雑家屋・鷹見商店 鷹見一幸【榎野英彦】の日記
https://takazaka-enokino.blog.ss-blog.jp/
(個人の感想であり、納得するかどうかには個人差があります)
鷹見一幸【榎野英彦】
2016-04-04T22:17:08+09:00
ja
-
ブログ本文中の単語抜けについて。
https://takazaka-enokino.blog.ss-blog.jp/2016-04-04
先日から再開したブログについて、ブログ本文の所々で単語が抜けており、意味がよくわからないところがある。という指摘を戴いた。確かに、ある種のブラウザ、それも広告のたぐいを表示させないように設定を施したり、広告を非表示にするアプリを入れている方の中には、本文が『私にできることは、それを文章で描き出し、「●●」として渡すことだけなのだ。』『同じように○○を、どう動かせば◎◎のか、どう描けば見ている人間の琴線をくすぐるのか、という蓄積もある。』のように文の中の「●●」 「○○」 「◎◎」の部分に入るべき単語が抜けて表示されている方がいると思う。「●●」には「小説」「○○」には「女の子」「◎◎」には「可愛い」 という単語がそれぞれ書かれているのだが、この部分だけが「 」のような空白ではなく、完全に無いもの、つまり「脱字」として表示されているのだ。実を言うと私のブラウザ画面もそうやって表示されている。これはソネットのブログにある「広告ワードの自動リンク機能」によるものである。つまり、ブログを書くと、ソネットがその文章の中から勝手に単語を抜き出し、その単語に応じた広告をリンクするという機能である。設定で消しても「入力されない場合はこっちで選びます」ということで、勝手に抜き出され、広告とリンクをされてしまう。 「広告設定で停止できます」ということで、停止設定を選択しても、私のブラウザのように「アドストップ」のようなアプリを入れていると、リンクを張っているとみなされて、表示されない。 念の為に記しておくが、私はソネットのファミリー会員であり、きっちり家族分の会費を払っている。言わばお金を払ってこのブログを使うユーザーであり、無料ユーザーではない。 そういう仕様なのだから、それに従わざるを得ないことは重々承知しているが、会費を払った上でさらに広告の片棒を担がねばならない、それも、私のあずかり知らぬ単語を勝手に抽出されて、自分の書いた文章に勝手にリンクを貼って広告を表示することを求めたつもりはない。 この「自分の知らないところで、自分の文章が利用されている」ということの気分の悪さは、文章で食っていく身であるがゆえに感じることであって、私以外は、この機能を便利だとお考えになっているのかもしれないので、これはあくまでも、私の個人的な「気分の悪さ」であることを記しておく。
未分類
鷹見一幸【榎野英彦】
2016-04-04T22:17:08+09:00
ブログ本文の所々で単語が抜けており、意味がよくわからないところがある。という指摘を戴いた。
確かに、ある種のブラウザ、それも広告のたぐいを表示させないように設定を施したり、広告を非表示にするアプリを入れている方の中には、本文が
『私にできることは、それを文章で描き出し、「●●」として渡すことだけなのだ。』
『同じように○○を、どう動かせば◎◎のか、どう描けば見ている人間の琴線をくすぐるのか、という蓄積もある。』
のように文の中の「●●」 「○○」 「◎◎」の部分に入るべき単語が抜けて表示されている方がいると思う。
「●●」には「小説」
「○○」には「女の子」
「◎◎」には「可愛い」
という単語がそれぞれ書かれているのだが、この部分だけが「 」のような空白ではなく、完全に無いもの、つまり「脱字」として表示されているのだ。
実を言うと私のブラウザ画面もそうやって表示されている。
これはソネットのブログにある「広告ワードの自動リンク機能」によるものである。
つまり、ブログを書くと、ソネットがその文章の中から勝手に単語を抜き出し、その単語に応じた広告をリンクするという機能である。
設定で消しても「入力されない場合はこっちで選びます」ということで、勝手に抜き出され、広告とリンクをされてしまう。
「広告設定で停止できます」ということで、停止設定を選択しても、私のブラウザのように「アドストップ」のようなアプリを入れていると、リンクを張っているとみなされて、表示されない。
念の為に記しておくが、私はソネットのファミリー会員であり、きっちり家族分の会費を払っている。言わばお金を払ってこのブログを使うユーザーであり、無料ユーザーではない。
そういう仕様なのだから、それに従わざるを得ないことは重々承知しているが、会費を払った上でさらに広告の片棒を担がねばならない、それも、私のあずかり知らぬ単語を勝手に抽出されて、自分の書いた文章に勝手にリンクを貼って広告を表示することを求めたつもりはない。
この「自分の知らないところで、自分の文章が利用されている」ということの気分の悪さは、文章で食っていく身であるがゆえに感じることであって、私以外は、この機能を便利だとお考えになっているのかもしれないので、これはあくまでも、私の個人的な「気分の悪さ」であることを記しておく。
]]>
-
スキルの蓄積とは
https://takazaka-enokino.blog.ss-blog.jp/2016-03-29-1
昨日の記事で、さらっと流した「蓄積」という言葉について、少し補足しておこうと思う。私は昨日の記事の中で「蓄積がない」と書いたが、それを「経験値」と言い換えたほうが良かったかもしれない。実写、アニメに関わらず、映像関係の表現方法には「見せ方」というものがある。「見せ方」というのは、描き出したい事象をどう映像にするのか、そのカメラアングルや、絵の動かし方の総称であり、アニメで言うところの演出の方が担当する部分でもある。 この作業は、言わば映像化する際の肝の部分であり、文章で書かれたシナリオを、絵にするというのは、誰にでもできるわけではない。それには特別な才能を必要とするのだ。 カメラを引くのか,寄るのか、俯瞰で描くのか、ローアングルで迫力を出すのか。 それは、その物語をどう描くのか、という意志によって決まり、技巧によって成立する。 そして、その技巧は、経験によって積み重なって行く。 時代劇を例に取って説明するとわかりやすいかもしれない。かつて「東映時代劇」と呼ばれた一ジャンルがあった。 時代劇映画は戦前戦後を通じて人気ジャンルであり、数えきれないほどの時代劇が製作され、コメディタッチからシリアスな作品まで、様々な技法が凝らされ、一種の様式美と言っても良いほどの類型パターンが作られた。 例えば、時代劇で「果たし合い」を描くとする。 演出家の脳内には、過去の時代劇で「果たし合い」が、どう描かれてきたのか、という蓄積がある。 全く何もない所からひねり出すのではなく、過去の作例をたたき台にして、その上に自分なりの描き方を乗せることができる、ということのメリットは大きい。 何よりも、脳内のコストが違う。 過去に誰も映像化しなかった概念を、新しく映像として創り出せ、と言われたら、必死に考え、試行錯誤を繰り返し、それでも、作れるかどうかわからない。その不安と重圧に比べれば、過去の作品という名前の下敷きがあるというのは、本当に楽である。 過去に経験の無い所から、何かを創り出せと言われても簡単に作れるものではない。 余談であるが、スタンリー・キューブリックが映画「2001年宇宙の旅」を撮影する前に、生物学者を集めて「過去に地球上に存在した生物の特徴を持たない、全く新しい生物のビジュアルを考えてくれ」と頼んだが、誰ひとりとしてその生物を思いつけなかった。という話がある。 この話の出典は明らかではないし、私の思い違いかもしれないので、..
未分類
鷹見一幸【榎野英彦】
2016-03-29T22:00:38+09:00
私は昨日の記事の中で「蓄積がない」と書いたが、それを「経験値」と言い換えたほうが良かったかもしれない。
実写、アニメに関わらず、映像関係の表現方法には「見せ方」というものがある。
「見せ方」というのは、描き出したい事象をどう映像にするのか、そのカメラアングルや、絵の動かし方の総称であり、アニメで言うところの演出の方が担当する部分でもある。
この作業は、言わば映像化する際の肝の部分であり、文章で書かれたシナリオを、絵にするというのは、誰にでもできるわけではない。それには特別な才能を必要とするのだ。
カメラを引くのか,寄るのか、俯瞰で描くのか、ローアングルで迫力を出すのか。
それは、その物語をどう描くのか、という意志によって決まり、技巧によって成立する。
そして、その技巧は、経験によって積み重なって行く。
時代劇を例に取って説明するとわかりやすいかもしれない。かつて「東映時代劇」と呼ばれた一ジャンルがあった。
時代劇映画は戦前戦後を通じて人気ジャンルであり、数えきれないほどの時代劇が製作され、コメディタッチからシリアスな作品まで、様々な技法が凝らされ、一種の様式美と言っても良いほどの類型パターンが作られた。
例えば、時代劇で「果たし合い」を描くとする。
演出家の脳内には、過去の時代劇で「果たし合い」が、どう描かれてきたのか、という蓄積がある。
全く何もない所からひねり出すのではなく、過去の作例をたたき台にして、その上に自分なりの描き方を乗せることができる、ということのメリットは大きい。
何よりも、脳内のコストが違う。
過去に誰も映像化しなかった概念を、新しく映像として創り出せ、と言われたら、必死に考え、試行錯誤を繰り返し、それでも、作れるかどうかわからない。その不安と重圧に比べれば、過去の作品という名前の下敷きがあるというのは、本当に楽である。
過去に経験の無い所から、何かを創り出せと言われても簡単に作れるものではない。
余談であるが、スタンリー・キューブリックが映画「2001年宇宙の旅」を撮影する前に、生物学者を集めて
「過去に地球上に存在した生物の特徴を持たない、全く新しい生物のビジュアルを考えてくれ」と頼んだが、誰ひとりとしてその生物を思いつけなかった。という話がある。
この話の出典は明らかではないし、私の思い違いかもしれないので、このエピソードの信憑性は無いが。このエピソードがそれなりの説得力を持っているのは、人間の発想は過去に得た知識の蓄積の中からしか生まれない。という真理を表しているからではないか、と私は考える。
そして話は昨日の記事に戻る。
ロボットやモビルスーツを、どう動かせばカッコイイのか、どう描けば見ている人間の琴線をくすぐるのか、という蓄積はある。
同じように女の子を、どう動かせば可愛いのか、どう描けば見ている人間の琴線をくすぐるのか、という蓄積もある。
しかし、「合戦をどう描くか」に関しては、その蓄積がないのだ。
誰も、そんなシチュエーションを描こうとしてこなかったし、描く必要もなかったのだ。だから、描こうとしても方法論も技法も確立していない。もし、苦心惨憺して映像化したとしても、果たして売れるかどうかもわからない。今の映像業界で、そんなリスクを負う人間はいないだろう。
以上、証明終わり。(笑
というわけで、私は高望みをせずに、自分のできることをできる範囲で続けていこうと思っている。
脳内妄想を他人に読んでもらえることは、光栄の至りなのだから。
]]>
-
「合戦」を描くということ。
https://takazaka-enokino.blog.ss-blog.jp/2016-03-29
「宇宙軍士官学校・10」が発売されて5日ほど過ぎた。31日には電子書籍版も配信されるらしい。ツィッターなどで感想を検索すると、そこそこ評判も良さそうなので少し安心した。 そこそこ評判もよく、ドカン、とまでは行かないが、そこそこ売れているとはいえ、あいも変わらずメディアミックスとは無縁であり、中堅と言えば聞こえはいいが、いわゆる「知る人ぞ知る」レベルの作家業である。 まあ、人間何よりも大切なのは「身の程を知る」ことであり、現状に不満を抱いても、それが自分の努力ではどうにもならないのなら、下手な望みは持たない方がいいのである。 メディアミックス、特にアニメについては、業界に結構知り合いがいるので、色々話をすることもあるのだが、今のアニメの制作側からの視点で自分の作品を見れば、これほど「美味しくない」コンテンツは、珍しい。 まず「ネームバリュー」が無い。作家もそうだが、作品に客を惹きつけるものがない。 二次創作で盛り上がる気配もなければ、熱狂的に支持してDVDを買ってくれそうなファンもいない。どう見ても投下した資本を回収できそうにない。 また、コンテンツの内容も、作画や演出に苦労しそうな大軍勢の合戦とか、大艦隊とか、動かすのに手間のかかるものばかり出てくる。 メカならCGでなんとかなるとしても、山猫姫のような人間同士の合戦シーンを描くには、絵を描く側にそれなりの蓄積が必要だが、それなりの腕のある原画家や作画監督を使うには、マイナーすぎて、資本を投下するにはリスクが大きすぎる。「合戦シーン」をどう描くか。というのは、アニメで言うところの「コンテを切る」部分である。 私が「合戦シーン」のコンテの完成形を見たのは、マンガ版「風の谷のナウシカ」の帝国軍の騎兵隊が立て籠もった城塞を土鬼(ドルク)の大部隊が攻城砲を並べて包囲している中を、クシャナ率いる騎兵隊が敵中突破して攻城砲を破壊するエピソードのコマ割である あの一冊は、なんというか、こう、鬼気迫るものがある。宮崎さんが本当にやりたかったことは、あの合戦シーンではなかったのか。と思わせる力の入れ方である。 もし私が一夜にして大金持ちになったら、その金をつぎ込んで、あのエピソードだけをアニメにしたいと、本心から思う。 「合戦シーン」というのは、長い間、実写映画の世界で描かれてきた。特に、国家予算をつぎ込んで作られたソビエト映画の合戦シーンは、人的資源を無尽蔵につぎ込んで作られてお..
未分類
鷹見一幸【榎野英彦】
2016-03-29T02:35:44+09:00
ツィッターなどで感想を検索すると、そこそこ評判も良さそうなので少し安心した。
そこそこ評判もよく、ドカン、とまでは行かないが、そこそこ売れているとはいえ、あいも変わらずメディアミックスとは無縁であり、中堅と言えば聞こえはいいが、いわゆる「知る人ぞ知る」レベルの作家業である。
まあ、人間何よりも大切なのは「身の程を知る」ことであり、現状に不満を抱いても、それが自分の努力ではどうにもならないのなら、下手な望みは持たない方がいいのである。
メディアミックス、特にアニメについては、業界に結構知り合いがいるので、色々話をすることもあるのだが、今のアニメの制作側からの視点で自分の作品を見れば、これほど「美味しくない」コンテンツは、珍しい。
まず「ネームバリュー」が無い。作家もそうだが、作品に客を惹きつけるものがない。
二次創作で盛り上がる気配もなければ、熱狂的に支持してDVDを買ってくれそうなファンもいない。どう見ても投下した資本を回収できそうにない。
また、コンテンツの内容も、作画や演出に苦労しそうな大軍勢の合戦とか、大艦隊とか、動かすのに手間のかかるものばかり出てくる。
メカならCGでなんとかなるとしても、山猫姫のような人間同士の合戦シーンを描くには、絵を描く側にそれなりの蓄積が必要だが、それなりの腕のある原画家や作画監督を使うには、マイナーすぎて、資本を投下するにはリスクが大きすぎる。
「合戦シーン」をどう描くか。というのは、アニメで言うところの「コンテを切る」部分である。
私が「合戦シーン」のコンテの完成形を見たのは、マンガ版「風の谷のナウシカ」の帝国軍の騎兵隊が立て籠もった城塞を土鬼(ドルク)の大部隊が攻城砲を並べて包囲している中を、クシャナ率いる騎兵隊が敵中突破して攻城砲を破壊するエピソードのコマ割である
あの一冊は、なんというか、こう、鬼気迫るものがある。宮崎さんが本当にやりたかったことは、あの合戦シーンではなかったのか。と思わせる力の入れ方である。
もし私が一夜にして大金持ちになったら、その金をつぎ込んで、あのエピソードだけをアニメにしたいと、本心から思う。
「合戦シーン」というのは、長い間、実写映画の世界で描かれてきた。特に、国家予算をつぎ込んで作られたソビエト映画の合戦シーンは、人的資源を無尽蔵につぎ込んで作られており、「戦争と平和」のナポレオン戦争に至ってはエキストラだけで数万人という規模である。
実を言うと、ナウシカの土鬼との合戦シーンは、ソビエト映画の「イワン雷帝」のイメージが強く出ているように思える。おそらく、ナウシカを描いた時の宮崎氏の脳内に、あったイメージの根源の一つであろうと推察する。
CGが発達し、無数の人間の集団を自由に動かせる時代となった今こそ、単なる「モブ」ではない、意志を持った軍勢として描き出した物語が見たいと思う。
私の脳内にしか存在しない「合戦シーン」
その迫力、その面白さを他人に伝える手段を、私は持っていない。映像を作る技術も人を雇う資本もない。
私にできることは、それを文章で描き出し、「小説」として渡すことだけなのだ。
小説というメデイアは、映像などのメディアに比べれば地味で、多くの人々に受け入れられるものではない。しかし、映像では描ききれない、もしくは描くには膨大な資本を必要とする題材。たとえばひとつの国家の興隆と滅亡、ひいては地球の滅亡まで、ほとんど資本の投下なしに描けるメディアである。
そう考えると、メディアミックスの余地が無い私のコンテンツは、小説に特化しているだけなのかもしれない。
]]>
-
アカウントが判明しました。
https://takazaka-enokino.blog.ss-blog.jp/2016-03-21
一年以上放置していた、ブログが復活できた。長い間放置していた理由は、so-netの運営の方から「アカウントのセキュリティが低いので切り替えてくれ」という通知が来ていたらしいのだが、メールが、なぜかスパム扱いになって、自動的に削除していたので、全く気が付かず、ある日を境に、ログインできなくなったためである。 期限までに切り替えなければ、運営の方で強制的に以前のアカウントを停止し、新しいアカウントを配布する。ということだったらしいが、その時の新しいアカウントを、メモした紙を紛失し、以前のパソコンのハードディスクがクラッシュしたためにメールデータも取り出せなくなり、仕事も忙しいし、プライベートでも色々あって、ブログのアカウントの復活、という仕事の優先順位が、どんどん後回しになっていったためである。気がつけば「宇宙軍士官学校」も10巻になり、この3月24日には書店に並ぶことになった。この「宇宙軍士官学校」については「俺、つええ! なキャラである有坂恵一が、宇宙空間で無双するよくある話」と言う方が結構いるらしいが、いわゆる少年マンガ的な「俺つええ!」なヒーローが戦う話とは、大きな違いがあるのだが、そのことに気がついている人はいないようだ。その違いを、ひとことで言うと「宇宙軍士官学校は、主人公のテンションと、勝負の勝敗に、何の関係もない」という部分である。 いわゆる「俺つええ!」的な構造を持つ物語は、主人公のテンションがすべてである。主人公がテンションを上げ、物語を引っ張っていくことで、超人的な力を発揮し、強大な敵に勝つ。というのが、セオリーである。 いかに主人公のテンションを上げるか、に作者も、読者も関心が無くのである。 だが、宇宙軍士官学校の物語構造はそうではない。主人公がテンションを上げようが、無双の腕前を持っていようが、勝つときは勝つし、負けるときは負けるのである。 なぜこういう書き方をするのか。それは簡単な話で「宇宙軍士官学校」は戦争を描いているからであり、個人戦闘を描いているわけではないからである。 「ルーデル」がいても、ドイツは負けたし、「シモ・ヘイヘ」がいても、フィンランドは勝てなかった。簡単に言ってしまえば、そういうことなのかもしれない。 さて、ブログが復活したついでに、ちょっと文章について考えていることを書いてみようと思う。 私は、読みやすい文章というものは、文章に含まれた情報量が、適量であるか、もしく..
未分類
鷹見一幸【榎野英彦】
2016-03-21T01:24:06+09:00
長い間放置していた理由は、so-netの運営の方から「アカウントのセキュリティが低いので切り替えてくれ」という通知が来ていたらしいのだが、メールが、なぜかスパム扱いになって、自動的に削除していたので、全く気が付かず、ある日を境に、ログインできなくなったためである。
期限までに切り替えなければ、運営の方で強制的に以前のアカウントを停止し、新しいアカウントを配布する。ということだったらしいが、その時の新しいアカウントを、メモした紙を紛失し、以前のパソコンのハードディスクがクラッシュしたためにメールデータも取り出せなくなり、仕事も忙しいし、プライベートでも色々あって、ブログのアカウントの復活、という仕事の優先順位が、どんどん後回しになっていったためである。
気がつけば「宇宙軍士官学校」も10巻になり、この3月24日には書店に並ぶことになった。
この「宇宙軍士官学校」については「俺、つええ! なキャラである有坂恵一が、宇宙空間で無双するよくある話」と言う方が結構いるらしいが、いわゆる少年マンガ的な「俺つええ!」なヒーローが戦う話とは、大きな違いがあるのだが、そのことに気がついている人はいないようだ。
その違いを、ひとことで言うと
「宇宙軍士官学校は、主人公のテンションと、勝負の勝敗に、何の関係もない」
という部分である。
いわゆる「俺つええ!」的な構造を持つ物語は、主人公のテンションがすべてである。主人公がテンションを上げ、物語を引っ張っていくことで、超人的な力を発揮し、強大な敵に勝つ。というのが、セオリーである。
いかに主人公のテンションを上げるか、に作者も、読者も関心が無くのである。
だが、宇宙軍士官学校の物語構造はそうではない。主人公がテンションを上げようが、無双の腕前を持っていようが、勝つときは勝つし、負けるときは負けるのである。
なぜこういう書き方をするのか。それは簡単な話で「宇宙軍士官学校」は戦争を描いているからであり、個人戦闘を描いているわけではないからである。
「ルーデル」がいても、ドイツは負けたし、「シモ・ヘイヘ」がいても、フィンランドは勝てなかった。簡単に言ってしまえば、そういうことなのかもしれない。
さて、ブログが復活したついでに、ちょっと文章について考えていることを書いてみようと思う。
私は、読みやすい文章というものは、文章に含まれた情報量が、適量であるか、もしくは少し足りないくらいの
域に留まっている文章ではないか、と考えている。
そんな抽象的なことを言われてもわからん、と言われるだろうから、少し例を挙げてみる。
『机の上にバナナが置いてある』という情景を文章で描くとしたら、どう書くだろう。その情景の情報は
「机」「上」「バナナ」である。
だが、これだけでは、原始人と会話しているようなものなので、文章にしてみよう
「机の上にバナナが置いてある」
これで文章になった。だが、これは情報を文章にしただけで、味も素っ気もない。だが、それでも構わないのだ。読者に伝えたい情報が、それだけならば、これで十分なのだ。
だが、これ以外に読者に伝えたい情報があるならば、この文章に言葉を足していくことになる。
「バナナが置かれている意味を読者に伝えたい時」
「誰が置いたのか、その人物の情報に広げたい時」
そういう意図を持って、机の上に置かれたバナナを描くとすれば
「机の上に(ちょこんと)バナナが置いてある」
「机の上に(忘れ物のように、ちょこんと)バナナが置いてある」
といった形容詞で補うことになる。
この場合「ちょこん」というオノマトペは幼い感覚を読者に与えるので、バナナを置いていった人物の説明の意味も持つ。「忘れ物」という言葉から受けるイメージは「おっちょこちょい」「あわてもの」というものなので、合わせて使うと、それだけでバナナを置いていった人物のイメージを読者の中に作ることができる。
机の上のバナナについて、こういった情報を補うと、読者の興味はどこにいくのか。それは「誰が置いたのか」という、バナナを置いた人物に興味が向く。
向かなくても、少なくともここから、バナナを置いた人物の情報に記述が向かっても、読者は違和感を覚えない。そのまま受け入れてもらえるのだ。
その人物のイメージはどんなものだろうか?
「年齢四十代半ば、体格ガッチリ、右目に黒い眼帯を施し、迷彩服を着て髭を生やし、腰にはガバメントが入ったホルスター」な人物が浮かぶ人はまずいないだろう。
それを狙ってあえて逆を張ることもできるが、そういうのはあまりオススメしない。(笑
順当に考えて、「ちょっとおっちょこちょいの、年下の女の子」というイメージではないだろうか。
こういうことを書くと「読者はそんなこと考えてない」という人がよくいる。
確かに、いちいちそこまで意識の上に浮かべる人間はいない。中にはいるかもしれないが、ほとんどは読み飛ばしているだろう。
だが、その意識の上に浮かんでいない部分で、読者は文章を読み取っているのである。
たったこれだけの文章で、印象が、ガラリと変わって、読みやすくなるわけではない。だが、こう言った細かい情報の積み重ねが、文章の読みやすさに繋がっていく。
逆に言うならば、その無意識に受け取る情報が無駄に多いと、読者はお腹いっぱいになってしまうのだ。
情報は、トランプの手札のようなものである。
受け取った手札が読者の脳内で「役」を作れば、読者はそれを「ああ、これはこういうことか」と納得して手札から取り除くことができる。
だが、情報、つまり手札が多いと、読者は持ちきれなくなる。印象が散漫になって、先を読む気が失われていくのである。
ブログが復活したとはいえ、締め切りは相変わらずなので、定期的に更新することはできないだろうが、興味があれば、また覗きに着ていただけると嬉しい。
]]>
-
終了間際の「妙高」の車内で「とりめし」を食べる。
https://takazaka-enokino.blog.ss-blog.jp/2015-03-03
なぜか、無性に駅弁が食べたくなるときがある。 特に、仕事が詰まって、家から一歩も出ないで原稿を書いているときなどに、そうなる。 私は鉄道マニアで、それも「乗り鉄」と呼ばれるタイプの人間で、列車に乗って駅弁を食うのが大好きな人種でもある。仕事が詰まって、列車に乗る時間が無いと、せめて駅弁だけでも。という感覚になるのだ。 スーパーなどでやっている「駅弁フェア」で買った駅弁でも充分満足できるので、我ながら、結構単純な人間だと思っている。 余談だが、スーパーやデパートで開催される「駅弁フェア」のような催し物は、秋から冬にかけて、のみ行われる。というのを御存知だろうか。 駅弁は作ってから時間を置いて食べても美味しいように調理されている。それと同時に、時間を置いても痛みにくいように工夫されている。 しかしそれでも、温度が高いところに置いておけば、食中毒の可能性は高くなる。 そのため、一日の平均気温が二十度を超える季節は、駅弁大会は開かないのだ。 ひと昔前より冷蔵技術が発達し、衛生管理が厳重になったとしても、駅弁を扱う業者さんは、気温の基準を守り続けている。 料理にとって最も重要なことは、美味しさを追求することではない。安全であることだ。 安全が追求できないのなら、いくら美味くともそれは料理として失格である。 話が逸れた。 余談が長くなるのは悪い癖である。【笑 先日「宇宙軍士官学校・7」の原稿を入稿して、すぽん、と半日ほど時間が出来たのだが、ちょうどこの時間が出来た時と「駅弁食いたい時」が重なってしまった。 脳内に浮かんだのは「高崎駅に行って、鳥めし弁当を買ってこよう!」という衝動だった。 車を本庄早稲田駅前の駐車場に止めて、「たにがわ」で高崎に行き、「とりめし」を買って、ふと、時刻表を見ると、臨時の「あさま」が来るではないか。むくむくと、乗り鉄根性が沸き上がり、その場で長野まで特急券と乗車券を買って乗り込んでしまった。 長野に到着して、在来線のホームを見ると、旧国鉄色の特急車両が止まっている。快速「妙高」である。 碓氷峠が廃止になり、かつての信越線が第三セクター「しなの鉄道」となって、終わりを告げた、かつての特急「あさま」の車両が、余生を送っていたのが、この長野と直江津を結ぶ、快速「妙高」である。 時刻表を見ると、発車まで40分以上ある。車内清掃は終わり、自由に乗り降りできる状態で、ホームの止まっている「妙高」を見て、..
未分類
鷹見一幸【榎野英彦】
2015-03-04T00:27:28+09:00
特に、仕事が詰まって、家から一歩も出ないで原稿を書いているときなどに、そうなる。
私は鉄道マニアで、それも「乗り鉄」と呼ばれるタイプの人間で、列車に乗って駅弁を食うのが大好きな人種でもある。仕事が詰まって、列車に乗る時間が無いと、せめて駅弁だけでも。という感覚になるのだ。
スーパーなどでやっている「駅弁フェア」で買った駅弁でも充分満足できるので、我ながら、結構単純な人間だと思っている。
余談だが、スーパーやデパートで開催される「駅弁フェア」のような催し物は、秋から冬にかけて、のみ行われる。というのを御存知だろうか。
駅弁は作ってから時間を置いて食べても美味しいように調理されている。それと同時に、時間を置いても痛みにくいように工夫されている。
しかしそれでも、温度が高いところに置いておけば、食中毒の可能性は高くなる。
そのため、一日の平均気温が二十度を超える季節は、駅弁大会は開かないのだ。
ひと昔前より冷蔵技術が発達し、衛生管理が厳重になったとしても、駅弁を扱う業者さんは、気温の基準を守り続けている。
料理にとって最も重要なことは、美味しさを追求することではない。安全であることだ。
安全が追求できないのなら、いくら美味くともそれは料理として失格である。
話が逸れた。
余談が長くなるのは悪い癖である。【笑
先日「宇宙軍士官学校・7」の原稿を入稿して、すぽん、と半日ほど時間が出来たのだが、ちょうどこの時間が出来た時と「駅弁食いたい時」が重なってしまった。
脳内に浮かんだのは「高崎駅に行って、鳥めし弁当を買ってこよう!」という衝動だった。
車を本庄早稲田駅前の駐車場に止めて、「たにがわ」で高崎に行き、「とりめし」を買って、ふと、時刻表を見ると、臨時の「あさま」が来るではないか。むくむくと、乗り鉄根性が沸き上がり、その場で長野まで特急券と乗車券を買って乗り込んでしまった。
長野に到着して、在来線のホームを見ると、旧国鉄色の特急車両が止まっている。快速「妙高」である。
碓氷峠が廃止になり、かつての信越線が第三セクター「しなの鉄道」となって、終わりを告げた、かつての特急「あさま」の車両が、余生を送っていたのが、この長野と直江津を結ぶ、快速「妙高」である。
時刻表を見ると、発車まで40分以上ある。車内清掃は終わり、自由に乗り降りできる状態で、ホームの止まっている「妙高」を見て、「そうだ、どうせなら、高崎駅で買った駅弁を、妙高の車内で食べよう!」と思い立った私は、停車中の妙高の車内に乗り込み、早速駅弁を広げた。
特急あさまの車内で、何度も食べたことのある「とりめし」は高崎駅の駅弁業者「たかべん」が作っている。
たかべん、の駅弁は、「だるま弁当」が有名だが、私は「とりめし」の方が好きである。
鶏肉を入れた炊き込みご飯を使った「とりめし弁当」は戦前からあるもので、高崎以外にも、秋田県の大舘の「鶏めし」や、九州の鳥栖と折尾の「かしわめし」、名古屋の「名古屋コーチンとりめし」と言った、有名な駅弁が揃っている。
大舘の「鶏めし」は有名で、先日大雪でトワイライトエクスプレスが、立ち往生したときに、乗客に配られたのが、この大館駅の「鶏めし」で、乗車していた鉄道マニアの中には、遅延してくれたおかげで、名物駅弁を食べることが出来た。と喜んだ人もいたらしい。
またまた余談であるが。普通、駅で駅弁を売る業者は、一つか二つだが、東北地方の大きな駅には、駅弁業者が複数入っていることが多い。今はもう廃業してしまった業者も多いが、なぜ、駅が複数の駅弁業者を駅にいれているのかというと、今回の大雪で列車が立ち往生してしまったときなどに、食糧の確保をするために、常に複数の業者を確保して、大量の注文にも対応できるようにしていたからだ。という話がある。
道路網が貧弱で、鉄道以外に交通手段が無かった時代。鉄道業務は非常時の乗客の食糧確保ということまで考えていたわけである。
またまた話が外れた。 「とりめし」の話である。
「とりめし」「鳥めし」「鶏めし」「かしわめし」と、色々な呼び名があるが。「鶏飯」とかいて「けいはん」と呼ぶ料理もある。
これは、駅弁ではない。奄美大島の名物料理である。
白いご飯の上に、鶏のスープをかけて食べる、汁掛けめしの一種で、雰囲気としてはお茶漬けに近い。
暦の上では三月といえば春であるが、まだまだ平均気温は低い。
スーパーやデパートの「駅弁大会」も、まだ当分は楽しめそうだ。
仕事が一段落するまでは、出掛けることも無く、スーパーの駅弁フェアを楽しみに生きて行こうと思っている。
「鶏飯」(けいはん)を食べてみたい、とお考えの方には、フリーズドライの商品がいくつか出ているので、ぜひ一度、試していただきたい。
]]>
-
宇宙軍士官学校7が出ます。
https://takazaka-enokino.blog.ss-blog.jp/2015-02-28
2015年最初のブログである。 昨年末に兄が死去して、ばたばたと後片付けや、各種の名義変更などで、気がついたら、年が変わって二ヶ月が過ぎようとしている。 母と兄が住んでいた家は、静岡に父が建てた実家を売り払い、その代金でこの埼玉に新築した家で、いわば父の財産だ。父が死去したときに、私は相続放棄して、兄のものになった。 そして一昨年母が死去し、昨年兄が死去して、唯一の肉親である私が相続することになった。 母と兄が暮らしていた家の隣には、私の持ち家がある。警察官だった頃にローンを組んで買った建売だ。 自分家があるからといって、兄と母の家を空き家にするわけにはいかない。 家というのは、風を通さないと、どんどん壊れていく。 家は生き物のようなところがある 余談だが、茅葺や藁葺き屋根の古い建物を保存するとき、欠かせないのが「囲炉裏で火を焚く」ことである。 屋根になっている茅や藁は、常に囲炉裏の火と煙で、家の内側から燻されることで、長持ちするのだ。 関東のとある市で、古い農家を移築し保存したのだが、古い家で火を燃やすなどとんでもない。万が一にも火災を出せば責任問題になると市役所が禁止してしまい。建物の保存には、必要なのだ。と説明しても役所が耳を貸さなかったため、屋根がどんどん腐って、結局五年ほどで、保存家屋が軒並み廃屋になってしまった。という事例があるそうだ。 人が動き回り、台所で煮炊きをすることで、空気が動く。 窓を開けていなくとも、その空気の動きがあるだけで、家の状態は大きく変わる。 というわけで、兄が死去したあと、私一人で、兄と母の暮らしていた家で生活している。 夕食と風呂は自分の家に戻るが、それ以外の仕事をしたり、寝るのは兄と母の家である。 何のことは無い、家一軒、丸ごと仕事場である。 この新しい仕事場で書き上げた一作目が、3月25日に早川書房から出版される【予定】の「宇宙軍士官学校・7」である。 御存知の通り、宇宙軍士官学校はSF【スペオペ】である。その物語世界に登場するものの多くは、この世に存在しないものである。 小説というのは、この、この世に存在しないものを、ビジュアルではなく、テキストで描き出し、読者の脳内にその概念と光景を思い浮かばせる技術を問われる作業である。 ライトノベルのラブコメで「寝坊していると毎朝起しに来る、美少女の幼馴染」も、この世に存在しない、という点では同じだが、こっちの方が描き出..
未分類
鷹見一幸【榎野英彦】
2015-02-28T03:15:06+09:00
昨年末に兄が死去して、ばたばたと後片付けや、各種の名義変更などで、気がついたら、年が変わって二ヶ月が過ぎようとしている。
母と兄が住んでいた家は、静岡に父が建てた実家を売り払い、その代金でこの埼玉に新築した家で、いわば父の財産だ。父が死去したときに、私は相続放棄して、兄のものになった。
そして一昨年母が死去し、昨年兄が死去して、唯一の肉親である私が相続することになった。
母と兄が暮らしていた家の隣には、私の持ち家がある。警察官だった頃にローンを組んで買った建売だ。
自分家があるからといって、兄と母の家を空き家にするわけにはいかない。
家というのは、風を通さないと、どんどん壊れていく。
家は生き物のようなところがある
余談だが、茅葺や藁葺き屋根の古い建物を保存するとき、欠かせないのが「囲炉裏で火を焚く」ことである。
屋根になっている茅や藁は、常に囲炉裏の火と煙で、家の内側から燻されることで、長持ちするのだ。
関東のとある市で、古い農家を移築し保存したのだが、古い家で火を燃やすなどとんでもない。万が一にも火災を出せば責任問題になると市役所が禁止してしまい。建物の保存には、必要なのだ。と説明しても役所が耳を貸さなかったため、屋根がどんどん腐って、結局五年ほどで、保存家屋が軒並み廃屋になってしまった。という事例があるそうだ。
人が動き回り、台所で煮炊きをすることで、空気が動く。
窓を開けていなくとも、その空気の動きがあるだけで、家の状態は大きく変わる。
というわけで、兄が死去したあと、私一人で、兄と母の暮らしていた家で生活している。
夕食と風呂は自分の家に戻るが、それ以外の仕事をしたり、寝るのは兄と母の家である。
何のことは無い、家一軒、丸ごと仕事場である。
この新しい仕事場で書き上げた一作目が、3月25日に早川書房から出版される【予定】の「宇宙軍士官学校・7」である。
御存知の通り、宇宙軍士官学校はSF【スペオペ】である。その物語世界に登場するものの多くは、この世に存在しないものである。
小説というのは、この、この世に存在しないものを、ビジュアルではなく、テキストで描き出し、読者の脳内にその概念と光景を思い浮かばせる技術を問われる作業である。
ライトノベルのラブコメで「寝坊していると毎朝起しに来る、美少女の幼馴染」も、この世に存在しない、という点では同じだが、こっちの方が描き出すのは楽だと思う。
それは過去に描かれてきた同じようなシチュエーションの蓄積があるからだ。
読者の脳内には、アニメやマンガによって、同じようなシーンのビジュアルイメージが蓄積されている。
作家はその蓄積された記憶を引っ張り出すフックを描くだけでいいのだ。
だが、SFはそうではない。SFの蓄積が無い人の方が多いかもしれないのだ。
なぜ、そう思うのか、それは、私との共同執筆者である「銅大」(あかがね・だい)氏が先日出版した
TRPG「エイジ・オブ・ギャラクシー」をプレイした次男の言葉による。
大学でTRPGサークルに入っている次男が「エイジ・オブ・ギャラクシー」をプレイしたときに、GMとして
シチュエーションを上手く説明できなかった。というのだ。
なぜできなかったのか、それは「SFのビジュアルイメージの引き出しが無かった」からだ。と言うのである。
よくよく話を聞いて見ると、SFのビジュアルイメージの元となるコンテンツをほとんど見ていないのだ。
スターウォーズも、スタートレックも、ほとんど見ていない。アニメでも、宇宙戦艦ヤマトはほとんど知らない。ガンダムを少し見た程度、ロボットの知識はゲームから。
この状態で、宇宙戦闘とか宇宙海賊とか、超空間転移ゲートとか言われても、記憶の中からほとんど取り出せるモノが無いのである
宇宙戦艦は、毎朝起しにくる美少女の幼馴染の前に敗北しているのである。
宇宙軍士官学校の原型は、私がずっと脳内で考えていた「人類戦記」という物語をジュヴナイルとして書いているもので、人類の末期戦が舞台となっている。
ジュヴナイルとして描くことで、読みやすく、とっつきやすく、初めてSFを読む方にも、面白く読んでもらおう。新規読者を少しでも引っ張り込もう。という魂胆がある。
少しでも読者が増えてくれれば、それは最前線で戦う兵士に届く補給物資のような効果があるはずだ。
末期戦を戦う主人公達と同じように、私もまた、末期戦を戦っているのかもしれない【笑
]]>
-
兄(R2)が死去いたしました。
https://takazaka-enokino.blog.ss-blog.jp/2014-12-05
兄の葬儀が終わった。私の兄は昭和29年8月生まれで、今年で60歳。還暦を迎えたばかりだった。父は二十年前に、そして母は昨年他界した。兄弟は兄と私の二人。そして兄がこの世を去り、後に残ったのは私一人になってしまった。私の兄は、月刊アウトの編集者だった頃に「R2」の名前で、記事を書いていた。立命館大学のSF研究会に所属し、その後月刊アウトの編集者となったのも、高校時代のSF仲間だった「C」さんがみのり書房にいた縁だった。 ガンダムが世に出て、アニメとSFが商売として大きく開花していくその創成期に、兄と私は立ち会っていた。みのり書房退社後、普通の会社員として勤めながら、ニフティフォーラムの方で「花筏」のハンドルネームで、色々やっていたようだが、その頃のことは、私は良く知らない。 その後、私が小説を書き始めた頃に、共に小説を書き始め、私は電撃大賞に応募し、兄は学研の歴史群像小説賞に応募した。 そして私は「鷹見一幸」の名前で電撃文庫でデビューし、角川スニーカーで「でたまか」を書き始めたその頃。兄の書いた仮想戦記が編集さんの眼に留まり「大日本帝国第七艦隊」として出版されることになった。 この頃から、小説は互いに書いたものを見せ合い、筆を入れ合いながら書くパターンが確立していた。 つまり「鷹見一幸」のペンネームは、私と兄の合作の名前だったのだ。「時空シリーズ」「でたまか」は私がメイン「大日本帝国第七艦隊」は兄がメインで執筆している。 その後、紆余曲折を経て、兄はしばらく表立って執筆をしなくなった。 プロットを練る時に、協力することはあっても、具体的に文章にすることが無くなった。 そんな兄をもう一度作家に引き込んだのが、早川書房から来た「野田昌宏さんの銀河乞食軍団のリメイクを書きませんか?」という話だった。 兄と二人でプロットを組み立て、設定を作り、文章の八割は兄、二割が私、という体制で執筆が始まった。 だが、三巻を書き終わったあたりで、兄の体調が悪くなった。腎梗塞を発症したのだ。 腎臓の動脈に血栓が出来て片方の腎臓の機能が完全に失われた。 数ヶ月に及ぶ入院生活の後、退院してきた兄は、なぜか全く小説が書けなくなっていた。 これは、脳梗塞を発症した際にCTスキャンを撮影して判明したことだが、このとき、腎梗塞だけ無く、右脳の後ろ側にも梗塞を発症していたらしい。 この部分は高次障害と呼ばれる、運動や言語などとは異なる部分の障害を発..
未分類
鷹見一幸【榎野英彦】
2014-12-05T20:09:41+09:00
私の兄は昭和29年8月生まれで、今年で60歳。還暦を迎えたばかりだった。
父は二十年前に、そして母は昨年他界した。
兄弟は兄と私の二人。そして兄がこの世を去り、後に残ったのは私一人になってしまった。
私の兄は、月刊アウトの編集者だった頃に「R2」の名前で、記事を書いていた。
立命館大学のSF研究会に所属し、その後月刊アウトの編集者となったのも、高校時代のSF仲間だった「C」さんがみのり書房にいた縁だった。
ガンダムが世に出て、アニメとSFが商売として大きく開花していくその創成期に、兄と私は立ち会っていた。
みのり書房退社後、普通の会社員として勤めながら、ニフティフォーラムの方で「花筏」のハンドルネームで、色々やっていたようだが、その頃のことは、私は良く知らない。
その後、私が小説を書き始めた頃に、共に小説を書き始め、私は電撃大賞に応募し、兄は学研の歴史群像小説賞に応募した。
そして私は「鷹見一幸」の名前で電撃文庫でデビューし、角川スニーカーで「でたまか」を書き始めたその頃。兄の書いた仮想戦記が編集さんの眼に留まり「大日本帝国第七艦隊」として出版されることになった。
この頃から、小説は互いに書いたものを見せ合い、筆を入れ合いながら書くパターンが確立していた。
つまり「鷹見一幸」のペンネームは、私と兄の合作の名前だったのだ。
「時空シリーズ」「でたまか」は私がメイン「大日本帝国第七艦隊」は兄がメインで執筆している。
その後、紆余曲折を経て、兄はしばらく表立って執筆をしなくなった。
プロットを練る時に、協力することはあっても、具体的に文章にすることが無くなった。
そんな兄をもう一度作家に引き込んだのが、早川書房から来た「野田昌宏さんの銀河乞食軍団のリメイクを書きませんか?」という話だった。
兄と二人でプロットを組み立て、設定を作り、文章の八割は兄、二割が私、という体制で執筆が始まった。
だが、三巻を書き終わったあたりで、兄の体調が悪くなった。腎梗塞を発症したのだ。 腎臓の動脈に血栓が出来て片方の腎臓の機能が完全に失われた。
数ヶ月に及ぶ入院生活の後、退院してきた兄は、なぜか全く小説が書けなくなっていた。
これは、脳梗塞を発症した際にCTスキャンを撮影して判明したことだが、このとき、腎梗塞だけ無く、右脳の後ろ側にも梗塞を発症していたらしい。
この部分は高次障害と呼ばれる、運動や言語などとは異なる部分の障害を発症する。
退院してきた兄は、車の車庫入れができなくなっていた。
普通に運転する分には何の問題もないのだが、鏡に映った映像から距離感を掴むことが出来なくなっていたのだ。
車庫に車を入れようとして、柱や壁にバンパーをこすることが当たり前になって、車のバンパーは瞬く間に傷だらけになってしまった。
そして、奇妙な事を言い出した。
「車のナンバーの三番目の数字だけが読めない」というのだ。
目が悪くなったのかと思ったのだがそういうことではなく、どうやら文字列の認識がおかしくなり始めていたらしい。
そして三年前。兄は越後湯沢のマンションで脳梗塞の発作を起こした。左半身の麻痺である。言葉は話せるが左の手足が動かない、というのだ。
電話でその話を受けた私は即座に119番するように告げて、越後湯沢に向かって車を走らせた。
兄は、六日町の病院に入院し、それから長い入院とリハビリが始まった。
そして、リハビリを終えて退院してきた兄は、なんとか日常生活が出来るまで回復していたが、今度は、心労が祟って母が心臓発作で入院した。
母の入院も数ヶ月に及び、退院してきた時には、かなり痴呆が進んでしまっていた。
痴呆が進んだ母と、身障者となった兄だけで生活できるはずも無く、私が妻と交代で、兄と母の面倒をみることになった。
ちょうど、山猫姫の12巻を書き始めた頃だった。
そんな中で兄が今度は心筋炎を発症した。心臓が普通に鼓動を打つことができずに、通常の二倍から三倍近い頻度で脈を打つようになってしまったのだ。
こうなるともはや血流を押し出すと言うよりも心臓が痙攣するのと同じ状態である。
血流が滞ることから内臓が機能不全を起し、ましてや腎臓の片方が無いわけだから、体から水分が抜けず、肺に水が溜まるようになって、ベッドから起き上がることも難しくなってしまい、埼玉医大の国際センターに緊急入院したのが、去年の秋口だった。
重篤状態にまで陥って、意識不明になったままの状態が数週間続き、この間に母が老衰で死去した。
兄は入院中、母が死去、と言う状態で、母の葬儀を終え、兄が退院してきたのは、昨年の暮れだった。
今までの兄が暮らしていた家では、とても生活できないということから、私の家と兄と母の家の間にあった、書庫を改造し、バリアフリー住宅に改築し、兄の住まいにした。
それから一年間。兄は、天気の良い日には杖をついて近くのスーパーに買い物に行くほどまでに回復した。
だが、11月に入ってから体調不良を訴えるようになり、22日に病院に連れて行ったところ、血糖値が500以上、ということで、緊急入院となった。
最初は意識もあり、会話も出来たのだが、三日ほど過ぎてから熱が上がり意識が無くなった。
解熱剤も抗生物質も効かないことから、再度CTスキャンを撮影したところ、新たな脳梗塞と、脳の中心部における出血が判明した。
糖尿病から来る動脈硬化により、脳梗塞によって滞った血流が、もろくなった血管壁から出血を始めたのだ。
出血は、体温調節を行う脳幹部に及んでいる可能性があり、高熱はそれが原因では無いか、とのことだった。
体温調節を行う機能がある脳幹部は、呼吸などもコントロールする部位に近い。
脳内出血が呼吸中枢に及べば、呼吸が止まる。
この時点で、私は兄の死を覚悟した。
医師から説明を受け、自宅に帰り、数時間過ぎた頃、携帯電話が鳴った。
病院からだった。
「呼吸が止まりかけています、すぐに来てください」
すぐに病院に向かった私の前で、兄はまだ呼吸を続けていた。
それから十五分ほど過ぎた頃。血圧がさらに低下し、血圧計で計れないほどになった。
そして、呼吸が止まり、心電図の波形が少しずつ緩慢になり、12月2日午後5時56分に、兄はこの世を去った。
兄は独身で、妻や子供を残しているわけではない。
こう言うと悪いが、結構行き当たりばったりで、その場その場でなんとかして生きてきたようなところがある。
年金も、十二年以上未納付で、障害者年金ももらえない。
健康保険も滞納していて、心筋炎で入院した時は全額私が立て替えた。
晩年は収入も無く、母の年金で暮らしていたような状態だった。
はっきり言って、私がすべての面倒を見てきたようなものだ。
それでも、やはり、私は兄に生きていて欲しかった。
兄が暮らしていた小住宅には、入院するまで向かっていたノートパソコンが、まだ、そのまま置いてあった。
電源を入れて立ち上げた画面には、いくつもの文書ファイルが並んでいた。
その、どれもが、書きかけの小説だった。
更新の日付は、一年前のままで、ほとんど更新されていない、小説の書き出しとラフの群れを見て、思うのは。
もし、兄に、心残りがあるとすれば、それは、この、世に出ぬままで終わってしまった物語なのかもしれない。ということだった。
明日書こう。
いつか、書こう。
そのうち、書こう。
もう、その言い訳は、やめよう。
今日、書こう。
今、書こう。
書ける時に、書こう。
明日が来る前に、明日が終わってしまうかもしれないのだから。
]]>
-
ミリタリ用語が通じない相手
https://takazaka-enokino.blog.ss-blog.jp/2014-10-10
艦これのノベライズを書いているわけだが、ゲラが戻ってくると、いつも苦労するのがミリタリ用語だ。たとえば、形式名などで「九九式艦爆」と書くと校正さんから「九十九式ではありませんか?」というチェックが入って戻ってくる。 こういう、一般の読み方、常識的な記述のやり方と、軍事用語の読み方、書き方は違うのだが、校正さんにそこまで要求するわけにもいかない。 これ以外にも「直掩機」(ちょくえんき)とか「雷跡」(らいせき)とか「簿冊」(ぼさつ)とか平成日本では、まず使わない単語が、ゴロゴロ出てくるのだが、海軍と陸軍とでは、読みが違っていたりして、これもまた厄介である。 艦これは、ライトノベル読者向け、と割り切って、あまり難しい単語や、書き方をしないで、雰囲気だけを味わってもらえばいい、と割り切ったので、もっぱら校正さんの指示に従って、ゲラを戻している。 正式な「呼称」よりも、わかりやすい概念を意味する言葉に書き換えることで、ミリタリに対する敷居を下げようというわけである。 艦これ小説は、いわばミリタリっぽい概念の入り口であり、ミリタリは従である。 震電改が存在し、それが艦載機になる世界で、正確さを追求するというのも、おかしな話であるわけで、そう考えると仮想戦記を書く際の「正確さ」へのこだわりを「艦これ」に持ち込むのは、さほど意味がない。 艦これにおける史実、というのも、似たようなところがある。もうすぐ「とある鎮守府の一日・2」が書店に並ぶ。楽しみにして欲しい。
未分類
鷹見一幸【榎野英彦】
2014-10-10T23:49:36+09:00
たとえば、形式名などで「九九式艦爆」と書くと校正さんから「九十九式ではありませんか?」というチェックが入って戻ってくる。
こういう、一般の読み方、常識的な記述のやり方と、軍事用語の読み方、書き方は違うのだが、校正さんにそこまで要求するわけにもいかない。
これ以外にも「直掩機」(ちょくえんき)とか「雷跡」(らいせき)とか「簿冊」(ぼさつ)とか
平成日本では、まず使わない単語が、ゴロゴロ出てくるのだが、海軍と陸軍とでは、読みが違っていたりして、これもまた厄介である。
艦これは、ライトノベル読者向け、と割り切って、あまり難しい単語や、書き方をしないで、雰囲気だけを味わってもらえばいい、と割り切ったので、もっぱら校正さんの指示に従って、ゲラを戻している。
正式な「呼称」よりも、わかりやすい概念を意味する言葉に書き換えることで、ミリタリに対する敷居を下げようというわけである。
艦これ小説は、いわばミリタリっぽい概念の入り口であり、ミリタリは従である。
震電改が存在し、それが艦載機になる世界で、正確さを追求するというのも、おかしな話であるわけで、そう考えると仮想戦記を書く際の「正確さ」へのこだわりを「艦これ」に持ち込むのは、さほど意味がない。
艦これにおける史実、というのも、似たようなところがある。
もうすぐ「とある鎮守府の一日・2」が書店に並ぶ。
楽しみにして欲しい。
]]>
-
各種お知らせ事項
https://takazaka-enokino.blog.ss-blog.jp/2014-09-13
一年前の夏に、母の葬儀と、兄の大学病院ICUへの入院。などが重なった後、兄が退院後に生活するバリアフリーの小住宅の新築やら、各種手続きなどが重なり、執筆中だったシリーズものが、すべて延期になったのだが。そのあと、スケジュールが重なりまくって、常に複数のシリーズを同時進行させつづけるという日々が続いている。 当然、原稿執筆だけで生きているわけではないので、生活のための買い物や、自治会役員になっているので、町内会の行事などの時間が必要になる。 となると、限られた時間のリソースの優先順位の最も低いところに「ブログの更新」が位置しているわけで、こう言うと何だが、定期更新しているわけでもなく、読者も付いていないブログなどを更新する時間と、文字を打つエネルギーがあれば、その文字数を原稿に使え、ということになる。 というわけで、一年以上放置していたブログだが。今回、色々お知らせがあるので更新することになった。 簡単に列挙する。1・ウェブページ「雑家屋・鷹見商店」の閉鎖 ソネットのHP「雑家屋鷹見商店」は完全に機能停止しているのと、メールフォームから、スパムメールが山のように届くようになってしまったので、思い切って閉鎖することとした。 ブログはこのまま続ける予定なので、ウェブページのコンテンツは、形を変えて、このブログ上に公開するかもしれない。 2・時空のクロス・ロードシリーズの電子配信開始。 私のデビュー作とそのシリーズである「時空のクロス・ロード」3冊。「新・時空のクロス・ロード」3冊、そして「時空のクロス・ロード 最終譚」の計7冊が角川の電子書籍から配信になった。 http://bookwalker.jp/series/19484/キンドルなどへの配信はいつになるかわからないが、おそらくそのうちに配信になると思う。 電子書籍への許諾契約書はずっと前に印鑑を押したのだが、電子書籍になるという知らせはどこからも来なかった。14年前の本でとっくに絶版になっている本が電子化されたからといって、そんなことに関わっているヒマは無いのだろう。 まあ、とにかく、これで、入手できるメドが出来たわけで、「絶版で手に入りません」と言うメールを送ってくれた方には朗報だと思う。 この先の刊行予定は角川スニーカー文庫の「召喚主は家出猫・4」と「とある鎮守府の一日・2」「宇宙軍士官学校6」「一航戦出ます・3」となっている。 年内に出るのを前提に..
未分類
鷹見一幸【榎野英彦】
2014-09-13T02:05:22+09:00
そのあと、スケジュールが重なりまくって、常に複数のシリーズを同時進行させつづけるという日々が続いている。
当然、原稿執筆だけで生きているわけではないので、生活のための買い物や、自治会役員になっているので、町内会の行事などの時間が必要になる。
となると、限られた時間のリソースの優先順位の最も低いところに「ブログの更新」が位置しているわけで、こう言うと何だが、定期更新しているわけでもなく、読者も付いていないブログなどを更新する時間と、文字を打つエネルギーがあれば、その文字数を原稿に使え、ということになる。
というわけで、一年以上放置していたブログだが。今回、色々お知らせがあるので更新することになった。
簡単に列挙する。
1・ウェブページ「雑家屋・鷹見商店」の閉鎖
ソネットのHP「雑家屋鷹見商店」は完全に機能停止しているのと、メールフォームから、スパムメールが山のように届くようになってしまったので、思い切って閉鎖することとした。
ブログはこのまま続ける予定なので、ウェブページのコンテンツは、形を変えて、このブログ上に公開するかもしれない。
2・時空のクロス・ロードシリーズの電子配信開始。
私のデビュー作とそのシリーズである「時空のクロス・ロード」3冊。「新・時空のクロス・ロード」3冊、そして「時空のクロス・ロード 最終譚」の計7冊が角川の電子書籍から配信になった。
http://bookwalker.jp/series/19484/
キンドルなどへの配信はいつになるかわからないが、おそらくそのうちに配信になると思う。
電子書籍への許諾契約書はずっと前に印鑑を押したのだが、電子書籍になるという知らせはどこからも来なかった。14年前の本でとっくに絶版になっている本が電子化されたからといって、そんなことに関わっているヒマは無いのだろう。
まあ、とにかく、これで、入手できるメドが出来たわけで、「絶版で手に入りません」と言うメールを送ってくれた方には朗報だと思う。
この先の刊行予定は角川スニーカー文庫の「召喚主は家出猫・4」と「とある鎮守府の一日・2」「宇宙軍士官学校6」「一航戦出ます・3」となっている。
年内に出るのを前提に執筆中なので、お待ちいただければ幸いである。
]]>
-
宇宙軍士官学校を書きながら思うこと。
https://takazaka-enokino.blog.ss-blog.jp/2013-05-24
「宇宙軍士官学校」を早川書房で書くことになったのは、その前のシリーズである「銀河乞食軍団・黎明編」が、共同執筆者の兄の長期入院により、4巻の途中で中断していたのを引き継いで、何とか完結に持ち込んですぐのことだった。 シリーズ途中で約一年の空白を作ってしまった私には、もう早川書房から話は来ないだろうと覚悟していたが、担当編集の込山さんから「次はオリジナルで書きませんか?」という話を戴いて、一も二も無く「書きます」と返事をしたわけである。 銀河乞食軍団黎明編を書く前に、込山さんと「翻訳物のミリタリーSFは売れ行きがいい」「日本でもああいったSFを出しても行けるのではないか?」と言う話をしたことがあるのだが、日本人の基礎教養には「軍事」に関するものが決定的に欠けているので、書くとするといわゆる仮想戦記のSF版になってしまうかもしれない。 そういう「SF戦記」とは違う切り口で何か書けないだろうか? そういう話をしたことを覚えている。 その後、しばらく、どんなSF戦記を書こうか色々考えたのだが。そのとき私の脳裏に浮かんでいたのは「末期戦」と言う文字だった。 私が小学生の頃、何かでベルリン攻防戦のゼーロウ高地における対戦車戦闘に参加していた十五歳の少年兵の話を読んだことがある。 リーダースダイジェストに抄訳が連載されていた「第三帝国の興亡」の中のエピソードだと思っていたのだが、完訳本を読むとその記述は無く、いったいどこで読んだのか、出所不明のエピソードなのだが、今でも覚えている。 手記の主は、十五歳の少年で、ベルリンの下町に住んでいた。 第二次世界大戦の末期に徴兵され、ほとんど訓練を受けることも無く、そのままベルリン防衛部隊に回され、ゼーロウ高地の対戦車陣地に配置された。 対戦車砲は口径50ミリのPaK38である。 配られた砲弾は十五発。そして、この陣地には、下士官も士官も配置されていなかった。 砲を操作するのは、5名の15歳の少年兵だけだったそうだ。 士官は、時々やってきて、色々な話をして、また去って行った。 僕たちは、自分たちがどんな状況で、敵がどこまで来ているのか何も知らされていなかった。 塹壕と陣地の中だけが、僕たちの世界だった。 僕たちは、木の枝や草を持って来て砲を偽装した。 遠くまで離れて、見えるか見えないか言い合って笑った。 僕たちは戦争を知らなかった。戦争は僕たちとは違う世界で 行われている、ドラマチックなイ..
未分類
鷹見一幸【榎野英彦】
2013-05-24T20:51:20+09:00
シリーズ途中で約一年の空白を作ってしまった私には、もう早川書房から話は来ないだろうと覚悟していたが、担当編集の込山さんから「次はオリジナルで書きませんか?」という話を戴いて、一も二も無く「書きます」と返事をしたわけである。
銀河乞食軍団黎明編を書く前に、込山さんと「翻訳物のミリタリーSFは売れ行きがいい」
「日本でもああいったSFを出しても行けるのではないか?」と言う話をしたことがあるのだが、日本人の基礎教養には「軍事」に関するものが決定的に欠けているので、書くとするといわゆる仮想戦記のSF版になってしまうかもしれない。
そういう「SF戦記」とは違う切り口で何か書けないだろうか?
そういう話をしたことを覚えている。
その後、しばらく、どんなSF戦記を書こうか色々考えたのだが。そのとき私の脳裏に浮かんでいたのは「末期戦」と言う文字だった。
私が小学生の頃、何かでベルリン攻防戦のゼーロウ高地における対戦車戦闘に参加していた十五歳の少年兵の話を読んだことがある。
リーダースダイジェストに抄訳が連載されていた「第三帝国の興亡」の中のエピソードだと思っていたのだが、完訳本を読むとその記述は無く、いったいどこで読んだのか、出所不明のエピソードなのだが、今でも覚えている。
手記の主は、十五歳の少年で、ベルリンの下町に住んでいた。
第二次世界大戦の末期に徴兵され、ほとんど訓練を受けることも無く、そのままベルリン防衛部隊に回され、ゼーロウ高地の対戦車陣地に配置された。
対戦車砲は口径50ミリのPaK38である。
配られた砲弾は十五発。そして、この陣地には、下士官も士官も配置されていなかった。
砲を操作するのは、5名の15歳の少年兵だけだったそうだ。
士官は、時々やってきて、色々な話をして、また去って行った。
僕たちは、自分たちがどんな状況で、敵がどこまで来ているのか何も知らされていなかった。
塹壕と陣地の中だけが、僕たちの世界だった。
僕たちは、木の枝や草を持って来て砲を偽装した。
遠くまで離れて、見えるか見えないか言い合って笑った。
僕たちは戦争を知らなかった。戦争は僕たちとは違う世界で 行われている、ドラマチックなイベントみたいに考えていた。
戦争が終われば家に帰れる、家に帰れば今までと同じ生活が続くのだと考えていた。
スターリンのオルガンが、頭の上から降って来て、戦争は死と痛みと、絶望だと言うことを教えてくれるまで、僕たちは戦争とは無縁だった。
戦争によって、無理やり大人にされていくこの少年兵の手記が、小学生だった私には衝撃的だった。
元の手記が誰によって書かれたのか、何の本の一部なのか、今となってはわからないが、この部分だけは今でも私の記憶に残っている。
「宇宙軍士官学校」は、最初、もっとハードな、大人向けの書き方をするつもりだった。
だが、書き始めて見るとどうにも、上手く行かないのだ。
なぜ、上手く書けないのか。それを考えた私はひとつのことに思い当たった。
私は、自分の脳内にあったこの「少年兵の手記」が書きたかったのだ、と……。
そして私は書き方を変えた。ジュブナイルとして書き直したのだ。
児童文学と同じ視点、書き方。それによって見えてくるものは、まさしく、私の記憶の中にある「少年兵の手記」そのものだった。
私が書きたいのは、ビジネスのやり方をミリタリに例えた本でもなければ、派手な戦闘シーンだけが続くウォーモンガー礼賛の書でもない。
片田舎で暮らして、地球だけが世界だと思っていた少年が、戦争の中に引っ張り出されて、無理やり大人にされていく悲しさ。
これを書きたかったのだ、と気がついたのだ。
その悲しさは個人のものであるのと同時に、人類全体のものでもある。
そして、私は宇宙軍士官学校を書き始めた。
人類は「末期戦」に駆り出されて行く少年兵である。
「末期戦」とはどういうものなのか。
戦場ではない、その後方でも、人材の枯渇により、多くの少年たちが、大人たちの代わりに職務についていた。
太平洋戦争末期の国鉄では、わずか十五歳で蒸気機関車の機関助士として蒸気機関車で石炭を焚いていた人もいる。
交通新聞社新書から出ている「15歳の機関助士」と言う本がある。
太平洋戦争末期から終戦、戦後の混乱期を、蒸気機関車のカマ焚きとして勤め上げた方の手記である。
空襲と、機銃掃射によって殉職者の出る中を、命がけで東海道本線を運転した機関士や、終戦のその日もいつもと同じように列車を運行させた人々の話は、鉄道と言うシステムが、どれほど多くの人々によって支えられていたのかを教えてくれる。
鉄道に興味のない方もぜひ、一度お読みになっていただきたい本である。
]]>
-
あのブドウは甘いに違いない。と言える者は、ブドウを手に入れるために努力できる。
https://takazaka-enokino.blog.ss-blog.jp/2013-05-15
世の中の人間のほとんどは、自分のできること、自分が理解して経験していること以外の物事や、他人の仕事を簡単に単純に考えている。 この「他人の仕事は簡単に見える」を言い換えれば「他人の庭の芝生は青い」と言うコトワザになる。 これは誰もがそう考える、という普遍的な事実である。 逆に言えば、普遍的な事実だからこそ、コトワザになっているわけである。 それなりに仕事をやって、経験を積めば、こういう考えは持たなくなるものだが、どうにも考えの浅い人間。他人が馬鹿に見えて仕方ない人間は、この「他人の仕事は簡単だ」と思い込んで、それを疑わない。「ラーメン屋なんか、あんなもの、麺を茹でて、スープの中に入れて、上にチャーシューとかネギ乗せるだけじゃないか、誰にでもできる」「ライトノベルみたいな、あんなもの、一冊を二時間で読めてしまうような簡単な小説じゃないか、誰にでも書ける」 この言い方、パターンは、どんな仕事にも当てはまる。「医者なんか、あんなもの、患者の話を聞いて薬出すだけじゃないか、誰だってできる」「刀鍛冶なんてあんなもの、鉄を赤く焼いてハンマーで叩くだけじゃないか、誰だってできる」 物事を単純化して言葉にすれば、ものすごく簡単に見えてくるわけである。 ほとんどの人は「そう見える」ことと「そうである」こととは違うことに、薄々感づいているので、あまりこういう言葉を口にしないが、中には本気でそう考えている人もいる。考えてみれば、世の中に「誰でもできる仕事」が、そう簡単に転がっているわけが無いのだが、それに気づかない。「俺にもできるはずだ」と思って手を出す。 確かに世の中には「天才」という種類の人間がいて、できるはずだ、で、できてしまう。 でも、そんな人間は、めったにいない。天才というのは忘れた頃に出現するのだ。 ほとんどの人間、99.99%の人間は、凡才である。 当然「できるはず」で、できない。 簡単な、誰でも書けるはずの「小説」が書けない。書けたとしても、金を取れるレベル。新人賞に入選するレベルの小説を書ける人はめったにいない。 さて、ここで、どう考えるだろうか? 書けない理由、入賞しない理由を、どこに求めるか、である。 その理由を自分に求め、自分の力が至らないのだ、と考える事ができれば、その人は次を書ける。書き続けることができる。 だが、その理由を自分の力量以外に求める人は、徐々に書けなくなっていく。「審査員の見る目が無い」「売..
未分類
鷹見一幸【榎野英彦】
2013-05-15T03:53:15+09:00
この「他人の仕事は簡単に見える」を言い換えれば「他人の庭の芝生は青い」と言うコトワザになる。
これは誰もがそう考える、という普遍的な事実である。
逆に言えば、普遍的な事実だからこそ、コトワザになっているわけである。
それなりに仕事をやって、経験を積めば、こういう考えは持たなくなるものだが、どうにも考えの浅い人間。他人が馬鹿に見えて仕方ない人間は、この「他人の仕事は簡単だ」と思い込んで、それを疑わない。
「ラーメン屋なんか、あんなもの、麺を茹でて、スープの中に入れて、上にチャーシューとかネギ乗せるだけじゃないか、誰にでもできる」
「ライトノベルみたいな、あんなもの、一冊を二時間で読めてしまうような簡単な小説じゃないか、誰にでも書ける」
この言い方、パターンは、どんな仕事にも当てはまる。
「医者なんか、あんなもの、患者の話を聞いて薬出すだけじゃないか、誰だってできる」
「刀鍛冶なんてあんなもの、鉄を赤く焼いてハンマーで叩くだけじゃないか、誰だってできる」
物事を単純化して言葉にすれば、ものすごく簡単に見えてくるわけである。
ほとんどの人は「そう見える」ことと「そうである」こととは違うことに、薄々感づいているので、あまりこういう言葉を口にしないが、中には本気でそう考えている人もいる。
考えてみれば、世の中に「誰でもできる仕事」が、そう簡単に転がっているわけが無いのだが、それに気づかない。
「俺にもできるはずだ」と思って手を出す。
確かに世の中には「天才」という種類の人間がいて、できるはずだ、で、できてしまう。
でも、そんな人間は、めったにいない。天才というのは忘れた頃に出現するのだ。
ほとんどの人間、99.99%の人間は、凡才である。
当然「できるはず」で、できない。
簡単な、誰でも書けるはずの「小説」が書けない。書けたとしても、金を取れるレベル。新人賞に入選するレベルの小説を書ける人はめったにいない。
さて、ここで、どう考えるだろうか?
書けない理由、入賞しない理由を、どこに求めるか、である。
その理由を自分に求め、自分の力が至らないのだ、と考える事ができれば、その人は次を書ける。書き続けることができる。
だが、その理由を自分の力量以外に求める人は、徐々に書けなくなっていく。
「審査員の見る目が無い」
「売れることしか考えていない編集部が馬鹿」
「そもそもライトノベルは程度が低すぎる」
こういうことを言い出すと、どんどん書けなくなっていく。
これはつまり「あのブドウは酸っぱいに違いない」と言っているのに他ならない。
そう言ってしまう、そう考えてしまうと、そこで、ブドウを手に入れるための努力しなくてもいい理由ができてしまうのだ。
否定したものを、手に入れる理由は無いのだ。
「審査員の見る目が無い」のだから書かなくてもいい。
「売れることしか考えていない編集が無能」だから書かなくてもいい。
「程度が低いライトノベル」なんだから書かなくてもいい。
自分が望むものが手に入らない。
その理由を合理化するために、その望むものを否定し、貶めれば、自分の中にそれを求める理由が無くなる。
それによって、自分の自我は救われ、自分の自尊心は傷つかなくなる。
これで、あきらめてしまえば、特に問題は無い。
作家になることをあきらめて、読者でいることを選択する、もしくは、商業とは違う道を行くことを選ぶのなら、何の問題も無い。
だが、それでもなお「作家」を目指すとなると、どういうことになるかと言うと
自分が否定したものよりも、はるかに優れたものを生み出さなくてはならなくなるわけである。つまり
「見る目の無い審査員をあっと言わせる小説」
「売れることしか考えていない編集が、考えを悔い改めるような傑作」
「程度が高い、素晴らしい小説」
これを書かねばならなくなるわけである。
自分が否定したものと同じものを書くわけには行かないのだから、そうなるのは当然である。
そうやって、自分の中のハードルを上げてしまうとどうなるか。
答えは簡単「書けなくなる」のである。
何を書いても、どう書いても「これじゃない、これじゃダメだ」になる。
当然といえば当然のことである。
天才ならいざしらず。ごく普通の、それもほとんど経験も積んだことが無い、読者でしかなかった人間が、いきなり書き手になって、そんな「至高にして究極の、万人が認め、感動し、賞賛する傑作」なんてものを書けるはずがないのだ。
ダメだったら、悔しがればいいのだ。
「ああクソ、あのブドウは甘いに違いない」と言えばいいのだ。
「あの新人賞は嬉しいに違いない」と言えばいいのだ。
だからこそ、次が書ける。次はどうしよう? と考える事ができる。
「あの方法はダメだった、ならばキャラクターをもっとメリハリをつけてみよう」
「あの書き方はダメだった、ならばセリフをもっと短く、すっきりとさせてみよう」
次の一手を考えることができる
より目標に近づくために努力することができる。
目標を否定してしまえば、そこに近づく努力はできない。
習作を書くことができなくなるのだ。
「あのブドウは酸っぱいに違いない」と言うのは、あきらめた人間の捨て台詞である。
あきらめていないのなら、決して言ってはいけない。
あきらめていない人間は「あのブドウは甘いに違いない」と言うべきなのだ【笑
]]>
-
文化と知性とは記憶のことなのかもしれない。
https://takazaka-enokino.blog.ss-blog.jp/2013-05-12
身内の事を少し書こうと思う。別に露悪趣味があるわけではない。私の身の上に起こった出来事が、おそらくこれを読んでいる、まだ若い人の将来の上にも起こるかもしれないからだ。私は1958年生まれである。昭和で言えば33年生まれ。東京タワーが作られた年でもある。小学校入学時に東京オリンピックがあって、中学一年の時に大阪万博があった。いわば日本の高度成長の恩恵を一身に浴びて育ってきた世代だ。父は大正生まれ。母も大正十五年、つまり昭和元年の生まれである。父が69歳で脳梗塞で倒れたために、静岡の実家を処分して埼玉の私の家の隣に父の家を建て、父が死去したあと、母と兄は隣の家で暮らしてきた。母がおかしくなったのは、同居の兄が脳梗塞で倒れてからである。兄が入院した直後に、母も心臓発作で入院してしまった。幸いにも兄はリハビリの結果、左半身に少しマヒが残る程度で、自力で生活できる程度には回復したが、母はなかなか回復しなかった。それでも何とか回復して母が退院してきたのは、約一年後。この頃から、少しずつ母の痴呆が進み始めた。曜日と時間の感覚が失われ、自分の家の間取りを忘れる。良く、マンガやドラマで「自分が食事したことを忘れて、メシはまだか? と聞く老人」という老人のパターンがあるが、あれは、誇張でもなんでもなく、本当のことなのだということを初めて知った。着替えや食事の世話をする妻の顔を忘れ、家政婦だと思い込む。夜中の三時に「散歩に行きたい」と言い出す。このあたりなら、まだ笑い話で済むが、トイレに五分おきに行くようになってしまったのには参った。本人はさっき自分がトイレに行ったことを忘れているのである。ひどいときは、ベッドから起きてトイレに行き戻ってくる途中でまたトイレに行くのだ。これを寝ているとき以外繰り返すのである。睡眠時間も短く、二時間程度しか寝ない。二時間寝て、三時間ほどベッドとトイレの往復を繰り返し、また二時間寝る。そのたびに、家人を呼ぶのである。去年の暮れからこういった行動が始まり、心臓が悪かった兄が再び入院することになり、私と妻が二交代で24時間付き添うことになった。正午時頃私が起きて、そのまま翌朝の五時まで母と共にいて、午前五時に妻と交替して正午頃まで寝るのである。これを三ヶ月ほど続けていた。これは私が在宅勤務、つまり作家業だからできたのだと思う。母の徘徊行動が始まってから、福祉課を通じ、施設を当たっていたのだが、どこも一杯で、な..
未分類
鷹見一幸【榎野英彦】
2013-05-12T15:35:23+09:00
別に露悪趣味があるわけではない。私の身の上に起こった出来事が、おそらくこれを読んでいる、まだ若い人の将来の上にも起こるかもしれないからだ。
私は1958年生まれである。昭和で言えば33年生まれ。東京タワーが作られた年でもある。
小学校入学時に東京オリンピックがあって、中学一年の時に大阪万博があった。
いわば日本の高度成長の恩恵を一身に浴びて育ってきた世代だ。
父は大正生まれ。母も大正十五年、つまり昭和元年の生まれである。
父が69歳で脳梗塞で倒れたために、静岡の実家を処分して埼玉の私の家の隣に父の家を建て、父が死去したあと、母と兄は隣の家で暮らしてきた。
母がおかしくなったのは、同居の兄が脳梗塞で倒れてからである。
兄が入院した直後に、母も心臓発作で入院してしまった。
幸いにも兄はリハビリの結果、左半身に少しマヒが残る程度で、自力で生活できる程度には回復したが、母はなかなか回復しなかった。
それでも何とか回復して母が退院してきたのは、約一年後。
この頃から、少しずつ母の痴呆が進み始めた。
曜日と時間の感覚が失われ、自分の家の間取りを忘れる。
良く、マンガやドラマで「自分が食事したことを忘れて、メシはまだか? と聞く老人」という老人のパターンがあるが、あれは、誇張でもなんでもなく、本当のことなのだということを
初めて知った。
着替えや食事の世話をする妻の顔を忘れ、家政婦だと思い込む。
夜中の三時に「散歩に行きたい」と言い出す。
このあたりなら、まだ笑い話で済むが、トイレに五分おきに行くようになってしまったのには参った。
本人はさっき自分がトイレに行ったことを忘れているのである。
ひどいときは、ベッドから起きてトイレに行き戻ってくる途中でまたトイレに行くのだ。
これを寝ているとき以外繰り返すのである。
睡眠時間も短く、二時間程度しか寝ない。
二時間寝て、三時間ほどベッドとトイレの往復を繰り返し、また二時間寝る。
そのたびに、家人を呼ぶのである。
去年の暮れからこういった行動が始まり、心臓が悪かった兄が再び入院することになり、私と妻が二交代で24時間付き添うことになった。
正午時頃私が起きて、そのまま翌朝の五時まで母と共にいて、午前五時に妻と交替して正午頃まで寝るのである。
これを三ヶ月ほど続けていた。
これは私が在宅勤務、つまり作家業だからできたのだと思う。
母の徘徊行動が始まってから、福祉課を通じ、施設を当たっていたのだが、どこも一杯で、なかなか空きが無く、この4月にやっと、痴呆老人の保健医療センターが受け入れてくれた。
独身の兄が倒れ、心臓の持病のために歩き回ることも苦しいという状態になったまま、そこに痴呆の進んだ母を抱え込むという、まさに踏んだりけったりの状態で、このままの状態が続けば、私も妻も共倒れになりかねないところだった。
もともと半分引き篭もりのようなもので、家で原稿を書いているのだから、兄と母の面倒を見ながら、原稿を書くというのは簡単だろうと思っていたのだが、そうはいかない。
原稿を書くというのはこれはこれで、集中力を使う作業なのである。
その集中力が続かないのだ。
書いている最中に作業が中断させられると、パソコンの前に戻ってきても、なかなかもとのテンションに戻らないのだ。
なんというか、小説を書くという作業は、その作品世界に没入することでもある。
視点人物になりきって、そこで見えるもの、そこで考えることを作者がトレースするような部分がある。
そのトレース作業を、母に呼ばれると中断しなくてはならないのだ。
トイレの手伝いをして、ベッドのところまで連れて帰って、さて、パソコンの前に戻ると。
すっかりトレースが外れている。
文章を書いても、なんというか「書いているだけ」という状態に戻ってしまうのだ。
必要な情報は書いてある、読める、だが、どこか違うのだ。
これが続くと、書き進む速度が、がたん、と下がる。
十分おきに私を呼び、トイレに行きたがる母を見て、悲しくなった。
母は学歴こそないが、聡明で、洋裁が得意で、子供の頃、私と兄の服は母の手作りだった。
経済的理由もあったのだろう。昭和三十年代の終わり、まだ日本は裕福でも何でもなかった。
知性とは記憶である。人間が物事を判断する基準は経験であり経験とは記憶である。
記憶を失えば、人は子供に戻る。それをすればどうなるか、それをしなければどうなるか、それを知らない存在に戻るのである。
知識とは記憶である。
文化とは知性の蓄積であり、記憶の蓄積である。
何かを思いつくためには、知識が無くてはならない。いくらネットに情報があろうが、ハードディスクに蓄えられていようが、、思いつかねばならないときに、記憶の中にその情報がなければ、何の役にも立たない。
知識を蓄えることを馬鹿にして「そんなのネットで検索すればいいじゃん、覚えるなんて非合理的だ」と思う人は別にそれで構わない。
だが、人間の記憶はまだネットと直接リンクしているわけではない。
ものを考える、思考する、思いつくための作業領域である自分の脳内に、データや情報が入っていなければ、考えることや思いつくことはできない。
そして、そうやって思いついたもの、それは、何かに残さねば消えるのだ。
私が死ねば、私の脳内にある作業領域も知識もすべてが無に還る。
死なずとも、脳が衰え、痴呆が進めば私もまた母と同じように、五分前のことを忘れ、子供のようなメンタリティに変わっていくだろう。
文明とか、文化とか、そういうものは、そういった一人一人の人間の記憶、知性の記録の積み重ねだと思うのだ。
たとえ、自分が死んでも、どこかに残ればそれはこの2013年の時代の記録となって、どこかに積み重なっていく。
文明のひとかけら、一つの要素になる。
書きたい物語があれば書こう。
書きたい論があれば書こう。
書かねば消える。
書けば残る。
その単純にして簡潔な結論に行き着くのだ。
]]>
-
今月末と来月頭に新刊まとめて三冊出ます(2013年最初の更新)
https://takazaka-enokino.blog.ss-blog.jp/2013-04-10
いまさら「あけましておめでとうございます」と言うのもなんだが、2013年最初のブログ更新である。【笑 なぜ、こんなに更新の時間が開いてしまったか、その理由を書いてもいいが、何を書いても私にヘイトを向ける人間は「言い訳をするな」と言うに決まっているので、理由は書かない。 「理由を言って見ろ」と言うくせに、理由を言うと「言い訳をするな」と返して、そこから攻撃を始める上司がよくいる。 そういう上司には「理由を言って見ろ」と言われたら「何を言っても言い訳になりますから申しません、私の責任です」と答えるのがよろしい。 攻撃の取っ掛かりを無くしてさっさと仕事を始めた方が、お互い幸せである【笑 さて、今年最初の出版物が、三冊ほぼ同時に書店に並ぶことになった。 4月27日に、早川書房から「宇宙軍士官学校・3」 4月27日に、角川スニーカー文庫から「召喚主は家出猫・呼ばれてみれば最前線」 5月10日に、電撃文庫から「ご主人様は山猫姫・12 帝国再興編」 なぜ、三冊同時に刊行になったかと言うと、三冊同時に書いていたからである。 このへんが、今年に入ってから、ブログを更新しなかった理由の一つでもある。 最初は、こんな風にダンゴになるとは思っていなかった。 ちゃんと、一カ月おきに三冊出る予定だったのだが、最初の一冊が遅れ、そしてそれが次の一冊を遅れさせ、最後にどうにもならなくなって、三冊を同時進行で書くハメになったわけである。 運が良かったのが「宇宙軍士官学校」はスペオペ。「召喚主」は魔法世界が舞台のファンタジー。「山猫姫」は架空古代中華世界。と見事にシチュエーションが分かれているために、三冊を同時進行で書いても、混乱が少なかったと言うことである。 それでも書いていると、主人公の名前を間違えてしまったり、小さなミスは結構あった。 私はどうやら自作のキャラに思い入れが出来ないタイプらしい。 私が書きたい物語は「展開」>「キャラ」というものなので、その辺は仕方ないのかもしれない。 私は、主人公たちが絡む事態が、どう進み、それにどう対処し、どう解決するか。という「展開」が書きたいタイプの人間で、その「展開」が描ければ、キャラは実質どうでもいいのかもしれない。 展開を描くに足りるだけのデティル、つまり感情移入できる最低限のものさえあれば、それで物語が描けるわけで、それ以外にキャラに望むものは無いわけである。 私が書く物語のほとんどが、個人の枠の..
未分類
鷹見一幸【榎野英彦】
2013-04-10T01:35:16+09:00
なぜ、こんなに更新の時間が開いてしまったか、その理由を書いてもいいが、何を書いても私にヘイトを向ける人間は「言い訳をするな」と言うに決まっているので、理由は書かない。
「理由を言って見ろ」と言うくせに、理由を言うと「言い訳をするな」と返して、そこから攻撃を始める上司がよくいる。
そういう上司には「理由を言って見ろ」と言われたら「何を言っても言い訳になりますから申しません、私の責任です」と答えるのがよろしい。
攻撃の取っ掛かりを無くしてさっさと仕事を始めた方が、お互い幸せである【笑
さて、今年最初の出版物が、三冊ほぼ同時に書店に並ぶことになった。
4月27日に、早川書房から「宇宙軍士官学校・3」
4月27日に、角川スニーカー文庫から「召喚主は家出猫・呼ばれてみれば最前線」
5月10日に、電撃文庫から「ご主人様は山猫姫・12 帝国再興編」
なぜ、三冊同時に刊行になったかと言うと、三冊同時に書いていたからである。
このへんが、今年に入ってから、ブログを更新しなかった理由の一つでもある。
最初は、こんな風にダンゴになるとは思っていなかった。
ちゃんと、一カ月おきに三冊出る予定だったのだが、最初の一冊が遅れ、そしてそれが次の一冊を遅れさせ、最後にどうにもならなくなって、三冊を同時進行で書くハメになったわけである。
運が良かったのが「宇宙軍士官学校」はスペオペ。「召喚主」は魔法世界が舞台のファンタジー。「山猫姫」は架空古代中華世界。と見事にシチュエーションが分かれているために、三冊を同時進行で書いても、混乱が少なかったと言うことである。
それでも書いていると、主人公の名前を間違えてしまったり、小さなミスは結構あった。
私はどうやら自作のキャラに思い入れが出来ないタイプらしい。
私が書きたい物語は「展開」>「キャラ」というものなので、その辺は仕方ないのかもしれない。
私は、主人公たちが絡む事態が、どう進み、それにどう対処し、どう解決するか。という「展開」が書きたいタイプの人間で、その「展開」が描ければ、キャラは実質どうでもいいのかもしれない。
展開を描くに足りるだけのデティル、つまり感情移入できる最低限のものさえあれば、それで物語が描けるわけで、それ以外にキャラに望むものは無いわけである。
私が書く物語のほとんどが、個人の枠の中で物語が進まない。全体を描く物語なのは、この辺りに理由があるような気がする。
私は個人の戦闘にあまり興味が無い。物語の視点が近すぎるものは、結局個人のレベルで終わってしまう。
「ケンカが強ければ偉い」と言う価値観は、どうにも好きになれないのである【笑
個人で出来ることには、限りがある。
この「厳然とした現実」を、乗り越える方法として「特殊能力」を主人公に持たせると言うのが、ごく一般的なエンタティメントの物語である。
私は「個人で出来ることには限りがある」と言う現実を乗り越える方法として「組織で立ち向かう」という方法を描こうとする。
組織の力。組織の使い方。
私はそれを身をもって知ってきたし、組織をより効果的に使う方法を常に考えて生きてきたわけで、この辺の価値観が抜けないのだろう。
組織をより効果的に使うことが出来れば、個人では立ち向かえない強大なアクシデントにも立ち向かえる。
特殊能力なんか無くても、人間という生き物はそうやって、人類の危機を乗り越えてきたわけである。
目の前に、そういう現実があり、そういう解決方法があるのだから、それを描くことに何の問題も無いわけである。
問題があるとしたら「ライトノベルのメイン読者の多くは、組織を知らない」と言う点だろう【笑
組織は常に個人の敵である。と言う価値観の方が、受け入れられやすいのは仕方が無いが、人生の中を、その価値観だけで生きていける時間はそう長くない。
英雄とは、ケンカだけが強い人間では無い。
英雄とは、いかに他人の力を使えるか、を知っている人間である。
この私の価値観は揺るがない。
私の書く物語が、この価値観に従うのは当然のことである。
そういう意味で、確かにライトノベルの価値観とは外れているのだろう。
しかし、読者が存在し、一定数売れ続けて、私が作家を続けていられる理由は
この価値観は、間違っていない。と言うことだと思うのだ。
]]>
-
2012年の終わりにここ最近の言いたいことをまとめて言ってみようと思う。
https://takazaka-enokino.blog.ss-blog.jp/2012-12-31
2012年も最後の日となった。マヤ暦では、12月21日が最後の日だったらしいが、世界はあいもかわらず続いているようである。 もしかすると、地球はとっくに滅亡していて、ここでこうやってこの文章を書いている私も、コレをお読みになっているあなたも、すでに肉体は滅び、精神的な残像として残留思念のなかに、日常を構築しその中で日々を過ごしているだけなのかもしれない。 でもまあ、すべての人に共通する認識が現実だとすれば、幻想でも思念体でも、世の中は続いていくのかもしれない。【笑 さて、昨年中は、色々な事があり、メディアワークスから山猫姫を三冊、早川JA文庫から宇宙軍士官学校を二冊出版させていただくことができた。 どちらもシリーズ続行中である。 私が書く小説は、それも皆、いわゆる「売れ線」から大外れの題材で、編集さんが「いいですね!」とは絶対に言わないものである。 ちょっと前に、ツィッターで、新人賞の下読みさんに「SFと年齢層のミスマッチしている作品は落すように」と言う指示があった。という話が流れたことがある。 これはある意味で、事実である。 「SF」や「戦記もの」はライトノベルに向いていないのだ。 ライトノベルに向いているのは、剣と魔法のファンタジーである。 ここから先は、私の独断であり、私が考えていることであり、あくまでも私個人の考えであり、「これが正しい」とか「この考えを認めろ」とか「この考え以外は認めない」と言っているわけではない。 「私はそうは思わない」「それはおかしい」という異論があるのは当然である。 ここは私のブログであり、私が考えていることをここに述べただけのことである。 さて、本題に戻ろう。 なぜ、ライトノベルにSFや、戦記ものが向いていないのか。なぜ、ファンタジーが向いているのか。 一言で言ってしまえば、作者の自由度の違いである。 高校生のレベルで「世界レベルを凌駕」できるように、世界を設計できるのは魔法が一番都合がいいのである。 魔法のような、「作者が言ったもの勝ち」の強みは、作者以上の権威が、現実世界のどこにも存在しないので。読者があれこれ妄想で参加できる余地がある。 同時に、これが、SFや戦記が敬遠される理由でもあるのだ。 SFには、根底に科学がある。戦記ものでも、根底に軍事がある。科学も軍事も、ある意味リアリズムの塊なのだ。 つまり、その世界における最高権威が現実世界に存在しており、作者が好きにで..
未分類
鷹見一幸【榎野英彦】
2012-12-31T21:14:31+09:00
マヤ暦では、12月21日が最後の日だったらしいが、世界はあいもかわらず続いているようである。
もしかすると、地球はとっくに滅亡していて、ここでこうやってこの文章を書いている私も、コレをお読みになっているあなたも、すでに肉体は滅び、精神的な残像として残留思念のなかに、日常を構築しその中で日々を過ごしているだけなのかもしれない。
でもまあ、すべての人に共通する認識が現実だとすれば、幻想でも思念体でも、世の中は続いていくのかもしれない。【笑
さて、昨年中は、色々な事があり、メディアワークスから山猫姫を三冊、早川JA文庫から宇宙軍士官学校を二冊出版させていただくことができた。
どちらもシリーズ続行中である。
私が書く小説は、それも皆、いわゆる「売れ線」から大外れの題材で、編集さんが「いいですね!」とは絶対に言わないものである。
ちょっと前に、ツィッターで、新人賞の下読みさんに「SFと年齢層のミスマッチしている作品は落すように」と言う指示があった。という話が流れたことがある。
これはある意味で、事実である。
「SF」や「戦記もの」はライトノベルに向いていないのだ。
ライトノベルに向いているのは、剣と魔法のファンタジーである。
ここから先は、私の独断であり、私が考えていることであり、あくまでも私個人の考えであり、「これが正しい」とか「この考えを認めろ」とか「この考え以外は認めない」と言っているわけではない。
「私はそうは思わない」「それはおかしい」という異論があるのは当然である。
ここは私のブログであり、私が考えていることをここに述べただけのことである。
さて、本題に戻ろう。
なぜ、ライトノベルにSFや、戦記ものが向いていないのか。なぜ、ファンタジーが向いているのか。
一言で言ってしまえば、作者の自由度の違いである。
高校生のレベルで「世界レベルを凌駕」できるように、世界を設計できるのは魔法が一番都合がいいのである。
魔法のような、「作者が言ったもの勝ち」の強みは、作者以上の権威が、現実世界のどこにも存在しないので。読者があれこれ妄想で参加できる余地がある。
同時に、これが、SFや戦記が敬遠される理由でもあるのだ。
SFには、根底に科学がある。戦記ものでも、根底に軍事がある。科学も軍事も、ある意味リアリズムの塊なのだ。
つまり、その世界における最高権威が現実世界に存在しており、作者が好きにできない。上手く作品世界を設定しないと。現実に作者の妄想が押しつぶされてしまうのだ。
SFを書いてみよう、と思う作家志望者の方で、勘違いしている人が多いのは、物語の世界を自分の得意とする部分にどう持ってくるか。その部分の勘違いである。
持って来れない部分は、語らない。という手もあるのだが、それを「悪手」と思い込んでいる人が実に多い。
たとえば「なぜ、ドラえもんが存在しているのに、ドラえもんのところに世界中が未来の技術を求めて殺到しないのか」みたいな部分である【笑
ドラえもんで、そのへんを説明しても、たぶん、上手く行かないだろう。作品の狙いに合わないリアリティが重さになってバランスが崩れるのは間違いない。
SFに必要なのは、『無駄に重いリアリティ』では無いのである。。
リアリティは必要だが、それよりは、『センスオブワンダー』が求められるのだ。そ その点、ドラえもんの持つバランス感覚には教わることが多いと思うのだ。
もし「必要でない部分は語らない」と言う方法ではなく、正面から描くとすれば、物語が現実に押しつぶされないために、物語の補強に現実を使う。という技術を持っていなければならない。
妄想を現実で補強して、説得力を持たせ、読者に「あるかもしれない」と思わせる。という手法を知らなければ、そういう物語は書けない。
ライトノベルと言うのは、設定は従であり、キャラクターが主である。説得力はキャラの描写とかそういう雰囲気で持たせることが多い。
その方が作者の自由度が高いからである。
だが、それはつまり作者自身が自分の妄想を「現実ではない」と思っているからできる。作家そのものが、自分の書くものを絵空事だと割り切っているからできる書き方なのだ。
ライトノベルにとって「現実」はノイズにしかならない。ライトノベルは「よく出来た夢」でなくてはならない。読者を現実に戻らせてはならないのである。
SFと戦記ものが、ライトノベルと相性が良くないものとして、編集さんが嫌う理由は、このあたりにあるような気がする。
誤解を招くといけないので、説明するが、私は「だから作家志望者はSFと戦記ものを書くな」と言っているわけではない。そこは誤解しないで欲しい。
商業小説に限らず、小説と言うのは「読者」を獲得して初めて意味があると私は思っている。
商業小説の場合は、その読者をより多く獲得し、お金を払ってもらわねばならない、という条件が上乗せされるわけである。
この「読者を獲得する」と言う部分を、誤解している方がちょくちょく見られるので、そのことについてこれから書く。
「読者のために書け」と言われると。読者に嫌われたくない、読者の思うがままのものを、これでございますね。とひれ伏して差し出せ。と言われているようにしか捉えられない人がいる。
作家の書きたいもの、好きなことを捻じ曲げて、読者に媚びろ。と受け取る人がよくいるのだが、誰もそんなことを要求してはいないのだ。
自分の書きたいもの、好きなもの、題材、その「面白さ」を読者に伝わるように書け。と言っているのに過ぎないのだ。
自分の好きなもの、書きたいもの、それは作者の根っこである。それを動かしてしまったのでは、作品はわけがわからない、根無し草になってしまう。
読者のことを考えて書け、というのは、その「自分が好きなもの、書きたいもの」と、「読者が受け入れてくれるもの」とを擦り合わせて、作品にしろ、と言っているにすぎない。
読者のことを考えて書け、と言われて、何を書いていいのかわからなくなる人は、おそらく自分の根っこがわかっていないのではないかと思う。
自分の好きなものがわかっておいれば「擦り合わせる」ことができるのだが、自分が無いから、どうしていいかわからなくなるのだ。
「書きたいものじゃ無くて売れるものを書けと言われる」みたいなことを言い出す。
そういう人が書きたいのは「読者不在の自己満足のカタマリ」なのだろうか? そうではあるまい。だとしたら、読者のことを考え、自分の好きなもの、書きたいものを、どうやれば読者に伝えられるかを、考えれば良いのである。
その「伝える技術」こそが、作家の命である。
これは作家に限った話ではない。創作者の技量というのは「面白い」を“作りだす”ことではなく、「面白い」を“伝える”ことにあると思う。
SFも、戦記ものも、「面白い」ことに変わりはない。でも、それを“伝える”ことができるかどうかは、作者の腕にかかっている。
SFや戦記ものに、編集さんがダメだしをするのは、SFや戦記が「面白くない」からではなく、それを面白く書くのが難しいからである。
『何を書くか』ではなく『どう書くか』なのだ。
最後に、ライトノベルを書きたい人に言っておきたいことがある。
ライトノベルの読者が読みたがっている物語には「面白い物語」の要素と「心地良い物語」の要素の両方が必要だ。ということである。
「面白い物語」だけで満足できる読者もいるだろうが、多くの読者は「心地良い物語」も合わせて読みたがっているのだ。
追い込まれる物語は好きではないし、あとで逆転するとわかっていても、敗北感というのは「心地良い」ものではない。
それを無くせと言っているのではない。そういった要素を必要以上に前面に押し出した物語は、いくら展開が面白くても、読者の支持は受けられないし、編集さんも「いいね」とは言わないだろう。
確かに今のライトノベルの主流となっているのは、心地良い物語が多い。だが、それを否定するのはいけない。
読者が「楽しんでいるもの」を否定してはいけないのだ。読者が「楽しんでいる」のは、嘘偽りのない、本音である。
読者ひとりひとりが自分の判断と責任で楽しんでいることであり、それを否定するのは、意味がないのである。
「おまえの楽しみ方は間違っている」は大きなお世話以外のなにものでもないのだ【笑
「これから作る作品」を、「今、売れている作品」から分析するのは、誰もがやることなのだが。この時に注意すべきは。今、売れている作品が好きでない人が、これをやると、分析が、著しく皮相的になる危険がある。
なぜなら、その人は、そういったものが好きでないのだ。面白いと思わないのだ。
好きでもない、面白くも無いものを「どこがいいのだろう」と分析すれば、ついつい、「こんなバカなものを楽しいと思うやつらは、この程度の連中に違いない」みたいな結論になりかねない。
「その程度の連中には、この程度のものでいいんだろ」みたいな考えで結論を出して、その好きでも面白くも無いものを「売れているから」と言う理由で書いたって、受け入れてもらえるわけが無いのである。
電撃大賞の〆切まで、あと百日である。
作家志望者の皆様は、自分の好きなもの、面白いと思うもの、その面白さを読者に伝えるために、ぜひ頑張って戴きたい。
]]>
-
宇宙軍士官学校の電子書籍化について。
https://takazaka-enokino.blog.ss-blog.jp/2012-12-13
期日はまだはっきり編集さんから聞いていないが、来年一月に早川書房から発売中の「宇宙軍士官学校」の既刊、つまり一巻と二巻が同時に電子書籍化されることになった。 どういうルートで流れるのか、アマゾンでダウンロードできるようになるのか、そういう詳しいことは、まだわからない。 今現在、私の書いた本で電子書籍化されているのは、アマゾンでダウンロードできるキンドル版「でたまか・第一部」の3冊と、角川でダウンロードできる「ガンズ・ハート」だけであるが、これに新たに「宇宙軍士官学校」が加わることになる。 先日「ご主人様は山猫姫・11」が、発売日前にアマゾンで予約数がオーバーし、発売日にはすでに売り切れ。という状態になった。 今現在(12月13日午後4時現在)もアマゾンでは取り扱い不能である。 電子書籍化すれば、すくなくとも、こういう「売り切れ・取り扱い不能」という状態は起こらない。 読者の方からウェブサイトのメールで「電子書籍化の許諾をお願いします」という要望を戴いたが、その権限は、私には無いのである【苦笑 電子書籍化するのは、あくまでも出版社であり、その出版社の方針によって左右される。 その決定権は、作家には無い。 つまり、出版社が「この本を電子書籍化しよう」と決定する、その部分に作家は何一つ関与できないのだ。 作家は出版社から「電子書籍化が決定しました、つきましては契約書をお送りしますのでサインして下さい」と言われて、初めて自分の書いた本が電子書籍になることを知るのである。 電子書籍化されない理由は、作家が許諾を出さないから、という場合もあるだろうが、少なくとも私の場合はそうではない。 私は基本的に、なんでもありだと思っている【笑 私の書いたものを電子書籍化するのも、二次利用するのも、すべてご自由に。というのが私の立場である。 なぜなら、私は作家であり、作家は本を書くのが仕事であり、それで、私の仕事は終わりだと思っているからである。 本になった後のことは、私の関与すべきことではない。 本というのは完全な一方通行のメディアである。 読者が、どんな感想を抱こうと、どう考えようと、作者にはどうしようもないのである。 百人の人が読めば百人なりの感想や印象を抱くだろう。その印象が、私の考えたものと違っていても、それを訂正する術を私は持っていない。 コミック化されたときも、私は一切関与しなかった。 最初の頃、ファミ通の編集さんが、..
未分類
鷹見一幸【榎野英彦】
2012-12-13T16:19:13+09:00
どういうルートで流れるのか、アマゾンでダウンロードできるようになるのか、そういう詳しいことは、まだわからない。
今現在、私の書いた本で電子書籍化されているのは、アマゾンでダウンロードできるキンドル版「でたまか・第一部」の3冊と、角川でダウンロードできる「ガンズ・ハート」だけであるが、これに新たに「宇宙軍士官学校」が加わることになる。
先日「ご主人様は山猫姫・11」が、発売日前にアマゾンで予約数がオーバーし、発売日にはすでに売り切れ。という状態になった。
今現在(12月13日午後4時現在)もアマゾンでは取り扱い不能である。
電子書籍化すれば、すくなくとも、こういう「売り切れ・取り扱い不能」という状態は起こらない。
読者の方からウェブサイトのメールで「電子書籍化の許諾をお願いします」という要望を戴いたが、その権限は、私には無いのである【苦笑
電子書籍化するのは、あくまでも出版社であり、その出版社の方針によって左右される。
その決定権は、作家には無い。
つまり、出版社が「この本を電子書籍化しよう」と決定する、その部分に作家は何一つ関与できないのだ。
作家は出版社から「電子書籍化が決定しました、つきましては契約書をお送りしますのでサインして下さい」と言われて、初めて自分の書いた本が電子書籍になることを知るのである。
電子書籍化されない理由は、作家が許諾を出さないから、という場合もあるだろうが、少なくとも私の場合はそうではない。
私は基本的に、なんでもありだと思っている【笑
私の書いたものを電子書籍化するのも、二次利用するのも、すべてご自由に。というのが私の立場である。
なぜなら、私は作家であり、作家は本を書くのが仕事であり、それで、私の仕事は終わりだと思っているからである。
本になった後のことは、私の関与すべきことではない。
本というのは完全な一方通行のメディアである。
読者が、どんな感想を抱こうと、どう考えようと、作者にはどうしようもないのである。
百人の人が読めば百人なりの感想や印象を抱くだろう。その印象が、私の考えたものと違っていても、それを訂正する術を私は持っていない。
コミック化されたときも、私は一切関与しなかった。
最初の頃、ファミ通の編集さんが、マンガの「ネーム」を送って来られたが、私はそれを断った。
餅は餅屋に任せるのが一番だと思ったからである。
小説に出来ることと、マンガに出来ることは違う。
私はマンガ同人「作画グループ」の一員であり、ずっとマンガに関わってきた。
みなもと太郎氏の「風雲児たち」のアシスタントもやったことがある。
自分の書いた物語を、マンガにするとしたら、どう描くかは、私の中にもある。
しかし、それは「私がマンガを書くとしたら」というものであり、それを他人に要求することはできない。
私が口を出せるのは、私自身だけである【笑
]]>
-
ツィッターで拾った話。
https://takazaka-enokino.blog.ss-blog.jp/2012-12-11
東北には、なんというか「人の情念」を感じさせるものがある。 合理と理性では割り切れない、人間という生き物の持つ感情である。 先日、ツィッターで、こんな話が流れてきた。福袋 @hukubukuro仙台の姉が、タクシーの運転手さんから聞いた話。「震災から3回も幽霊を乗せた。お客さんを乗せてドア閉め、○○までと言われ、ああ他所から来た人だったかと思って。そこはもう何もありませんよ、って振り向くと、いない」「そういう時は言われた辺りまで行くんです。帰りたいだろうから…」合掌 この話を読んで心揺さぶられるのは、怪談話の部分ではない。 後段の、運転手さんの語りである。「そういう時は言われた辺りまで行くんです。帰りたいだろうから」 この一言の持つ暖かさは、なんとも表現しようが無い。 人間の良さ、人間を信じたくなる暖かさ。 この話を「迷信だ」「非科学的だ」「不合理だ」と、切って捨てるのは簡単だ。 そして、それが正しいのだろう。 だが、日本人と言うのは、こういう考え方とこういう価値観で生きてきたのだ。 津軽地方に「雁風呂」という言い伝えがある。 秋になると、遠く北の国から雁が渡ってくる。 雁は口に一本の枝を咥えている。 海の上で休む時、雁はその枝を海に浮かべそれに停まって休むのだという。 日本の海岸に着くと、雁はその枝を浜辺に落として日本の野山に飛んでいく。 やがて、季節が変わり、春が近づくと、雁は北の国に戻っていく。 そのとき、この浜辺に寄って、咥えてきた枝を再び咥えて北の空に飛んでいく 浜辺には、生きて還れなかった雁の数だけ枝が残る。 人々はその枝を拾い集めて風呂を沸かし、旅人に振る舞い、死んだ雁の供養をする。 日本人と言うのは、こういうメンタリティで生きてきたのである。 この話が真実なのか、どうなのか、そういうことではない。 世の中には「正しい」「正しくない」と言う価値観以外にも、いくつもの価値観がある。 グローバルスタンダードと言うのは、そういう日本人のメンタリティを否定し、捨て去ることでしか達成できないものなのだろうか? 私はそうは思わない。 度重なる生存競争と淘汰の先にたどり着く場所は、砂漠である。 ガラパゴスという名前の共存の概念の先にも、未来はあると思うのだ。
未分類
鷹見一幸【榎野英彦】
2012-12-11T23:57:16+09:00
合理と理性では割り切れない、人間という生き物の持つ感情である。
先日、ツィッターで、こんな話が流れてきた。
福袋 @hukubukuro
仙台の姉が、タクシーの運転手さんから聞いた話。「震災から3回も幽霊を乗せた。お客さんを乗せてドア閉め、○○までと言われ、ああ他所から来た人だったかと思って。そこはもう何もありませんよ、って振り向くと、いない」「そういう時は言われた辺りまで行くんです。帰りたいだろうから…」合掌
この話を読んで心揺さぶられるのは、怪談話の部分ではない。
後段の、運転手さんの語りである。
「そういう時は言われた辺りまで行くんです。帰りたいだろうから」
この一言の持つ暖かさは、なんとも表現しようが無い。
人間の良さ、人間を信じたくなる暖かさ。
この話を「迷信だ」「非科学的だ」「不合理だ」と、切って捨てるのは簡単だ。
そして、それが正しいのだろう。
だが、日本人と言うのは、こういう考え方とこういう価値観で生きてきたのだ。
津軽地方に「雁風呂」という言い伝えがある。
秋になると、遠く北の国から雁が渡ってくる。
雁は口に一本の枝を咥えている。
海の上で休む時、雁はその枝を海に浮かべそれに停まって休むのだという。
日本の海岸に着くと、雁はその枝を浜辺に落として日本の野山に飛んでいく。
やがて、季節が変わり、春が近づくと、雁は北の国に戻っていく。
そのとき、この浜辺に寄って、咥えてきた枝を再び咥えて北の空に飛んでいく
浜辺には、生きて還れなかった雁の数だけ枝が残る。
人々はその枝を拾い集めて風呂を沸かし、旅人に振る舞い、死んだ雁の供養をする。
日本人と言うのは、こういうメンタリティで生きてきたのである。
この話が真実なのか、どうなのか、そういうことではない。
世の中には「正しい」「正しくない」と言う価値観以外にも、いくつもの価値観がある。
グローバルスタンダードと言うのは、そういう日本人のメンタリティを否定し、捨て去ることでしか達成できないものなのだろうか?
私はそうは思わない。
度重なる生存競争と淘汰の先にたどり着く場所は、砂漠である。
ガラパゴスという名前の共存の概念の先にも、未来はあると思うのだ。
]]>
-
「ご主人様は山猫姫・11」が出ます。
https://takazaka-enokino.blog.ss-blog.jp/2012-12-07
電撃文庫の「ご主人様は山猫姫・11」が12月10日(アマゾンに拠ると12月8日)に発売になる。 私の78冊目の本となる(ガンダムアンソロジーを含む) 例によって「いつもの鷹見一幸」であり、好きな人は好きだろうし、嫌いな人は嫌いな物語である。【笑 「山猫姫」は1巻から10巻まで、ほとんど部数が落ちていない。シリーズ物はメディアミックス展開しない限り、部数が徐々に落ちていくものだが、山猫姫はその部数の下落がほとんどなく、ほぼ同じ実売部数を保っている。 長期シリーズの部数が落ちていく理由は、読者の方が離れていくからである。 自分の望んでいる展開がそこに描かれていなければ、読み続ける理由は無いのだから、それは当然である。 メディアミックス展開によって、新規の読者を呼び込むことができれば、読者数は減少よりも新規読者が上回るので、部数は落ちない。 私の場合は、メディアミックスは、会長の切り札のコミカライズがあるだけで、その他は皆無である。 山猫姫も、当然メディアミックス展開は、まったく無い。「ご主人様は山猫姫」という名が付いているコンテンツは、電撃文庫の小説だけである。 コンテンツの存在が広く知られることもなく、当然、マスコミに取り上げられることも無く、地道に本が出ているだけのコンテンツなのに、読者数が落ちない理由は、一つしかない。「ご主人様は山猫姫」には、固定客がついている。ということである。ここで誤解してはならないのは、固定客が存在するのは「ご主人様は山猫姫」と言うコンテンツに付いているのであって、私に付いているのではない。ということである。 私は作家と言うのは「小説」と言うコンテンツを、ちまちまと手作りで製作し、世に送り出している職人だと思っている。 いわば家具を造っている職人などと、なんら変わるところはない。 念のために言って置くが、これは私がそう思う。ということであって、これを読んでいる方に「そう思え」とか「そうでなくてはおかしい」と言っているわけではない。 いや、私はそうは思わない。と言う人がいても当然である。思うのは自由である。 話を元に戻そう。 私は、自分を職人だと思っている。脳内にある物語を、こつこつと文章に置き換えて、小説と言う品物にして、世に出しているわけである。 職人の評価はどこで決まるかと言えば、それは造り出した品物の出来である。 出来が良ければ、その品物は売れ、問屋も職人もお客さんから対価..
未分類
鷹見一幸【榎野英彦】
2012-12-07T03:18:37+09:00
私の78冊目の本となる(ガンダムアンソロジーを含む)
例によって「いつもの鷹見一幸」であり、好きな人は好きだろうし、嫌いな人は嫌いな物語である。【笑
「山猫姫」は1巻から10巻まで、ほとんど部数が落ちていない。シリーズ物はメディアミックス展開しない限り、部数が徐々に落ちていくものだが、山猫姫はその部数の下落がほとんどなく、ほぼ同じ実売部数を保っている。
長期シリーズの部数が落ちていく理由は、読者の方が離れていくからである。
自分の望んでいる展開がそこに描かれていなければ、読み続ける理由は無いのだから、それは当然である。
メディアミックス展開によって、新規の読者を呼び込むことができれば、読者数は減少よりも新規読者が上回るので、部数は落ちない。
私の場合は、メディアミックスは、会長の切り札のコミカライズがあるだけで、その他は皆無である。
山猫姫も、当然メディアミックス展開は、まったく無い。「ご主人様は山猫姫」という名が付いているコンテンツは、電撃文庫の小説だけである。
コンテンツの存在が広く知られることもなく、当然、マスコミに取り上げられることも無く、地道に本が出ているだけのコンテンツなのに、読者数が落ちない理由は、一つしかない。
「ご主人様は山猫姫」には、固定客がついている。ということである。
ここで誤解してはならないのは、固定客が存在するのは「ご主人様は山猫姫」と言うコンテンツに付いているのであって、私に付いているのではない。ということである。
私は作家と言うのは「小説」と言うコンテンツを、ちまちまと手作りで製作し、世に送り出している職人だと思っている。
いわば家具を造っている職人などと、なんら変わるところはない。
念のために言って置くが、これは私がそう思う。ということであって、これを読んでいる方に「そう思え」とか「そうでなくてはおかしい」と言っているわけではない。
いや、私はそうは思わない。と言う人がいても当然である。思うのは自由である。
話を元に戻そう。
私は、自分を職人だと思っている。脳内にある物語を、こつこつと文章に置き換えて、小説と言う品物にして、世に出しているわけである。
職人の評価はどこで決まるかと言えば、それは造り出した品物の出来である。
出来が良ければ、その品物は売れ、問屋も職人もお客さんから対価を戴いて生活できる。
出来が悪ければ、その品物は売れないし、問屋も「こいつはちょっと引き取れません」と難色を示すだろう。
客がまず見るのは品物の「出来」であって、それを造った職人の名前ではない。
誰が造ったものであろうと、出来が良ければお客さんは買ってくれるのである。
世の中には、作者不詳の物語が本になったものが、山のようにある。
それが本になった理由は、「面白かった」からである。面白ければ、作者がわからなくても、きっと誰かがそれを本にして世に出すのである。
作家は誰でもいいのだ。書いたものが面白ければ、それは価値を持つのである。
鷹見一幸の名前で書いてきた78冊の本のうち、もし、半分が、全然違う名前で書かれていたとしたら、その面白さは消えるだろうか?
私は、そんなことは無いと思う。作家の名前で面白さが変わるわけが無いのだ。
だとすれば、作家の名前は、読者が作品を判別するための記号、トレードマーク以外の意味は無いと思うのだ。
「鷹見一幸印の物語は面白い」と思っていただけるようなコンテンツを造り続けることが、私の仕事であり、私の役目である。
山猫姫がもうすぐ書店に並ぶので、立ち読みしていただいて、面白そうだと思ったらお買い上げ戴きたい。
]]>
-
「すげえ!」と思った経験が、作家の軸になる。
https://takazaka-enokino.blog.ss-blog.jp/2012-11-24
人間が、作家を志す。その動機はなんだろうか? 私の場合は「すげえ!」という経験である。 小説を読んで、マンガを読んで、映画を見て、そして「すげえ!」と圧倒された経験。 その前に、完全に圧倒され、ひれ伏した経験。 この経験、体験が、私を作家に導いてくれたのだと思う。 この「圧倒された経験」があればこそ、それにあこがれるにしろ、それに反発するにしろ、それは自分の軸になる。 もし、この「すげえ!」という感覚が無かったなら。 単に「あ、面白い」程度の感慨しか抱かなかったとしたら。 私はおそらく作家になることは無かっただろうと思う。 ハインライン、小松左京、筒井康隆、桂米朝、佐藤さとる、横溝正史、アリステア・マクリーン、ウンベルト・エーコ、京極夏彦、みなもと太郎、聖悠紀、川原泉、エラリークィーン、D・J・シマック、E・E・スミス……列記すればきりが無い。 私は小学生の頃から、こういった先達の送り出した作品を読んで「すげえ!」「すげえ!」と言い続けてきた。 本屋行って「レンズマン」読んで「すげえ!」「デビルマン」読んで「すげえ!」映画館行って「2001年」見て「すげえ!」「海のトリトン」見て「すげえ!」 これが私の中学生時代の記憶である【笑 これらの創作物が私の目標であり、私の軸になっている。 小説を書いていて不安になったとき。これでいいのだろうか? これは本当に面白いと思ってもらえるのだろうか? と不安になったとき。 私が過去に「すげえ!」と思った作品が私の軸になってくれた。 私の書くものが、ぶれずに済んでいるのは、こういった、過去に私が心酔した作品のおかげである。 どんな風に書けばいいのだろう? 何を書けばいいのだろう? そういった不安を抱いた時、常に、私の前に、過去の先達がお書きになった「すげえ」作品群が、道を照らしてくれたのだ。 「ここに来い」……と。それは目標であり、道標であり、かがり火であり、そして私が迷走しないための碇であった。 「面白い作品」「好きな作品」では、この役目はできない。そういった作品は軽いのだ。目標にはなるだろう、でも軸にはならない。碇にもならない。 作品に圧倒された経験。これが無い人には、私が何を言っているのか理解できないかもしれない。 今までに読んできたどの作品に対しても「俺には書けない、かなわない」と思ったことが無い人には、この感覚は理解できないだろう。 私は、そういう「すげえ」作品た..
未分類
鷹見一幸【榎野英彦】
2012-11-25T00:13:47+09:00
私の場合は「すげえ!」という経験である。
小説を読んで、マンガを読んで、映画を見て、そして「すげえ!」と圧倒された経験。
その前に、完全に圧倒され、ひれ伏した経験。
この経験、体験が、私を作家に導いてくれたのだと思う。
この「圧倒された経験」があればこそ、それにあこがれるにしろ、それに反発するにしろ、それは自分の軸になる。
もし、この「すげえ!」という感覚が無かったなら。
単に「あ、面白い」程度の感慨しか抱かなかったとしたら。
私はおそらく作家になることは無かっただろうと思う。
ハインライン、小松左京、筒井康隆、桂米朝、佐藤さとる、横溝正史、アリステア・マクリーン、ウンベルト・エーコ、京極夏彦、みなもと太郎、聖悠紀、川原泉、エラリークィーン、D・J・シマック、E・E・スミス……列記すればきりが無い。
私は小学生の頃から、こういった先達の送り出した作品を読んで「すげえ!」「すげえ!」と言い続けてきた。
本屋行って「レンズマン」読んで「すげえ!」「デビルマン」読んで「すげえ!」映画館行って「2001年」見て「すげえ!」「海のトリトン」見て「すげえ!」
これが私の中学生時代の記憶である【笑
これらの創作物が私の目標であり、私の軸になっている。
小説を書いていて不安になったとき。これでいいのだろうか? これは本当に面白いと思ってもらえるのだろうか? と不安になったとき。
私が過去に「すげえ!」と思った作品が私の軸になってくれた。
私の書くものが、ぶれずに済んでいるのは、こういった、過去に私が心酔した作品のおかげである。
どんな風に書けばいいのだろう?
何を書けばいいのだろう?
そういった不安を抱いた時、常に、私の前に、過去の先達がお書きになった「すげえ」作品群が、道を照らしてくれたのだ。
「ここに来い」……と。
それは目標であり、道標であり、かがり火であり、そして私が迷走しないための碇であった。
「面白い作品」「好きな作品」では、この役目はできない。
そういった作品は軽いのだ。目標にはなるだろう、でも軸にはならない。碇にもならない。
作品に圧倒された経験。これが無い人には、私が何を言っているのか理解できないかもしれない。
今までに読んできたどの作品に対しても「俺には書けない、かなわない」と思ったことが無い人には、この感覚は理解できないだろう。
私は、そういう「すげえ」作品たちに近づこうと思ってきた。
追い抜かすことなんかできっこない。でもせめて、その背中が見えるところまで近づきたいと思ってきた。
作家になって13年。追いつくどころか、ドンドン離されて。周回遅れでヒイハアぜいぜい言いながら走っている最中である【笑
話は代わるが、世間はもうすぐ師走。忘年会シーズンである。
会社勤めの方は、職場で、学生の方はサークルなどで、上司や、諸先輩方と宴席に出ることもあるだろう。
そういうときに、可愛がられる方法をお教えしよう。
実に簡単である。
「上司(先輩)の仕事振りを見て、真似しようと思います。上司(先輩)は僕の手本です」
と言えばいいのである。【笑
人間何が嬉しいと言って、自分が誰かの先達になれることほど嬉しいことは無いのだ。
そう言ってくれた後輩を、憎む馬鹿はいない。
たとえ、一ミリでも尊敬できる部分があるなら、そこを拡大して、手本にすればいいのだ。
まったく手本にする気がない。尊敬するところが無いのなら、まあ仕方が無い。近づかないに限る【笑
新人作家さんは、諸先輩方の「デビュー作」を暗記しておくといい。
その作家さんの前に行って
「私は○○先生の△△【デビュー作のタイトル】を読んで「すげえ!」と思って、作家になろうと思いました」と言うのだ。
きっと可愛がってもらえるはずである【笑
さて、宇宙軍士官学校について、早くも色々ご感想を戴いた。
「たった15年で世界がこんなに変わるわけが無い、ご都合主義だ」とおっしゃる方もいる。
そういう方は、明治元年から、明治15年までの間に、日本という国に起きた、テクノロジーの激変と、それに伴う文化や常識の変化をお調べになって欲しい。
ちょんまげと刀、籠と飛脚、移動手段は徒歩だった時代の人々の距離感や認識が、十五年でどれほど変わったか、もし、その時代に生きていれば、それは想像を絶するものだったはずだ。
五年で鉄道が開通し、日本全国に郵便が届き、籠は人力車に変わり、明治二十二年には東海道線が全通して、東京から神戸まで20時間5分で行けるようになる。
東海道五十三次を歩いて、江戸から京都まで二週間を要していた時代から、わずか20年で、一日以内でその距離を移動出来るようになったのである。
「宇宙軍士官学校」の世界の人類は「文明開化」の真っ只中にいる日本人なのである。
このことは一巻にも書いてあるのだが、文明開化の知識はあっても、それが人々をどう変えたのか、についてまで考えられる人は少ないのかもしれない。
作中に「ガンダム」などの単語が出てくることに違和感を覚える方も結構いるようだ。
「宇宙軍士官学校」の作品世界は、はるかな未来でも、この世界とは異なる進化を遂げた異世界の話でもない。
この、今、我々が暮らしている、この現実世界と地続きの世界である。
今、この文章をお読みになっている、その瞬間に異星人が訪れた、その十五年後の世界である。
当然ガンダムは存在するし、エヴァンゲリオンは劇場版が公開されているし、スカイツリーは建っているし、「きのこの山」と「たけのこの里」は抗争を続けているのである。【笑
作品世界が、現実から遊離していないと納得できない方には、申し訳ないが、これは私の書くものに共通する描き方である。
「でたまか」のような、まったく切り離された世界観のスペオペにするには、少々重いテーマを扱うので、その重さを支えるには、現実の枠組みが必要だと考えたわけである。
ご了承願いたい。
]]>
-
「宇宙軍士官学校」について、色々考えていること。
https://takazaka-enokino.blog.ss-blog.jp/2012-11-22
本日、11月22日は早川書房から「宇宙軍士官学校」の二巻が発売される日である。 二巻の書き方は、一巻の書き方と、さほど変わっていない。 わかりやすく、読みやすく、展開がサクサクと進む。 しかし、内容はちょっとハードになって来ている。 描かれている内容はハードだが、書き方が軽いので、さほど読者の負担にはならないと思う。 小説の印象は「語り口」で、かなり左右される。 わかりやすく読みやすく書くと、結構重い内容も、するっと読んでもらえるのだ。 私は、今の読者の方にとって、一番重要なのは、この「読み手にストレスを与えない」と言う書き方ではないかと思う。 内容を深く読もうと思えばいくらでも読める。そういう内容の情報をしっかり持っている物語を、さらりと読ませる。 これが、私の考える「エンタティメント」である。 しっかりとした設定とバックグラウンドを持った世界観の話を、しっかりと書くのは、スタンダードな書き方である。 私はその「書き方」の部分にジュヴナイルの手法を使っている。 ジュヴナイルとライトノベルの違いは何か。それは、キャラクターの描き方だと思う。 ジュヴナイルは、作品世界とキャラクターが独立している。平行して描かれる。 ライトノベルは、キャラクターと作品世界は同一である。世界はキャラクターに付随するものとして描かれる。 宇宙軍士官学校は、キャラクターを、ほとんど描写していない。女の子も出てくるが、物語を動かす脇役の位置に留まっている。 唯一主人公に影響を与えるキャラとして描かれているのは、電子人格の「ロボ」だけである。【笑 私は、宇宙軍士官学校で「展開」を書こうと思っている。 キャラクターに対する興味で物語を引っ張っていくのではなく、キャラクターの直面する事件に、どう対処するのか、というその思考や方法に対する興味で、物語を引っ張っていけたら、と思っている。 この点で、一般的なライトノベルとは大きく違う。 果たして、こういう書き方が、受け入れてもらえるかどうか、おっかなびっくりで一巻を出したのだが、おかげさまで、増刷される程度には売れてくれた。 そしてこうして何とか二巻も出すことができた。 構想では全五巻くらいでまとめるつもりなので、この後に続く巻も楽しみにしていて欲しい。 もっとも、売れなければ、その時点で終了であるが。【苦笑
未分類
鷹見一幸【榎野英彦】
2012-11-22T03:50:43+09:00
二巻の書き方は、一巻の書き方と、さほど変わっていない。
わかりやすく、読みやすく、展開がサクサクと進む。
しかし、内容はちょっとハードになって来ている。
描かれている内容はハードだが、書き方が軽いので、さほど読者の負担にはならないと思う。
小説の印象は「語り口」で、かなり左右される。
わかりやすく読みやすく書くと、結構重い内容も、するっと読んでもらえるのだ。
私は、今の読者の方にとって、一番重要なのは、この「読み手にストレスを与えない」と言う書き方ではないかと思う。
内容を深く読もうと思えばいくらでも読める。そういう内容の情報をしっかり持っている物語を、さらりと読ませる。
これが、私の考える「エンタティメント」である。
しっかりとした設定とバックグラウンドを持った世界観の話を、しっかりと書くのは、スタンダードな書き方である。
私はその「書き方」の部分にジュヴナイルの手法を使っている。
ジュヴナイルとライトノベルの違いは何か。それは、キャラクターの描き方だと思う。
ジュヴナイルは、作品世界とキャラクターが独立している。平行して描かれる。
ライトノベルは、キャラクターと作品世界は同一である。世界はキャラクターに付随するものとして描かれる。
宇宙軍士官学校は、キャラクターを、ほとんど描写していない。女の子も出てくるが、物語を動かす脇役の位置に留まっている。
唯一主人公に影響を与えるキャラとして描かれているのは、電子人格の「ロボ」だけである。【笑
私は、宇宙軍士官学校で「展開」を書こうと思っている。
キャラクターに対する興味で物語を引っ張っていくのではなく、キャラクターの直面する事件に、どう対処するのか、というその思考や方法に対する興味で、物語を引っ張っていけたら、と思っている。
この点で、一般的なライトノベルとは大きく違う。
果たして、こういう書き方が、受け入れてもらえるかどうか、おっかなびっくりで一巻を出したのだが、おかげさまで、増刷される程度には売れてくれた。
そしてこうして何とか二巻も出すことができた。
構想では全五巻くらいでまとめるつもりなので、この後に続く巻も楽しみにしていて欲しい。
もっとも、売れなければ、その時点で終了であるが。【苦笑
]]>
-
ブログ更新ついでに広告も更新。
https://takazaka-enokino.blog.ss-blog.jp/2012-11-18
ツィッターで、私のサイトの「著作紹介に、「宇宙軍士官学校」も「山猫姫9・10」も掲載されていないのですがどうしてですか?」というご質問を受けた。 理由は、忙しくてめんどくさいから。である【苦笑 そもそも、ブログ本文からして二ヶ月放置なのだからして、中の記事や広告バナーが更新できるわけが無い。「雑家屋鷹見商店」のサイトは、実は友人に依頼して作ってもらっている。その友人もまた忙しくなってしまい、こまめな更新ができなくなったので、こうやって日記分だけをブログにしたわけである。 そしてまたブログも放置。ということではいけないので、なんとか更新したついでに、このブログの左右のバナーも更新してみた。 左は「最新刊」右は「電子書籍」である。 最新刊は11月22日発売予定の「宇宙軍士官学校・2」と現段階の山猫姫の最新刊である「山猫姫10」である。 電子書籍は、現在キンドルでも発害している「でたまか第一部・三冊」である。 実を言うとこれ以外にも電撃文庫の「ガンズ・ハート」も電子書籍化されているのだが、それは角川書店の電子書籍であり、アマゾンで購入はできない。 こういったアフリエィトをブログに掲載し、収入を得ているという人の話をよく聞くが、私のこのブログの場合、今年一月から現在までの間のアフリエィト収入は1000円ちょっとである【笑 更新もせずに二ヶ月放置するような人間では、アフリエィトのバナーを押して物を買うようなお客さんが来るわけが無い。 流行を追いかけ、もしくは便利な品物、役に立つ品物を見つけ出し、こまめに更新して、お客さんを逃がさない、そういう努力をしてはじめて、対価が生じるわけである。 ネットもリアルもその辺の理屈は同じである。
未分類
鷹見一幸【榎野英彦】
2012-11-19T00:10:38+09:00
理由は、忙しくてめんどくさいから。である【苦笑
そもそも、ブログ本文からして二ヶ月放置なのだからして、中の記事や広告バナーが更新できるわけが無い。
「雑家屋鷹見商店」のサイトは、実は友人に依頼して作ってもらっている。その友人もまた忙しくなってしまい、こまめな更新ができなくなったので、こうやって日記分だけをブログにしたわけである。
そしてまたブログも放置。ということではいけないので、なんとか更新したついでに、このブログの左右のバナーも更新してみた。
左は「最新刊」右は「電子書籍」である。
最新刊は11月22日発売予定の「宇宙軍士官学校・2」と現段階の山猫姫の最新刊である「山猫姫10」である。
電子書籍は、現在キンドルでも発害している「でたまか第一部・三冊」である。
実を言うとこれ以外にも電撃文庫の「ガンズ・ハート」も電子書籍化されているのだが、それは角川書店の電子書籍であり、アマゾンで購入はできない。
こういったアフリエィトをブログに掲載し、収入を得ているという人の話をよく聞くが、私のこのブログの場合、今年一月から現在までの間のアフリエィト収入は1000円ちょっとである【笑
更新もせずに二ヶ月放置するような人間では、アフリエィトのバナーを押して物を買うようなお客さんが来るわけが無い。
流行を追いかけ、もしくは便利な品物、役に立つ品物を見つけ出し、こまめに更新して、お客さんを逃がさない、そういう努力をしてはじめて、対価が生じるわけである。
ネットもリアルもその辺の理屈は同じである。
]]>