「ご主人様は山猫姫・11」が出ます。
電撃文庫の「ご主人様は山猫姫・11」が12月10日(アマゾンに拠ると12月8日)に発売になる。
私の78冊目の本となる(ガンダムアンソロジーを含む)
例によって「いつもの鷹見一幸」であり、好きな人は好きだろうし、嫌いな人は嫌いな物語である。【笑
「山猫姫」は1巻から10巻まで、ほとんど部数が落ちていない。シリーズ物はメディアミックス展開しない限り、部数が徐々に落ちていくものだが、山猫姫はその部数の下落がほとんどなく、ほぼ同じ実売部数を保っている。
長期シリーズの部数が落ちていく理由は、読者の方が離れていくからである。
自分の望んでいる展開がそこに描かれていなければ、読み続ける理由は無いのだから、それは当然である。
メディアミックス展開によって、新規の読者を呼び込むことができれば、読者数は減少よりも新規読者が上回るので、部数は落ちない。
私の場合は、メディアミックスは、会長の切り札のコミカライズがあるだけで、その他は皆無である。
山猫姫も、当然メディアミックス展開は、まったく無い。「ご主人様は山猫姫」という名が付いているコンテンツは、電撃文庫の小説だけである。
コンテンツの存在が広く知られることもなく、当然、マスコミに取り上げられることも無く、地道に本が出ているだけのコンテンツなのに、読者数が落ちない理由は、一つしかない。
「ご主人様は山猫姫」には、固定客がついている。ということである。
ここで誤解してはならないのは、固定客が存在するのは「ご主人様は山猫姫」と言うコンテンツに付いているのであって、私に付いているのではない。ということである。
私は作家と言うのは「小説」と言うコンテンツを、ちまちまと手作りで製作し、世に送り出している職人だと思っている。
いわば家具を造っている職人などと、なんら変わるところはない。
念のために言って置くが、これは私がそう思う。ということであって、これを読んでいる方に「そう思え」とか「そうでなくてはおかしい」と言っているわけではない。
いや、私はそうは思わない。と言う人がいても当然である。思うのは自由である。
話を元に戻そう。
私は、自分を職人だと思っている。脳内にある物語を、こつこつと文章に置き換えて、小説と言う品物にして、世に出しているわけである。
職人の評価はどこで決まるかと言えば、それは造り出した品物の出来である。
出来が良ければ、その品物は売れ、問屋も職人もお客さんから対価を戴いて生活できる。
出来が悪ければ、その品物は売れないし、問屋も「こいつはちょっと引き取れません」と難色を示すだろう。
客がまず見るのは品物の「出来」であって、それを造った職人の名前ではない。
誰が造ったものであろうと、出来が良ければお客さんは買ってくれるのである。
世の中には、作者不詳の物語が本になったものが、山のようにある。
それが本になった理由は、「面白かった」からである。面白ければ、作者がわからなくても、きっと誰かがそれを本にして世に出すのである。
作家は誰でもいいのだ。書いたものが面白ければ、それは価値を持つのである。
鷹見一幸の名前で書いてきた78冊の本のうち、もし、半分が、全然違う名前で書かれていたとしたら、その面白さは消えるだろうか?
私は、そんなことは無いと思う。作家の名前で面白さが変わるわけが無いのだ。
だとすれば、作家の名前は、読者が作品を判別するための記号、トレードマーク以外の意味は無いと思うのだ。
「鷹見一幸印の物語は面白い」と思っていただけるようなコンテンツを造り続けることが、私の仕事であり、私の役目である。
山猫姫がもうすぐ書店に並ぶので、立ち読みしていただいて、面白そうだと思ったらお買い上げ戴きたい。
私の78冊目の本となる(ガンダムアンソロジーを含む)
例によって「いつもの鷹見一幸」であり、好きな人は好きだろうし、嫌いな人は嫌いな物語である。【笑
「山猫姫」は1巻から10巻まで、ほとんど部数が落ちていない。シリーズ物はメディアミックス展開しない限り、部数が徐々に落ちていくものだが、山猫姫はその部数の下落がほとんどなく、ほぼ同じ実売部数を保っている。
長期シリーズの部数が落ちていく理由は、読者の方が離れていくからである。
自分の望んでいる展開がそこに描かれていなければ、読み続ける理由は無いのだから、それは当然である。
メディアミックス展開によって、新規の読者を呼び込むことができれば、読者数は減少よりも新規読者が上回るので、部数は落ちない。
私の場合は、メディアミックスは、会長の切り札のコミカライズがあるだけで、その他は皆無である。
山猫姫も、当然メディアミックス展開は、まったく無い。「ご主人様は山猫姫」という名が付いているコンテンツは、電撃文庫の小説だけである。
コンテンツの存在が広く知られることもなく、当然、マスコミに取り上げられることも無く、地道に本が出ているだけのコンテンツなのに、読者数が落ちない理由は、一つしかない。
「ご主人様は山猫姫」には、固定客がついている。ということである。
ここで誤解してはならないのは、固定客が存在するのは「ご主人様は山猫姫」と言うコンテンツに付いているのであって、私に付いているのではない。ということである。
私は作家と言うのは「小説」と言うコンテンツを、ちまちまと手作りで製作し、世に送り出している職人だと思っている。
いわば家具を造っている職人などと、なんら変わるところはない。
念のために言って置くが、これは私がそう思う。ということであって、これを読んでいる方に「そう思え」とか「そうでなくてはおかしい」と言っているわけではない。
いや、私はそうは思わない。と言う人がいても当然である。思うのは自由である。
話を元に戻そう。
私は、自分を職人だと思っている。脳内にある物語を、こつこつと文章に置き換えて、小説と言う品物にして、世に出しているわけである。
職人の評価はどこで決まるかと言えば、それは造り出した品物の出来である。
出来が良ければ、その品物は売れ、問屋も職人もお客さんから対価を戴いて生活できる。
出来が悪ければ、その品物は売れないし、問屋も「こいつはちょっと引き取れません」と難色を示すだろう。
客がまず見るのは品物の「出来」であって、それを造った職人の名前ではない。
誰が造ったものであろうと、出来が良ければお客さんは買ってくれるのである。
世の中には、作者不詳の物語が本になったものが、山のようにある。
それが本になった理由は、「面白かった」からである。面白ければ、作者がわからなくても、きっと誰かがそれを本にして世に出すのである。
作家は誰でもいいのだ。書いたものが面白ければ、それは価値を持つのである。
鷹見一幸の名前で書いてきた78冊の本のうち、もし、半分が、全然違う名前で書かれていたとしたら、その面白さは消えるだろうか?
私は、そんなことは無いと思う。作家の名前で面白さが変わるわけが無いのだ。
だとすれば、作家の名前は、読者が作品を判別するための記号、トレードマーク以外の意味は無いと思うのだ。
「鷹見一幸印の物語は面白い」と思っていただけるようなコンテンツを造り続けることが、私の仕事であり、私の役目である。
山猫姫がもうすぐ書店に並ぶので、立ち読みしていただいて、面白そうだと思ったらお買い上げ戴きたい。
2012-12-07 03:18