あのブドウは甘いに違いない。と言える者は、ブドウを手に入れるために努力できる。
世の中の人間のほとんどは、自分のできること、自分が理解して経験していること以外の物事や、他人の仕事を簡単に単純に考えている。
この「他人の仕事は簡単に見える」を言い換えれば「他人の庭の芝生は青い」と言うコトワザになる。
これは誰もがそう考える、という普遍的な事実である。
逆に言えば、普遍的な事実だからこそ、コトワザになっているわけである。
それなりに仕事をやって、経験を積めば、こういう考えは持たなくなるものだが、どうにも考えの浅い人間。他人が馬鹿に見えて仕方ない人間は、この「他人の仕事は簡単だ」と思い込んで、それを疑わない。
「ラーメン屋なんか、あんなもの、麺を茹でて、スープの中に入れて、上にチャーシューとかネギ乗せるだけじゃないか、誰にでもできる」
「ライトノベルみたいな、あんなもの、一冊を二時間で読めてしまうような簡単な小説じゃないか、誰にでも書ける」
この言い方、パターンは、どんな仕事にも当てはまる。
「医者なんか、あんなもの、患者の話を聞いて薬出すだけじゃないか、誰だってできる」
「刀鍛冶なんてあんなもの、鉄を赤く焼いてハンマーで叩くだけじゃないか、誰だってできる」
物事を単純化して言葉にすれば、ものすごく簡単に見えてくるわけである。
ほとんどの人は「そう見える」ことと「そうである」こととは違うことに、薄々感づいているので、あまりこういう言葉を口にしないが、中には本気でそう考えている人もいる。
考えてみれば、世の中に「誰でもできる仕事」が、そう簡単に転がっているわけが無いのだが、それに気づかない。
「俺にもできるはずだ」と思って手を出す。
確かに世の中には「天才」という種類の人間がいて、できるはずだ、で、できてしまう。
でも、そんな人間は、めったにいない。天才というのは忘れた頃に出現するのだ。
ほとんどの人間、99.99%の人間は、凡才である。
当然「できるはず」で、できない。
簡単な、誰でも書けるはずの「小説」が書けない。書けたとしても、金を取れるレベル。新人賞に入選するレベルの小説を書ける人はめったにいない。
さて、ここで、どう考えるだろうか?
書けない理由、入賞しない理由を、どこに求めるか、である。
その理由を自分に求め、自分の力が至らないのだ、と考える事ができれば、その人は次を書ける。書き続けることができる。
だが、その理由を自分の力量以外に求める人は、徐々に書けなくなっていく。
「審査員の見る目が無い」
「売れることしか考えていない編集部が馬鹿」
「そもそもライトノベルは程度が低すぎる」
こういうことを言い出すと、どんどん書けなくなっていく。
これはつまり「あのブドウは酸っぱいに違いない」と言っているのに他ならない。
そう言ってしまう、そう考えてしまうと、そこで、ブドウを手に入れるための努力しなくてもいい理由ができてしまうのだ。
否定したものを、手に入れる理由は無いのだ。
「審査員の見る目が無い」のだから書かなくてもいい。
「売れることしか考えていない編集が無能」だから書かなくてもいい。
「程度が低いライトノベル」なんだから書かなくてもいい。
自分が望むものが手に入らない。
その理由を合理化するために、その望むものを否定し、貶めれば、自分の中にそれを求める理由が無くなる。
それによって、自分の自我は救われ、自分の自尊心は傷つかなくなる。
これで、あきらめてしまえば、特に問題は無い。
作家になることをあきらめて、読者でいることを選択する、もしくは、商業とは違う道を行くことを選ぶのなら、何の問題も無い。
だが、それでもなお「作家」を目指すとなると、どういうことになるかと言うと
自分が否定したものよりも、はるかに優れたものを生み出さなくてはならなくなるわけである。つまり
「見る目の無い審査員をあっと言わせる小説」
「売れることしか考えていない編集が、考えを悔い改めるような傑作」
「程度が高い、素晴らしい小説」
これを書かねばならなくなるわけである。
自分が否定したものと同じものを書くわけには行かないのだから、そうなるのは当然である。
そうやって、自分の中のハードルを上げてしまうとどうなるか。
答えは簡単「書けなくなる」のである。
何を書いても、どう書いても「これじゃない、これじゃダメだ」になる。
当然といえば当然のことである。
天才ならいざしらず。ごく普通の、それもほとんど経験も積んだことが無い、読者でしかなかった人間が、いきなり書き手になって、そんな「至高にして究極の、万人が認め、感動し、賞賛する傑作」なんてものを書けるはずがないのだ。
ダメだったら、悔しがればいいのだ。
「ああクソ、あのブドウは甘いに違いない」と言えばいいのだ。
「あの新人賞は嬉しいに違いない」と言えばいいのだ。
だからこそ、次が書ける。次はどうしよう? と考える事ができる。
「あの方法はダメだった、ならばキャラクターをもっとメリハリをつけてみよう」
「あの書き方はダメだった、ならばセリフをもっと短く、すっきりとさせてみよう」
次の一手を考えることができる
より目標に近づくために努力することができる。
目標を否定してしまえば、そこに近づく努力はできない。
習作を書くことができなくなるのだ。
「あのブドウは酸っぱいに違いない」と言うのは、あきらめた人間の捨て台詞である。
あきらめていないのなら、決して言ってはいけない。
あきらめていない人間は「あのブドウは甘いに違いない」と言うべきなのだ【笑
この「他人の仕事は簡単に見える」を言い換えれば「他人の庭の芝生は青い」と言うコトワザになる。
これは誰もがそう考える、という普遍的な事実である。
逆に言えば、普遍的な事実だからこそ、コトワザになっているわけである。
それなりに仕事をやって、経験を積めば、こういう考えは持たなくなるものだが、どうにも考えの浅い人間。他人が馬鹿に見えて仕方ない人間は、この「他人の仕事は簡単だ」と思い込んで、それを疑わない。
「ラーメン屋なんか、あんなもの、麺を茹でて、スープの中に入れて、上にチャーシューとかネギ乗せるだけじゃないか、誰にでもできる」
「ライトノベルみたいな、あんなもの、一冊を二時間で読めてしまうような簡単な小説じゃないか、誰にでも書ける」
この言い方、パターンは、どんな仕事にも当てはまる。
「医者なんか、あんなもの、患者の話を聞いて薬出すだけじゃないか、誰だってできる」
「刀鍛冶なんてあんなもの、鉄を赤く焼いてハンマーで叩くだけじゃないか、誰だってできる」
物事を単純化して言葉にすれば、ものすごく簡単に見えてくるわけである。
ほとんどの人は「そう見える」ことと「そうである」こととは違うことに、薄々感づいているので、あまりこういう言葉を口にしないが、中には本気でそう考えている人もいる。
考えてみれば、世の中に「誰でもできる仕事」が、そう簡単に転がっているわけが無いのだが、それに気づかない。
「俺にもできるはずだ」と思って手を出す。
確かに世の中には「天才」という種類の人間がいて、できるはずだ、で、できてしまう。
でも、そんな人間は、めったにいない。天才というのは忘れた頃に出現するのだ。
ほとんどの人間、99.99%の人間は、凡才である。
当然「できるはず」で、できない。
簡単な、誰でも書けるはずの「小説」が書けない。書けたとしても、金を取れるレベル。新人賞に入選するレベルの小説を書ける人はめったにいない。
さて、ここで、どう考えるだろうか?
書けない理由、入賞しない理由を、どこに求めるか、である。
その理由を自分に求め、自分の力が至らないのだ、と考える事ができれば、その人は次を書ける。書き続けることができる。
だが、その理由を自分の力量以外に求める人は、徐々に書けなくなっていく。
「審査員の見る目が無い」
「売れることしか考えていない編集部が馬鹿」
「そもそもライトノベルは程度が低すぎる」
こういうことを言い出すと、どんどん書けなくなっていく。
これはつまり「あのブドウは酸っぱいに違いない」と言っているのに他ならない。
そう言ってしまう、そう考えてしまうと、そこで、ブドウを手に入れるための努力しなくてもいい理由ができてしまうのだ。
否定したものを、手に入れる理由は無いのだ。
「審査員の見る目が無い」のだから書かなくてもいい。
「売れることしか考えていない編集が無能」だから書かなくてもいい。
「程度が低いライトノベル」なんだから書かなくてもいい。
自分が望むものが手に入らない。
その理由を合理化するために、その望むものを否定し、貶めれば、自分の中にそれを求める理由が無くなる。
それによって、自分の自我は救われ、自分の自尊心は傷つかなくなる。
これで、あきらめてしまえば、特に問題は無い。
作家になることをあきらめて、読者でいることを選択する、もしくは、商業とは違う道を行くことを選ぶのなら、何の問題も無い。
だが、それでもなお「作家」を目指すとなると、どういうことになるかと言うと
自分が否定したものよりも、はるかに優れたものを生み出さなくてはならなくなるわけである。つまり
「見る目の無い審査員をあっと言わせる小説」
「売れることしか考えていない編集が、考えを悔い改めるような傑作」
「程度が高い、素晴らしい小説」
これを書かねばならなくなるわけである。
自分が否定したものと同じものを書くわけには行かないのだから、そうなるのは当然である。
そうやって、自分の中のハードルを上げてしまうとどうなるか。
答えは簡単「書けなくなる」のである。
何を書いても、どう書いても「これじゃない、これじゃダメだ」になる。
当然といえば当然のことである。
天才ならいざしらず。ごく普通の、それもほとんど経験も積んだことが無い、読者でしかなかった人間が、いきなり書き手になって、そんな「至高にして究極の、万人が認め、感動し、賞賛する傑作」なんてものを書けるはずがないのだ。
ダメだったら、悔しがればいいのだ。
「ああクソ、あのブドウは甘いに違いない」と言えばいいのだ。
「あの新人賞は嬉しいに違いない」と言えばいいのだ。
だからこそ、次が書ける。次はどうしよう? と考える事ができる。
「あの方法はダメだった、ならばキャラクターをもっとメリハリをつけてみよう」
「あの書き方はダメだった、ならばセリフをもっと短く、すっきりとさせてみよう」
次の一手を考えることができる
より目標に近づくために努力することができる。
目標を否定してしまえば、そこに近づく努力はできない。
習作を書くことができなくなるのだ。
「あのブドウは酸っぱいに違いない」と言うのは、あきらめた人間の捨て台詞である。
あきらめていないのなら、決して言ってはいけない。
あきらめていない人間は「あのブドウは甘いに違いない」と言うべきなのだ【笑
2013-05-15 03:53