろう。

 組織をより効果的に使うことが出来れば、個人では立ち向かえない強大なアクシデントにも立ち向かえる。
 
 特殊能力なんか無くても、人間という生き物はそうやって、人類の危機を乗り越えてきたわけである。
 目の前に、そういう現実があり、そういう解決方法があるのだから、それを描くことに何の問題も無いわけである。

 問題があるとしたら「ライトノベルのメイン読者の多くは、組織を知らない」と言う点だろう【笑

 組織は常に個人の敵である。と言う価値観の方が、受け入れられやすいのは仕方が無いが、人生の中を、その価値観だけで生きていける時間はそう長くない。

 英雄とは、ケンカだけが強い人間では無い。
 英雄とは、いかに他人の力を使えるか、を知っている人間である。

 この私の価値観は揺るがない。
 私の書く物語が、この価値観に従うのは当然のことである。

 そういう意味で、確かにライトノベルの価値観とは外れているのだろう。
 しかし、読者が存在し、一定数売れ続けて、私が作家を続けていられる理由は
 この価値観は、間違っていない。と言うことだと思うのだ。

2012年の終わりにここ最近の言いたいことをまとめて言ってみようと思う。

 2012年も最後の日となった。
マヤ暦では、12月21日が最後の日だったらしいが、世界はあいもかわらず続いているようである。

 もしかすると、地球はとっくに滅亡していて、ここでこうやってこの文章を書いている私も、コレをお読みになっているあなたも、すでに肉体は滅び、精神的な残像として残留思念のなかに、日常を構築しその中で日々を過ごしているだけなのかもしれない。

 でもまあ、すべての人に共通する認識が現実だとすれば、幻想でも思念体でも、世の中は続いていくのかもしれない。【笑

 さて、昨年中は、色々な事があり、メディアワークスから山猫姫を三冊、早川JA文庫から宇宙軍士官学校を二冊出版させていただくことができた。
 どちらもシリーズ続行中である。
 
 私が書く小説は、それも皆、いわゆる「売れ線」から大外れの題材で、編集さんが「いいですね!」とは絶対に言わないものである。

 ちょっと前に、ツィッターで、新人賞の下読みさんに「SFと年齢層のミスマッチしている作品は落すように」と言う指示があった。という話が流れたことがある。

 これはある意味で、事実である。
 「SF」や「戦記もの」はライトノベルに向いていないのだ。
 ライトノベルに向いているのは、剣と魔法のファンタジーである。

 ここから先は、私の独断であり、私が考えていることであり、あくまでも私個人の考えであり、「これが正しい」とか「この考えを認めろ」とか「この考え以外は認めない」と言っているわけではない。
 「私はそうは思わない」「それはおかしい」という異論があるのは当然である。
 ここは私のブログであり、私が考えていることをここに述べただけのことである。

 さて、本題に戻ろう。
 なぜ、ライトノベルにSFや、戦記ものが向いていないのか。なぜ、ファンタジーが向いているのか。
 一言で言ってしまえば、作者の自由度の違いである。

 高校生のレベルで「世界レベルを凌駕」できるように、世界を設計できるのは魔法が一番都合がいいのである。

 魔法のような、「作者が言ったもの勝ち」の強みは、作者以上の権威が、現実世界のどこにも存在しないので。読者があれこれ妄想で参加できる余地がある。
 同時に、これが、SFや戦記が敬遠される理由でもあるのだ。

 SFには、根底に科学がある。戦記ものでも、根底に軍事がある。科学も軍事も、ある意味リアリズムの塊なのだ。
 つまり、その世界における最高権威が現実世界に存在しており、作者が好きにできない。上手く作品世界を設定しないと。現実に作者の妄想が押しつぶされてしまうのだ。
 SFを書いてみよう、と思う作家志望者の方で、勘違いしている人が多いのは、物語の世界を自分の得意とする部分にどう持ってくるか。その部分の勘違いである。

 持って来れない部分は、語らない。という手もあるのだが、それを「悪手」と思い込んでいる人が実に多い。

 たとえば「なぜ、ドラえもんが存在しているのに、ドラえもんのところに世界中が未来の技術を求めて殺到しないのか」みたいな部分である【笑
 ドラえもんで、そのへんを説明しても、たぶん、上手く行かないだろう。作品の狙いに合わないリアリティが重さになってバランスが崩れるのは間違いない。

 SFに必要なのは、『無駄に重いリアリティ』では無いのである。。
 リアリティは必要だが、それよりは、『センスオブワンダー』が求められるのだ。そ その点、ドラえもんの持つバランス感覚には教わることが多いと思うのだ。

 もし「必要でない部分は語らない」と言う方法ではなく、正面から描くとすれば、物語が現実に押しつぶされないために、物語の補強に現実を使う。という技術を持っていなければならない。
 妄想を現実で補強して、説得力を持たせ、読者に「あるかもしれない」と思わせる。という手法を知らなければ、そういう物語は書けない。
 
 ライトノベルと言うのは、設定は従であり、キャラクターが主である。説得力はキャラの描写とかそういう雰囲気で持たせることが多い。
 その方が作者の自由度が高いからである。
 だが、それはつまり作者自身が自分の妄想を「現実ではない」と思っているからできる。作家そのものが、自分の書くものを絵空事だと割り切っているからできる書き方なのだ。
 ライトノベルにとって「現実」はノイズにしかならない。ライトノベルは「よく出来た夢」でなくてはならない。読者を現実に戻らせてはならないのである。

 SFと戦記ものが、ライトノベルと相性が良くないものとして、編集さんが嫌う理由は、このあたりにあるような気がする。

 誤解を招くといけないので、説明するが、私は「だから作家志望者はSFと戦記ものを書くな」と言っているわけではない。そこは誤解しないで欲しい。

 商業小説に限らず、小説と言うのは「読者」を獲得して初めて意味があると私は思っている。
 商業小説の場合は、その読者をより多く獲得し、お金を払ってもらわねばならない、という条件が上乗せされるわけである。
 
 この「読者を獲得する」と言う部分を、誤解している方がちょくちょく見られるので、そのことについてこれから書く。

「読者のために書け」と言われると。読者に嫌われたくない、読者の思うがままのものを、これでございますね。とひれ伏して差し出せ。と言われているようにしか捉えられない人がいる。

 作家の書きたいもの、好きなことを捻じ曲げて、読者に媚びろ。と受け取る人がよくいるのだが、誰もそんなことを要求してはいないのだ。
 
 自分の書きたいもの、好きなもの、題材、その「面白さ」を読者に伝わるように書け。と言っているのに過ぎないのだ。

 自分の好きなもの、書きたいもの、それは作者の根っこである。それを動かしてしまったのでは、作品はわけがわからない、根無し草になってしまう。
 読者のことを考えて書け、というのは、その「自分が好きなもの、書きたいもの」と、「読者が受け入れてくれるもの」とを擦り合わせて、作品にしろ、と言っているにすぎない。
 
 読者のことを考えて書け、と言われて、何を書いていいのかわからなくなる人は、おそらく自分の根っこがわかっていないのではないかと思う。
 自分の好きなものがわかっておいれば「擦り合わせる」ことができるのだが、自分が無いから、どうしていいかわからなくなるのだ。
「書きたいものじゃ無くて売れるものを書けと言われる」みたいなことを言い出す。

 そういう人が書きたいのは「読者不在の自己満足のカタマリ」なのだろうか? そうではあるまい。だとしたら、読者のことを考え、自分の好きなもの、書きたいものを、どうやれば読者に伝えられるかを、考えれば良いのである。

 その「伝える技術」こそが、作家の命である。

 これは作家に限った話ではない。創作者の技量というのは「面白い」を“作りだす”ことではなく、「面白い」を“伝える”ことにあると思う。
 
 SFも、戦記ものも、「面白い」ことに変わりはない。でも、それを“伝える”ことができるかどうかは、作者の腕にかかっている。

 SFや戦記ものに、編集さんがダメだしをするのは、SFや戦記が「面白くない」からではなく、それを面白く書くのが難しいからである。

 『何を書くか』ではなく『どう書くか』なのだ。

 最後に、ライトノベルを書きたい人に言っておきたいことがある。
 ライトノベルの読者が読みたがっている物語には「面白い物語」の要素と「心地良い物語」の要素の両方が必要だ。ということである。

 「面白い物語」だけで満足できる読者もいるだろうが、多くの読者は「心地良い物語」も合わせて読みたがっているのだ。

 追い込まれる物語は好きではないし、あとで逆転するとわかっていても、敗北感というのは「心地良い」ものではない。

 それを無くせと言っているのではない。そういった要素を必要以上に前面に押し出した物語は、いくら展開が面白くても、読者の支持は受けられないし、編集さんも「いいね」とは言わないだろう。

 確かに今のライトノベルの主流となっているのは、心地良い物語が多い。だが、それを否定するのはいけない。
 読者が「楽しんでいるもの」を否定してはいけないのだ。読者が「楽しんでいる」のは、嘘偽りのない、本音である。
 読者ひとりひとりが自分の判断と責任で楽しんでいることであり、それを否定するのは、意味がないのである。

「おまえの楽しみ方は間違っている」は大きなお世話以外のなにものでもないのだ【笑

「これから作る作品」を、「今、売れている作品」から分析するのは、誰もがやることなのだが。この時に注意すべきは。今、売れている作品が好きでない人が、これをやると、分析が、著しく皮相的になる危険がある。

 なぜなら、その人は、そういったものが好きでないのだ。面白いと思わないのだ。
 好きでもない、面白くも無いものを「どこがいいのだろう」と分析すれば、ついつい、「こんなバカなものを楽しいと思うやつらは、この程度の連中に違いない」みたいな結論になりかねない。

「その程度の連中には、この程度のものでいいんだろ」みたいな考えで結論を出して、その好きでも面白くも無いものを「売れているから」と言う理由で書いたって、受け入れてもらえるわけが無いのである。

 電撃大賞の〆切まで、あと百日である。
 作家志望者の皆様は、自分の好きなもの、面白いと思うもの、その面白さを読者に伝えるために、ぜひ頑張って戴きたい。

宇宙軍士官学校の電子書籍化について。

 期日はまだはっきり編集さんから聞いていないが、来年一月に早川書房から発売中の「宇宙軍士官学校」の既刊、つまり一巻と二巻が同時に電子書籍化されることになった。

 どういうルートで流れるのか、アマゾンでダウンロードできるようになるのか、そういう詳しいことは、まだわからない。

 今現在、私の書いた本で電子書籍化されているのは、アマゾンでダウンロードできるキンドル版「でたまか・第一部」の3冊と、角川でダウンロードできる「ガンズ・ハート」だけであるが、これに新たに「宇宙軍士官学校」が加わることになる。

 先日「ご主人様は山猫姫・11」が、発売日前にアマゾンで予約数がオーバーし、発売日にはすでに売り切れ。という状態になった。
 
 今現在(12月13日午後4時現在)もアマゾンでは取り扱い不能である。

 電子書籍化すれば、すくなくとも、こういう「売り切れ・取り扱い不能」という状態は起こらない。

 読者の方からウェブサイトのメールで「電子書籍化の許諾をお願いします」という要望を戴いたが、その権限は、私には無いのである【苦笑

 電子書籍化するのは、あくまでも出版社であり、その出版社の方針によって左右される。
 その決定権は、作家には無い。

 つまり、出版社が「この本を電子書籍化しよう」と決定する、その部分に作家は何一つ関与できないのだ。
 
 作家は出版社から「電子書籍化が決定しました、つきましては契約書をお送りしますのでサインして下さい」と言われて、初めて自分の書いた本が電子書籍になることを知るのである。

 電子書籍化されない理由は、作家が許諾を出さないから、という場合もあるだろうが、少なくとも私の場合はそうではない。

 私は基本的に、なんでもありだと思っている【笑
 私の書いたものを電子書籍化するのも、二次利用するのも、すべてご自由に。というのが私の立場である。

 なぜなら、私は作家であり、作家は本を書くのが仕事であり、それで、私の仕事は終わりだと思っているからである。

 本になった後のことは、私の関与すべきことではない。
 本というのは完全な一方通行のメディアである。
 読者が、どんな感想を抱こうと、どう考えようと、作者にはどうしようもないのである。

 百人の人が読めば百人なりの感想や印象を抱くだろう。その印象が、私の考えたものと違っていても、それを訂正する術を私は持っていない。

 コミック化されたときも、私は一切関与しなかった。
 最初の頃、ファミ通の編集さんが、マンガの「ネーム」を送って来られたが、私はそれを断った。
 餅は餅屋に任せるのが一番だと思ったからである。

 小説に出来ることと、マンガに出来ることは違う。
 私はマンガ同人「作画グループ」の一員であり、ずっとマンガに関わってきた。
 みなもと太郎氏の「風雲児たち」のアシスタントもやったことがある。

 自分の書いた物語を、マンガにするとしたら、どう描くかは、私の中にもある。
 しかし、それは「私がマンガを書くとしたら」というものであり、それを他人に要求することはできない。

 私が口を出せるのは、私自身だけである【笑 
 

  




ツィッターで拾った話。

 東北には、なんというか「人の情念」を感じさせるものがある。
 合理と理性では割り切れない、人間という生き物の持つ感情である。

 先日、ツィッターで、こんな話が流れてきた。

福袋 @hukubukuro
仙台の姉が、タクシーの運転手さんから聞いた話。「震災から3回も幽霊を乗せた。お客さんを乗せてドア閉め、○○までと言われ、ああ他所から来た人だったかと思って。そこはもう何もありませんよ、って振り向くと、いない」「そういう時は言われた辺りまで行くんです。帰りたいだろうから…」合掌

 
 この話を読んで心揺さぶられるのは、怪談話の部分ではない。
 後段の、運転手さんの語りである。

「そういう時は言われた辺りまで行くんです。帰りたいだろうから」

 この一言の持つ暖かさは、なんとも表現しようが無い。
 人間の良さ、人間を信じたくなる暖かさ。

 この話を「迷信だ」「非科学的だ」「不合理だ」と、切って捨てるのは簡単だ。
 そして、それが正しいのだろう。

 だが、日本人と言うのは、こういう考え方とこういう価値観で生きてきたのだ。
 
 津軽地方に「雁風呂」という言い伝えがある。
 
 秋になると、遠く北の国から雁が渡ってくる。
 雁は口に一本の枝を咥えている。
 海の上で休む時、雁はその枝を海に浮かべそれに停まって休むのだという。
 日本の海岸に着くと、雁はその枝を浜辺に落として日本の野山に飛んでいく。

 やがて、季節が変わり、春が近づくと、雁は北の国に戻っていく。
 そのとき、この浜辺に寄って、咥えてきた枝を再び咥えて北の空に飛んでいく
 
 浜辺には、生きて還れなかった雁の数だけ枝が残る。
 人々はその枝を拾い集めて風呂を沸かし、旅人に振る舞い、死んだ雁の供養をする。

 日本人と言うのは、こういうメンタリティで生きてきたのである。

 この話が真実なのか、どうなのか、そういうことではない。
 世の中には「正しい」「正しくない」と言う価値観以外にも、いくつもの価値観がある。
 
 グローバルスタンダードと言うのは、そういう日本人のメンタリティを否定し、捨て去ることでしか達成できないものなのだろうか?
 
 私はそうは思わない。
 
 度重なる生存競争と淘汰の先にたどり着く場所は、砂漠である。
 ガラパゴスという名前の共存の概念の先にも、未来はあると思うのだ。




「ご主人様は山猫姫・11」が出ます。

  電撃文庫の「ご主人様は山猫姫・11」が12月10日(アマゾンに拠ると12月8日)に発売になる。
 私の78冊目の本となる(ガンダムアンソロジーを含む)

 例によって「いつもの鷹見一幸」であり、好きな人は好きだろうし、嫌いな人は嫌いな物語である。【笑

 「山猫姫」は1巻から10巻まで、ほとんど部数が落ちていない。シリーズ物はメディアミックス展開しない限り、部数が徐々に落ちていくものだが、山猫姫はその部数の下落がほとんどなく、ほぼ同じ実売部数を保っている。
 
 長期シリーズの部数が落ちていく理由は、読者の方が離れていくからである。
 自分の望んでいる展開がそこに描かれていなければ、読み続ける理由は無いのだから、それは当然である。
 
 メディアミックス展開によって、新規の読者を呼び込むことができれば、読者数は減少よりも新規読者が上回るので、部数は落ちない。

 私の場合は、メディアミックスは、会長の切り札のコミカライズがあるだけで、その他は皆無である。
 山猫姫も、当然メディアミックス展開は、まったく無い。「ご主人様は山猫姫」という名が付いているコンテンツは、電撃文庫の小説だけである。

 コンテンツの存在が広く知られることもなく、当然、マスコミに取り上げられることも無く、地道に本が出ているだけのコンテンツなのに、読者数が落ちない理由は、一つしかない。

「ご主人様は山猫姫」には、固定客がついている。ということである。

ここで誤解してはならないのは、固定客が存在するのは「ご主人様は山猫姫」と言うコンテンツに付いているのであって、私に付いているのではない。ということである。

 私は作家と言うのは「小説」と言うコンテンツを、ちまちまと手作りで製作し、世に送り出している職人だと思っている。
 いわば家具を造っている職人などと、なんら変わるところはない。

 念のために言って置くが、これは私がそう思う。ということであって、これを読んでいる方に「そう思え」とか「そうでなくてはおかしい」と言っているわけではない。
 いや、私はそうは思わない。と言う人がいても当然である。思うのは自由である。

 話を元に戻そう。
 私は、自分を職人だと思っている。脳内にある物語を、こつこつと文章に置き換えて、小説と言う品物にして、世に出しているわけである。

 職人の評価はどこで決まるかと言えば、それは造り出した品物の出来である。
 出来が良ければ、その品物は売れ、問屋も職人もお客さんから対価を戴いて生活できる。
 出来が悪ければ、その品物は売れないし、問屋も「こいつはちょっと引き取れません」と難色を示すだろう。

 客がまず見るのは品物の「出来」であって、それを造った職人の名前ではない。
 誰が造ったものであろうと、出来が良ければお客さんは買ってくれるのである。

 世の中には、作者不詳の物語が本になったものが、山のようにある。
 それが本になった理由は、「面白かった」からである。面白ければ、作者がわからなくても、きっと誰かがそれを本にして世に出すのである。
 作家は誰でもいいのだ。書いたものが面白ければ、それは価値を持つのである。

 鷹見一幸の名前で書いてきた78冊の本のうち、もし、半分が、全然違う名前で書かれていたとしたら、その面白さは消えるだろうか?
 私は、そんなことは無いと思う。作家の名前で面白さが変わるわけが無いのだ。

 だとすれば、作家の名前は、読者が作品を判別するための記号、トレードマーク以外の意味は無いと思うのだ。

 「鷹見一幸印の物語は面白い」と思っていただけるようなコンテンツを造り続けることが、私の仕事であり、私の役目である。

 山猫姫がもうすぐ書店に並ぶので、立ち読みしていただいて、面白そうだと思ったらお買い上げ戴きたい。





 

「すげえ!」と思った経験が、作家の軸になる。

 人間が、作家を志す。その動機はなんだろうか?
 私の場合は「すげえ!」という経験である。

 小説を読んで、マンガを読んで、映画を見て、そして「すげえ!」と圧倒された経験。
 その前に、完全に圧倒され、ひれ伏した経験。

 この経験、体験が、私を作家に導いてくれたのだと思う。

 この「圧倒された経験」があればこそ、それにあこがれるにしろ、それに反発するにしろ、それは自分の軸になる。

 もし、この「すげえ!」という感覚が無かったなら。
 単に「あ、面白い」程度の感慨しか抱かなかったとしたら。

 私はおそらく作家になることは無かっただろうと思う。

 ハインライン、小松左京、筒井康隆、桂米朝、佐藤さとる、横溝正史、アリステア・マクリーン、ウンベルト・エーコ、京極夏彦、みなもと太郎、聖悠紀、川原泉、エラリークィーン、D・J・シマック、E・E・スミス……列記すればきりが無い。
 私は小学生の頃から、こういった先達の送り出した作品を読んで「すげえ!」「すげえ!」と言い続けてきた。

 本屋行って「レンズマン」読んで「すげえ!」「デビルマン」読んで「すげえ!」映画館行って「2001年」見て「すげえ!」「海のトリトン」見て「すげえ!」

 これが私の中学生時代の記憶である【笑

 これらの創作物が私の目標であり、私の軸になっている。
 小説を書いていて不安になったとき。これでいいのだろうか? これは本当に面白いと思ってもらえるのだろうか? と不安になったとき。

 私が過去に「すげえ!」と思った作品が私の軸になってくれた。
 私の書くものが、ぶれずに済んでいるのは、こういった、過去に私が心酔した作品のおかげである。

 どんな風に書けばいいのだろう?
 何を書けばいいのだろう?
 
 そういった不安を抱いた時、常に、私の前に、過去の先達がお書きになった「すげえ」作品群が、道を照らしてくれたのだ。

 「ここに来い」……と。

それは目標であり、道標であり、かがり火であり、そして私が迷走しないための碇であった。
 
「面白い作品」「好きな作品」では、この役目はできない。
そういった作品は軽いのだ。目標にはなるだろう、でも軸にはならない。碇にもならない。

 作品に圧倒された経験。これが無い人には、私が何を言っているのか理解できないかもしれない。
 今までに読んできたどの作品に対しても「俺には書けない、かなわない」と思ったことが無い人には、この感覚は理解できないだろう。
 
 私は、そういう「すげえ」作品たちに近づこうと思ってきた。
 追い抜かすことなんかできっこない。でもせめて、その背中が見えるところまで近づきたいと思ってきた。

 作家になって13年。追いつくどころか、ドンドン離されて。周回遅れでヒイハアぜいぜい言いながら走っている最中である【笑

 話は代わるが、世間はもうすぐ師走。忘年会シーズンである。
 会社勤めの方は、職場で、学生の方はサークルなどで、上司や、諸先輩方と宴席に出ることもあるだろう。

 そういうときに、可愛がられる方法をお教えしよう。
 実に簡単である。
 
「上司(先輩)の仕事振りを見て、真似しようと思います。上司(先輩)は僕の手本です」

 と言えばいいのである。【笑

 人間何が嬉しいと言って、自分が誰かの先達になれることほど嬉しいことは無いのだ。
 そう言ってくれた後輩を、憎む馬鹿はいない。
 たとえ、一ミリでも尊敬できる部分があるなら、そこを拡大して、手本にすればいいのだ。
 まったく手本にする気がない。尊敬するところが無いのなら、まあ仕方が無い。近づかないに限る【笑

 新人作家さんは、諸先輩方の「デビュー作」を暗記しておくといい。
 その作家さんの前に行って
「私は○○先生の△△【デビュー作のタイトル】を読んで「すげえ!」と思って、作家になろうと思いました」と言うのだ。
 きっと可愛がってもらえるはずである【笑

 さて、宇宙軍士官学校について、早くも色々ご感想を戴いた。

「たった15年で世界がこんなに変わるわけが無い、ご都合主義だ」とおっしゃる方もいる。
 そういう方は、明治元年から、明治15年までの間に、日本という国に起きた、テクノロジーの激変と、それに伴う文化や常識の変化をお調べになって欲しい。
 
 ちょんまげと刀、籠と飛脚、移動手段は徒歩だった時代の人々の距離感や認識が、十五年でどれほど変わったか、もし、その時代に生きていれば、それは想像を絶するものだったはずだ。
 五年で鉄道が開通し、日本全国に郵便が届き、籠は人力車に変わり、明治二十二年には東海道線が全通して、東京から神戸まで20時間5分で行けるようになる。
 東海道五十三次を歩いて、江戸から京都まで二週間を要していた時代から、わずか20年で、一日以内でその距離を移動出来るようになったのである。
 
「宇宙軍士官学校」の世界の人類は「文明開化」の真っ只中にいる日本人なのである。
 このことは一巻にも書いてあるのだが、文明開化の知識はあっても、それが人々をどう変えたのか、についてまで考えられる人は少ないのかもしれない。

 作中に「ガンダム」などの単語が出てくることに違和感を覚える方も結構いるようだ。
「宇宙軍士官学校」の作品世界は、はるかな未来でも、この世界とは異なる進化を遂げた異世界の話でもない。
 この、今、我々が暮らしている、この現実世界と地続きの世界である。

 今、この文章をお読みになっている、その瞬間に異星人が訪れた、その十五年後の世界である。
 当然ガンダムは存在するし、エヴァンゲリオンは劇場版が公開されているし、スカイツリーは建っているし、「きのこの山」と「たけのこの里」は抗争を続けているのである。【笑

 作品世界が、現実から遊離していないと納得できない方には、申し訳ないが、これは私の書くものに共通する描き方である。
 
「でたまか」のような、まったく切り離された世界観のスペオペにするには、少々重いテーマを扱うので、その重さを支えるには、現実の枠組みが必要だと考えたわけである。
 ご了承願いたい。

  
 


 



 
 


 

「宇宙軍士官学校」について、色々考えていること。

 本日、11月22日は早川書房から「宇宙軍士官学校」の二巻が発売される日である。

 二巻の書き方は、一巻の書き方と、さほど変わっていない。
 わかりやすく、読みやすく、展開がサクサクと進む。
 
 しかし、内容はちょっとハードになって来ている。
 描かれている内容はハードだが、書き方が軽いので、さほど読者の負担にはならないと思う。

 小説の印象は「語り口」で、かなり左右される。
 わかりやすく読みやすく書くと、結構重い内容も、するっと読んでもらえるのだ。

 私は、今の読者の方にとって、一番重要なのは、この「読み手にストレスを与えない」と言う書き方ではないかと思う。

 内容を深く読もうと思えばいくらでも読める。そういう内容の情報をしっかり持っている物語を、さらりと読ませる。

 これが、私の考える「エンタティメント」である。

 しっかりとした設定とバックグラウンドを持った世界観の話を、しっかりと書くのは、スタンダードな書き方である。

 私はその「書き方」の部分にジュヴナイルの手法を使っている。
 ジュヴナイルとライトノベルの違いは何か。それは、キャラクターの描き方だと思う。

 ジュヴナイルは、作品世界とキャラクターが独立している。平行して描かれる。
 ライトノベルは、キャラクターと作品世界は同一である。世界はキャラクターに付随するものとして描かれる。

 宇宙軍士官学校は、キャラクターを、ほとんど描写していない。女の子も出てくるが、物語を動かす脇役の位置に留まっている。

 唯一主人公に影響を与えるキャラとして描かれているのは、電子人格の「ロボ」だけである。【笑

 私は、宇宙軍士官学校で「展開」を書こうと思っている。
 キャラクターに対する興味で物語を引っ張っていくのではなく、キャラクターの直面する事件に、どう対処するのか、というその思考や方法に対する興味で、物語を引っ張っていけたら、と思っている。
 この点で、一般的なライトノベルとは大きく違う。

 果たして、こういう書き方が、受け入れてもらえるかどうか、おっかなびっくりで一巻を出したのだが、おかげさまで、増刷される程度には売れてくれた。

 そしてこうして何とか二巻も出すことができた。
 
 構想では全五巻くらいでまとめるつもりなので、この後に続く巻も楽しみにしていて欲しい。
 もっとも、売れなければ、その時点で終了であるが。【苦笑



 
 


ブログ更新ついでに広告も更新。

 ツィッターで、私のサイトの「著作紹介に、「宇宙軍士官学校」も「山猫姫9・10」も掲載されていないのですがどうしてですか?」というご質問を受けた。

 理由は、忙しくてめんどくさいから。である【苦笑

 そもそも、ブログ本文からして二ヶ月放置なのだからして、中の記事や広告バナーが更新できるわけが無い。

「雑家屋鷹見商店」のサイトは、実は友人に依頼して作ってもらっている。その友人もまた忙しくなってしまい、こまめな更新ができなくなったので、こうやって日記分だけをブログにしたわけである。

 そしてまたブログも放置。ということではいけないので、なんとか更新したついでに、このブログの左右のバナーも更新してみた。

 左は「最新刊」右は「電子書籍」である。

 最新刊は11月22日発売予定の「宇宙軍士官学校・2」と現段階の山猫姫の最新刊である「山猫姫10」である。

 電子書籍は、現在キンドルでも発害している「でたまか第一部・三冊」である。
 
 実を言うとこれ以外にも電撃文庫の「ガンズ・ハート」も電子書籍化されているのだが、それは角川書店の電子書籍であり、アマゾンで購入はできない。

 こういったアフリエィトをブログに掲載し、収入を得ているという人の話をよく聞くが、私のこのブログの場合、今年一月から現在までの間のアフリエィト収入は1000円ちょっとである【笑

 更新もせずに二ヶ月放置するような人間では、アフリエィトのバナーを押して物を買うようなお客さんが来るわけが無い。

 流行を追いかけ、もしくは便利な品物、役に立つ品物を見つけ出し、こまめに更新して、お客さんを逃がさない、そういう努力をしてはじめて、対価が生じるわけである。

 ネットもリアルもその辺の理屈は同じである。


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