2012年の終わりにここ最近の言いたいことをまとめて言ってみようと思う。
2012年も最後の日となった。
マヤ暦では、12月21日が最後の日だったらしいが、世界はあいもかわらず続いているようである。
もしかすると、地球はとっくに滅亡していて、ここでこうやってこの文章を書いている私も、コレをお読みになっているあなたも、すでに肉体は滅び、精神的な残像として残留思念のなかに、日常を構築しその中で日々を過ごしているだけなのかもしれない。
でもまあ、すべての人に共通する認識が現実だとすれば、幻想でも思念体でも、世の中は続いていくのかもしれない。【笑
さて、昨年中は、色々な事があり、メディアワークスから山猫姫を三冊、早川JA文庫から宇宙軍士官学校を二冊出版させていただくことができた。
どちらもシリーズ続行中である。
私が書く小説は、それも皆、いわゆる「売れ線」から大外れの題材で、編集さんが「いいですね!」とは絶対に言わないものである。
ちょっと前に、ツィッターで、新人賞の下読みさんに「SFと年齢層のミスマッチしている作品は落すように」と言う指示があった。という話が流れたことがある。
これはある意味で、事実である。
「SF」や「戦記もの」はライトノベルに向いていないのだ。
ライトノベルに向いているのは、剣と魔法のファンタジーである。
ここから先は、私の独断であり、私が考えていることであり、あくまでも私個人の考えであり、「これが正しい」とか「この考えを認めろ」とか「この考え以外は認めない」と言っているわけではない。
「私はそうは思わない」「それはおかしい」という異論があるのは当然である。
ここは私のブログであり、私が考えていることをここに述べただけのことである。
さて、本題に戻ろう。
なぜ、ライトノベルにSFや、戦記ものが向いていないのか。なぜ、ファンタジーが向いているのか。
一言で言ってしまえば、作者の自由度の違いである。
高校生のレベルで「世界レベルを凌駕」できるように、世界を設計できるのは魔法が一番都合がいいのである。
魔法のような、「作者が言ったもの勝ち」の強みは、作者以上の権威が、現実世界のどこにも存在しないので。読者があれこれ妄想で参加できる余地がある。
同時に、これが、SFや戦記が敬遠される理由でもあるのだ。
SFには、根底に科学がある。戦記ものでも、根底に軍事がある。科学も軍事も、ある意味リアリズムの塊なのだ。
つまり、その世界における最高権威が現実世界に存在しており、作者が好きにできない。上手く作品世界を設定しないと。現実に作者の妄想が押しつぶされてしまうのだ。
SFを書いてみよう、と思う作家志望者の方で、勘違いしている人が多いのは、物語の世界を自分の得意とする部分にどう持ってくるか。その部分の勘違いである。
持って来れない部分は、語らない。という手もあるのだが、それを「悪手」と思い込んでいる人が実に多い。
たとえば「なぜ、ドラえもんが存在しているのに、ドラえもんのところに世界中が未来の技術を求めて殺到しないのか」みたいな部分である【笑
ドラえもんで、そのへんを説明しても、たぶん、上手く行かないだろう。作品の狙いに合わないリアリティが重さになってバランスが崩れるのは間違いない。
SFに必要なのは、『無駄に重いリアリティ』では無いのである。。
リアリティは必要だが、それよりは、『センスオブワンダー』が求められるのだ。そ その点、ドラえもんの持つバランス感覚には教わることが多いと思うのだ。
もし「必要でない部分は語らない」と言う方法ではなく、正面から描くとすれば、物語が現実に押しつぶされないために、物語の補強に現実を使う。という技術を持っていなければならない。
妄想を現実で補強して、説得力を持たせ、読者に「あるかもしれない」と思わせる。という手法を知らなければ、そういう物語は書けない。
ライトノベルと言うのは、設定は従であり、キャラクターが主である。説得力はキャラの描写とかそういう雰囲気で持たせることが多い。
その方が作者の自由度が高いからである。
だが、それはつまり作者自身が自分の妄想を「現実ではない」と思っているからできる。作家そのものが、自分の書くものを絵空事だと割り切っているからできる書き方なのだ。
ライトノベルにとって「現実」はノイズにしかならない。ライトノベルは「よく出来た夢」でなくてはならない。読者を現実に戻らせてはならないのである。
SFと戦記ものが、ライトノベルと相性が良くないものとして、編集さんが嫌う理由は、このあたりにあるような気がする。
誤解を招くといけないので、説明するが、私は「だから作家志望者はSFと戦記ものを書くな」と言っているわけではない。そこは誤解しないで欲しい。
商業小説に限らず、小説と言うのは「読者」を獲得して初めて意味があると私は思っている。
商業小説の場合は、その読者をより多く獲得し、お金を払ってもらわねばならない、という条件が上乗せされるわけである。
この「読者を獲得する」と言う部分を、誤解している方がちょくちょく見られるので、そのことについてこれから書く。
「読者のために書け」と言われると。読者に嫌われたくない、読者の思うがままのものを、これでございますね。とひれ伏して差し出せ。と言われているようにしか捉えられない人がいる。
作家の書きたいもの、好きなことを捻じ曲げて、読者に媚びろ。と受け取る人がよくいるのだが、誰もそんなことを要求してはいないのだ。
自分の書きたいもの、好きなもの、題材、その「面白さ」を読者に伝わるように書け。と言っているのに過ぎないのだ。
自分の好きなもの、書きたいもの、それは作者の根っこである。それを動かしてしまったのでは、作品はわけがわからない、根無し草になってしまう。
読者のことを考えて書け、というのは、その「自分が好きなもの、書きたいもの」と、「読者が受け入れてくれるもの」とを擦り合わせて、作品にしろ、と言っているにすぎない。
読者のことを考えて書け、と言われて、何を書いていいのかわからなくなる人は、おそらく自分の根っこがわかっていないのではないかと思う。
自分の好きなものがわかっておいれば「擦り合わせる」ことができるのだが、自分が無いから、どうしていいかわからなくなるのだ。
「書きたいものじゃ無くて売れるものを書けと言われる」みたいなことを言い出す。
そういう人が書きたいのは「読者不在の自己満足のカタマリ」なのだろうか? そうではあるまい。だとしたら、読者のことを考え、自分の好きなもの、書きたいものを、どうやれば読者に伝えられるかを、考えれば良いのである。
その「伝える技術」こそが、作家の命である。
これは作家に限った話ではない。創作者の技量というのは「面白い」を“作りだす”ことではなく、「面白い」を“伝える”ことにあると思う。
SFも、戦記ものも、「面白い」ことに変わりはない。でも、それを“伝える”ことができるかどうかは、作者の腕にかかっている。
SFや戦記ものに、編集さんがダメだしをするのは、SFや戦記が「面白くない」からではなく、それを面白く書くのが難しいからである。
『何を書くか』ではなく『どう書くか』なのだ。
最後に、ライトノベルを書きたい人に言っておきたいことがある。
ライトノベルの読者が読みたがっている物語には「面白い物語」の要素と「心地良い物語」の要素の両方が必要だ。ということである。
「面白い物語」だけで満足できる読者もいるだろうが、多くの読者は「心地良い物語」も合わせて読みたがっているのだ。
追い込まれる物語は好きではないし、あとで逆転するとわかっていても、敗北感というのは「心地良い」ものではない。
それを無くせと言っているのではない。そういった要素を必要以上に前面に押し出した物語は、いくら展開が面白くても、読者の支持は受けられないし、編集さんも「いいね」とは言わないだろう。
確かに今のライトノベルの主流となっているのは、心地良い物語が多い。だが、それを否定するのはいけない。
読者が「楽しんでいるもの」を否定してはいけないのだ。読者が「楽しんでいる」のは、嘘偽りのない、本音である。
読者ひとりひとりが自分の判断と責任で楽しんでいることであり、それを否定するのは、意味がないのである。
「おまえの楽しみ方は間違っている」は大きなお世話以外のなにものでもないのだ【笑
「これから作る作品」を、「今、売れている作品」から分析するのは、誰もがやることなのだが。この時に注意すべきは。今、売れている作品が好きでない人が、これをやると、分析が、著しく皮相的になる危険がある。
なぜなら、その人は、そういったものが好きでないのだ。面白いと思わないのだ。
好きでもない、面白くも無いものを「どこがいいのだろう」と分析すれば、ついつい、「こんなバカなものを楽しいと思うやつらは、この程度の連中に違いない」みたいな結論になりかねない。
「その程度の連中には、この程度のものでいいんだろ」みたいな考えで結論を出して、その好きでも面白くも無いものを「売れているから」と言う理由で書いたって、受け入れてもらえるわけが無いのである。
電撃大賞の〆切まで、あと百日である。
作家志望者の皆様は、自分の好きなもの、面白いと思うもの、その面白さを読者に伝えるために、ぜひ頑張って戴きたい。
マヤ暦では、12月21日が最後の日だったらしいが、世界はあいもかわらず続いているようである。
もしかすると、地球はとっくに滅亡していて、ここでこうやってこの文章を書いている私も、コレをお読みになっているあなたも、すでに肉体は滅び、精神的な残像として残留思念のなかに、日常を構築しその中で日々を過ごしているだけなのかもしれない。
でもまあ、すべての人に共通する認識が現実だとすれば、幻想でも思念体でも、世の中は続いていくのかもしれない。【笑
さて、昨年中は、色々な事があり、メディアワークスから山猫姫を三冊、早川JA文庫から宇宙軍士官学校を二冊出版させていただくことができた。
どちらもシリーズ続行中である。
私が書く小説は、それも皆、いわゆる「売れ線」から大外れの題材で、編集さんが「いいですね!」とは絶対に言わないものである。
ちょっと前に、ツィッターで、新人賞の下読みさんに「SFと年齢層のミスマッチしている作品は落すように」と言う指示があった。という話が流れたことがある。
これはある意味で、事実である。
「SF」や「戦記もの」はライトノベルに向いていないのだ。
ライトノベルに向いているのは、剣と魔法のファンタジーである。
ここから先は、私の独断であり、私が考えていることであり、あくまでも私個人の考えであり、「これが正しい」とか「この考えを認めろ」とか「この考え以外は認めない」と言っているわけではない。
「私はそうは思わない」「それはおかしい」という異論があるのは当然である。
ここは私のブログであり、私が考えていることをここに述べただけのことである。
さて、本題に戻ろう。
なぜ、ライトノベルにSFや、戦記ものが向いていないのか。なぜ、ファンタジーが向いているのか。
一言で言ってしまえば、作者の自由度の違いである。
高校生のレベルで「世界レベルを凌駕」できるように、世界を設計できるのは魔法が一番都合がいいのである。
魔法のような、「作者が言ったもの勝ち」の強みは、作者以上の権威が、現実世界のどこにも存在しないので。読者があれこれ妄想で参加できる余地がある。
同時に、これが、SFや戦記が敬遠される理由でもあるのだ。
SFには、根底に科学がある。戦記ものでも、根底に軍事がある。科学も軍事も、ある意味リアリズムの塊なのだ。
つまり、その世界における最高権威が現実世界に存在しており、作者が好きにできない。上手く作品世界を設定しないと。現実に作者の妄想が押しつぶされてしまうのだ。
SFを書いてみよう、と思う作家志望者の方で、勘違いしている人が多いのは、物語の世界を自分の得意とする部分にどう持ってくるか。その部分の勘違いである。
持って来れない部分は、語らない。という手もあるのだが、それを「悪手」と思い込んでいる人が実に多い。
たとえば「なぜ、ドラえもんが存在しているのに、ドラえもんのところに世界中が未来の技術を求めて殺到しないのか」みたいな部分である【笑
ドラえもんで、そのへんを説明しても、たぶん、上手く行かないだろう。作品の狙いに合わないリアリティが重さになってバランスが崩れるのは間違いない。
SFに必要なのは、『無駄に重いリアリティ』では無いのである。。
リアリティは必要だが、それよりは、『センスオブワンダー』が求められるのだ。そ その点、ドラえもんの持つバランス感覚には教わることが多いと思うのだ。
もし「必要でない部分は語らない」と言う方法ではなく、正面から描くとすれば、物語が現実に押しつぶされないために、物語の補強に現実を使う。という技術を持っていなければならない。
妄想を現実で補強して、説得力を持たせ、読者に「あるかもしれない」と思わせる。という手法を知らなければ、そういう物語は書けない。
ライトノベルと言うのは、設定は従であり、キャラクターが主である。説得力はキャラの描写とかそういう雰囲気で持たせることが多い。
その方が作者の自由度が高いからである。
だが、それはつまり作者自身が自分の妄想を「現実ではない」と思っているからできる。作家そのものが、自分の書くものを絵空事だと割り切っているからできる書き方なのだ。
ライトノベルにとって「現実」はノイズにしかならない。ライトノベルは「よく出来た夢」でなくてはならない。読者を現実に戻らせてはならないのである。
SFと戦記ものが、ライトノベルと相性が良くないものとして、編集さんが嫌う理由は、このあたりにあるような気がする。
誤解を招くといけないので、説明するが、私は「だから作家志望者はSFと戦記ものを書くな」と言っているわけではない。そこは誤解しないで欲しい。
商業小説に限らず、小説と言うのは「読者」を獲得して初めて意味があると私は思っている。
商業小説の場合は、その読者をより多く獲得し、お金を払ってもらわねばならない、という条件が上乗せされるわけである。
この「読者を獲得する」と言う部分を、誤解している方がちょくちょく見られるので、そのことについてこれから書く。
「読者のために書け」と言われると。読者に嫌われたくない、読者の思うがままのものを、これでございますね。とひれ伏して差し出せ。と言われているようにしか捉えられない人がいる。
作家の書きたいもの、好きなことを捻じ曲げて、読者に媚びろ。と受け取る人がよくいるのだが、誰もそんなことを要求してはいないのだ。
自分の書きたいもの、好きなもの、題材、その「面白さ」を読者に伝わるように書け。と言っているのに過ぎないのだ。
自分の好きなもの、書きたいもの、それは作者の根っこである。それを動かしてしまったのでは、作品はわけがわからない、根無し草になってしまう。
読者のことを考えて書け、というのは、その「自分が好きなもの、書きたいもの」と、「読者が受け入れてくれるもの」とを擦り合わせて、作品にしろ、と言っているにすぎない。
読者のことを考えて書け、と言われて、何を書いていいのかわからなくなる人は、おそらく自分の根っこがわかっていないのではないかと思う。
自分の好きなものがわかっておいれば「擦り合わせる」ことができるのだが、自分が無いから、どうしていいかわからなくなるのだ。
「書きたいものじゃ無くて売れるものを書けと言われる」みたいなことを言い出す。
そういう人が書きたいのは「読者不在の自己満足のカタマリ」なのだろうか? そうではあるまい。だとしたら、読者のことを考え、自分の好きなもの、書きたいものを、どうやれば読者に伝えられるかを、考えれば良いのである。
その「伝える技術」こそが、作家の命である。
これは作家に限った話ではない。創作者の技量というのは「面白い」を“作りだす”ことではなく、「面白い」を“伝える”ことにあると思う。
SFも、戦記ものも、「面白い」ことに変わりはない。でも、それを“伝える”ことができるかどうかは、作者の腕にかかっている。
SFや戦記ものに、編集さんがダメだしをするのは、SFや戦記が「面白くない」からではなく、それを面白く書くのが難しいからである。
『何を書くか』ではなく『どう書くか』なのだ。
最後に、ライトノベルを書きたい人に言っておきたいことがある。
ライトノベルの読者が読みたがっている物語には「面白い物語」の要素と「心地良い物語」の要素の両方が必要だ。ということである。
「面白い物語」だけで満足できる読者もいるだろうが、多くの読者は「心地良い物語」も合わせて読みたがっているのだ。
追い込まれる物語は好きではないし、あとで逆転するとわかっていても、敗北感というのは「心地良い」ものではない。
それを無くせと言っているのではない。そういった要素を必要以上に前面に押し出した物語は、いくら展開が面白くても、読者の支持は受けられないし、編集さんも「いいね」とは言わないだろう。
確かに今のライトノベルの主流となっているのは、心地良い物語が多い。だが、それを否定するのはいけない。
読者が「楽しんでいるもの」を否定してはいけないのだ。読者が「楽しんでいる」のは、嘘偽りのない、本音である。
読者ひとりひとりが自分の判断と責任で楽しんでいることであり、それを否定するのは、意味がないのである。
「おまえの楽しみ方は間違っている」は大きなお世話以外のなにものでもないのだ【笑
「これから作る作品」を、「今、売れている作品」から分析するのは、誰もがやることなのだが。この時に注意すべきは。今、売れている作品が好きでない人が、これをやると、分析が、著しく皮相的になる危険がある。
なぜなら、その人は、そういったものが好きでないのだ。面白いと思わないのだ。
好きでもない、面白くも無いものを「どこがいいのだろう」と分析すれば、ついつい、「こんなバカなものを楽しいと思うやつらは、この程度の連中に違いない」みたいな結論になりかねない。
「その程度の連中には、この程度のものでいいんだろ」みたいな考えで結論を出して、その好きでも面白くも無いものを「売れているから」と言う理由で書いたって、受け入れてもらえるわけが無いのである。
電撃大賞の〆切まで、あと百日である。
作家志望者の皆様は、自分の好きなもの、面白いと思うもの、その面白さを読者に伝えるために、ぜひ頑張って戴きたい。
2012-12-31 21:14