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二ヶ月ぶりの金沢訪問

 6月に入って、金沢の大学の寮で一人暮らしを始めた次男の様子を見るついでに、扇風機や夏物衣料などの品物を持って行こうと思っていたら、長男が「俺の新車で遠乗りついでに行ってやる」と言い出した。
 
 新車と言ってもダイハツのミラ・イースである。
 アイドリングストップ機能の付いた軽のエコカーで、埼玉から金沢まで行くのは大変だ。軽で長距離走るのは、サスペンションとかシートの関係で、普通車より疲れるぞ。と言うと、親父も一緒に行こう、運転を交代しながら行けば、疲れ手も大丈夫だ。と言われた。

 確かに「山猫姫10」と「宇宙軍士官学校」の初稿が上ってゲラが出るまで、三日ほどスケジュールが空いたし、伏木の北前船資料館と、海王丸、を取材しようと思っていたところなので、よし、では俺もついていこう。ということで、急遽ビジネスホテルを予約して、6月7日の午後4時10分に埼玉の花園インターから高速に乗った。

 巡航速度は90キロ前後で走行車線をキープしつつ走る。
 カーナビは到着予定時刻を午後9時40分と表示していた。

 上信越道を通って、東部湯の丸で運転交代。長男がハンドルを握って、更埴ジャンクションから上越を目指す。

 部分的に対面通行の残る区間で上り坂でトラックの後ろにつくと、70キロくらいまで速度が落ちる。
 インターに差し掛かると、追い越し車線ができるので、何とか抜くと、またもや前にトラックが……。
 まあ、なんとかそれでも上越ジャンクションから北陸道に入って、名立谷浜でガソリン給油して運転交代。メーターには「リッター18キロ」の文字。
 フルタイム4WDでこの数字は、たいしたものである。
 
 私のステップワゴンフルタイム4WDは、いくら頑張っても高速でリッター12キロくらいしか走らない。平均してリッター10キロである。

 そのまま途中でトイレ休憩を挟んで。次男の寮についたのは午後9時50分。
 怖いくらいカーナビどおりであった。

 晩飯はまだ食べていない。来るのを待っていた。というので、野々市のチャンピオンカレーの本店で、三人でLカツカレーを食う。

 次男も長男もさっさと食べ終わり、私だけがもたもたと食い終わる。
 夜中の10時過ぎにカツカレーを食うのは、いささか辛い【笑

 そして、翌6月8日。

 次男は授業がある。というので、乗り鉄の長男と共に高岡まで行って、万葉線の終点、越の潟で長男を降ろす。
 長男は万葉線で高岡に出て、高岡駅の駅の立ち食いソバで、ソバとうどんが半分ずつ入った「ちゃんぽん」を食べて、富山に向かい、富山地方鉄道に乗るとのことなので、ここで別れて、海王丸を取材に行く。

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 海王丸を見学するのは実は三回目である。
 
 実を言うと、私は、ずっと海洋冒険ものが書きたくて、企画を暖めている。
 その話は、いわゆる史実に忠実な物語ではなく、山猫姫のような世界観の海洋冒険ものである。

 主人公が乗り込むのは、軍艦ではなく商船。それも交易船である。

 交易船というのは、品物を運ぶだけではなく。積荷を先々の寄港地で売り、その代金でその地方の産物を買い込み、それを品薄な場所で、高値で売ることで、利益を出す商船である。

 日本で言えば、北前船が、この交易船である。
 大阪で、ムシロや布や酒を積み、日本海側を北上しながら、それらの品物を売って、代わりに産地の品を積み込み、最終的に北海道や青森で、昆布や干した鮭やタラを仕入れて大阪に戻ってくるのである。
 
 大阪に無事に戻ると、蝦夷地で仕入れた昆布は、高い値がつき、一回の航海で三千両の儲けがあった、と言われている。

 この北前船の寄港地が、海王丸の置かれているすぐ近くの伏木港であり、ここには、当時の廻船問屋の屋敷を使った北前船資料館がある。

 この屋敷には、伏木港に出入りする船の旗印を確認するための「望楼」が残されており、当時はここに、遠眼鏡を持った使用人が交代で詰めて、入港する船の旗印を確認して、報告していたそうである。

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 なかなか洒落たというか、和風の天守閣のようなつくりで、内部に入ると、大人が四人も入れば窮屈に感じるほどの狭さだが、窓の戸板を跳ね上げると、それが日よけになっており。なかなか考えて作られている建物だった。

 そこから見えたのは、北前船ならぬ、豪華客船だった。
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 コスタ・ヴィクトリアという豪華客船が、伏木港に入港していたのである。
 この船は、今まで地中海などのクルーズに使われていたが、今年からアジア方面のクルーズを始めたそうで、日本発で韓国や中国を回るクルーズが7月8月に計画されているそうである。

 今回は、韓国発のチャーター船で、鳥取の境港や、伏木港に寄港して、韓国に戻るそうである。
 
 なんでも観光客をバスに乗せて、富山市内まで買い物ツァーが出ているそうで、、この豪華客船は寄航先で主の珍しい物を買って帰る、現代の北前船なのかもしれない。

 明日には埼玉に戻るのだが、金沢は夜になって本降りとなった。
 ホテルの窓の外の雨音を聞きながら。このブログを書いている。


鷹見一幸と榎野英彦について

ツィッターなどで、今でも「鷹見一幸は他人の話でデビューした」と言っている人を見かけることがある。
 
 まあ、そう思われたほうが色々楽だし、特段困ることも無いのだが、出版関係者の、いわば身内の方の中にもそう思っている方が見受けられるので、ちょいとネタばらしをしておこうかと思う。

 私が商業誌に名前を載せて仕事をしたのは、アニメ情報誌「月刊OUT」の臨時増刊号(1982年7月号臨時増刊号)「アニメ・パロディ・コミックス」掲載のアニメパロディ小説「大いなる挑戦」【イラスト ゆうきまさみ】である。
 
 このとき使ったのが「榎野 彦」(えのきの ひこ)というペンネームで、これはそれ以前から作画グループでマンガを描いているときに使っていたペンネームで、佐藤さとる氏の「コロボックル童話」の登場人物「エノキノヒコ」から来ている。

 その後、月刊OUT本誌や、別冊で小説だけでなく、パロディ企画や、人生相談ギャグコーナーなどを担当していたが、これもすべて「榎野 彦」名義で仕事をしている。

 これを書いていた当時、私は現役の警察官だったのだが、月刊OUTの副編集長に、実兄であるR2がいたので、稿料やそういう関係は、すべて兄の方で処理してもらい、私のところには入ってこないようにしてもらっていた。

 月刊OUTで仕事を始めると、やはり色々付き合いが広がっていく。
 その後は、月刊OUT以外の様々な仕事に名前を出さないように頼み込んで関わり続け、月刊OUTの編集長を退職した後に、樹想社を興したT氏のところで「こちら亀有公園前派出所」のムック本「カメダス」のライターをやったり、アニメや広告の企画に関わっていた。

「榎野英彦」を使い始めたのは、双葉社の雑誌「20世紀ブックス」で「アニメの中の名セリフ」などの企画をやり始めた頃で、このペンネームは兄が使っていた「柊野英彦」というペンネームと私の「榎野 彦」との合同ペンネームである。
 文章は私が書いているが、名義は兄である。

 その後は、友人のマンガ家さんのアイディア出しや、CMプランナーのブレインストーミングに参加したりしながら、これといって名前を出すことなくごく普通の警察官として勤務していた。
 
 そして40歳になったときに、友人のマンガ家が逝去したことを聞いた。
 彼は、東京にいた頃は有名なマンガ家さんのアシスタントをしていて、作画グループのつながりで知り合って、よくメシを食いに行ったり、バイクでツーリングをしたりしていた仲だった。
 その後、マンガ家として一本立ちした彼は、週刊連載を持ったりして、バリバリ書き始めた。
 忙しい中で彼に会った時、私は彼にこう言われた。
「あんたも、人のアイディア出しとか企画に関わるばっかりじゃなく、自分の名前で何か書けばいいのに。たとえ名前が残らなくても書いたものは残るんだからさ」
 私は、そのとき、何と答えたのか覚えていない。
 おそらく、笑ってごまかしたのではないかと思う。

 彼が死んだ。という知らせを聞いたとき、私が最初に思ったことは、お悔やみでも悲しみでもなかった。
 こう言うと不謹慎に取られるかもしれないが。私が最初に思ったのは。

 『もう、二度と彼の書く物語は読めないのか!』

 と言う衝撃だった。
 
 彼がアシスタント時代に、スケッチブックに書いていた魅力的なキャラクターたちも、居酒屋で語った波乱万丈の物語も、もう、二度とこの世に出ることは無いのだ。

 彼は彼の頭の中にあった、何千何百と言う物語を、何一つ世に出すことなく、この世を去ってしまったのだ。
 
 私は、それが悲しかった。彼の死よりも、彼の死によって物語が世に出ないことが悲しかった。
 
 そして、私は、40歳の年に、小説を書き始めた。
 パロディでもなんでもない、少年向けのちょっとSFっぽい、学校を要塞化して襲ってくる敵と戦うという物語だ。
 タイトルは「ピクニックは終末に」

 そして、書き上げたはいいものの、どこに送っていいのかわからなかった私は、知り合いのマンガ家さんとか、マンガの編集さんにその原稿を読んでもらい、どこに持ち込めばいいのか尋ねてみた。そして
「これなら電撃ゲーム小説大賞がいいんじゃないか?」
 と言うアドバイスを受けて、その年の電撃ゲーム小説大賞に送った。
 この当時は「電撃大賞」ではなく「電撃ゲーム小説大賞」だった。
 このときのペンネームが「榎野英彦」である。
 
 その後、私は本職の方が忙しくなり、月の半分近く家に帰れず、署の道場に布団を敷いて寝泊りするようなことが続き。気がつくと、大賞発表が過ぎていた。

 何の連絡も無かったし、ああ、ダメだったんだなあ。と思っていると、読んでもらったマンガ家さんから「あんたの小説、最終選考まで残ってたよ。惜しかったね。私の担当が角川に知り合いがいるから、会ってみないか?」と言われ、ダメで元々。と思って角川に行った。

 当時の角川書店は、今の本社ビルが建築中で市谷の駅前にある青いガラスのビルに間借りしていたのを覚えている。

 のこのこと、角川に顔を出すと、エレベーターホールで、顔見知りの編集さんにばったり出会った。
 当時、その編集さんは「ザ・ホラー」というホラー雑誌を担当しており、私が色々怪談のネタを持っているのを知っていたために、いきなり「あら久しぶり、あ、いい所で出会った。うちで今怪談の企画やったるんだけど、うちで書かない?」と仕事を振られた。

 怪談も面白そうだなあ、と思って話を聞こうとすると、そこにスニーカーの編集さんが来て。
「何やってるんですか?」
「え? いや、ライターさんに仕事頼んでたんだけど」
「ライター?」
「この人ライターさんでしょ?」
「いいえ、うちで書くかもしれない作家さんですけど」
「えー、作家になっちゃったの?」

 というコントのような会話をするハメになった。

 そして紆余曲折会って、メディアワークスから「ピクニックは終末に」は「時空のクロス・ロード ピクニックは終末に」として出版されることになったのだが、当時私は現職の警察官で、それも管理職だったので、さすがに、まずい。と言う話になった。

そこで考え出したのが「榎野英彦」から原案をもらった「鷹見一幸」が書いたということにしよう。間に架空の人物を一人挟み、名前も年齢も変えてしまえば、いいだろう。印税も振込先を変えて、そこから全額寄付して領収書をもらっておけば、もし、何かあっても、金銭の授受は無いことになる。

 と言う方法だった。
 かくして、この世に「鷹見一幸」が誕生したわけである。

 私は「榎野 彦」「榎野英彦」「邦 彦」「竹一本」「韮山 豊」などのペンネームで、色々なところで仕事をしてきたので、ペンネームにこだわるつもりは無かった。
「鷹見一幸」も、そんなに長く使うつもりは無かったのである。

 作家にしろライターにしろ、肝心なのは「書いたもの」である。
 「書いたもの」が面白くなければ、どんな名前をつけようと、その人間は認められない。
 逆に「書いたもの」が面白ければ、それはどんな名前でも通用する。

 はっきり言って、書いたのが人間でなくてもいいのである。コンピューターが書こうが、チンパンジーがタイプライターをランダムに打って出た文字列が、偶然文章になっていようと、その文章が面白ければ、その文章は価値を持つ。

 作家の正体が不明で、毎日、どこからともなく原稿が送られてきて、それをまとめて本にしたものであっても、その本が面白ければ、本は売れる。

 そう考えると、作家の名前に何の意味があるのだろう?【笑
 ましてや作家のパーソナリティなどに、意味を求める方が間違っていると思うのだ。

 鷹見一幸と言う名前は、私が小説を書く時の「仮面」の名前である。
 私は戸籍上の本名で生活しているし、それで何の不便も無い。
 
 作家はアイドルでもタレントでもない。作家は面白い小説を書くことが仕事であり、言い換えれば面白い小説だけ書ければ、それで仕事は終わりである。

 念のために言っておくが、これは「私がそう思う」というだけのことであり、「これが正しい」とか「お前らもこう思え」と主張するつもりは全く無い。

 私と違うように考え感じる人がいて当然である。その人の思想や価値観に異議を唱えるつもりは無い。
 
 ここは私のブログであり、ここで私が、私の思うところを書いた。
 ようはそれだけのことであるので、誤解無きように。【笑

「山猫姫10」と「宇宙軍士官学校」が出ます。

四月にブログを書いて以来、丸二ヶ月ぶりの日記である。
この二ヶ月間何をしていたかというと。ただひたすら小説を書いていた。
電撃文庫の「ご主人様は山猫姫・10」と早川書房の「宇宙軍士官学校【前哨】」の二冊である。
 当初の予定では宇宙軍士官学校のほうが先に書き終わっていなければならなかったのだがこれが遅れに遅れた。
 「銀河乞食軍団黎明編」からこっち、早川書房の皆様にはご迷惑を描けどおしである。

「宇宙軍士官学校」は7月末に、「山猫姫10」は8月10日に書店に並ぶ予定である。
また、詳しいことがわかり次第こちらでお知らせするつもりである。

 それにしても、「士官学校」を書き始めたのが一月なので、約半年掛かったことになる。
 なぜ遅れるのかというと、これは描き始めるまえの「見積もり」のミスである。 プロットを書いて「これで一巻分」と思って書き出すと、全く追いつかない。
 書き始めると、とにかく情報量が多すぎるために、情報の交通整理をしなければならなくなるのである。
 
 この情報量というのは、読み取れる人にとっては有意義だが、読み取れない人には、全く意味が無い。
 誰でもわかる、わかりやすいことを優先させるには、この情報量を削ればいいわけである。 しかし、なんでも削ってしまえば、物語は成立しなくなる。
 キャラクター情報だけを残し、それ以外の部分を削って、わかりやすく読みやすくしたものが求められるし、好まれるのは当然である。

 ただし、そういう物語は、キャラクターを追うだけのものになりやすい。カメラはキャラクターだけを追いかけ、キャラの前に次々に謎を置いていくことで、物語にテンションを与えるというトランプ型の手法を取ることになる。
 
 作者は、物語に関する手札をすべて伏せており、キャラクターの行動に従って札を開いていくのである。
 これは読者をひきつけるには最良の手である。問題はネタバレに弱いところだろう。
 誰か先に読んだ読者が、作者が伏せた手札を言ってしまえば、もう、その手札の効果は無くなるわけである。
 少ない情報量で読者を楽しませるには、こういった手札を伏せるトランプ型の物語が適している。

 一方私のように、すべての情報を隠すことなく読者の前に提示する物語、いわゆる将棋型の物語を書くには、いかに読者に情報を提示するか。という部分が問題になる。
 敵の行動も、行動の理由も、それに対する主人公側の行動の理由も、すべて事前に読者に提示しなければならないのだ。
 
 そうやって、すべての情報を提示した上で、さあこれから、この小説の中で、どんな戦いが行われるのか。という部分に読者の興味をひきつける訳である。

 これはキャラクター情報だけでは支えきれない。キャラクターを取り巻くすべての駒の動かし方とルール、いわば物語という将棋盤の上にあるキャラクターすべての情報を読者に提示して、読者に理解してもらわねば、将棋の対局の面白さはわからない。

 ライトノベルは基本的に手札を伏せたトランプ型の物語がメインである。
 だからネタバレに弱くなる。

 そして、こういう物語に慣れた読者、と言うか、こういう物語しか知らない読者が、すべてが盤上に明らかになっている将棋型の物語を読むとこういうのである「予定調和で面白くない」と【笑

 将棋のルールも駒の動かし方も知らない人間が、将棋の対戦を傍で見ていれば、きっと同じことを言うだろう。同じような駒が同じように動いて、取って取られて、「参りました」となるわけで、そこに存在する駆け引きとか、腹の探りあいとか、先の読み合いとかを読み取れねば、それは予定調和なダンスをやっているようにしか見えないだろう。

念のために言っておくが、これは、物語の構造が違うだけで、どちらが上だとか下だとか言っているわけではない。
 
 読みやすく、わかりやすく、キャラクターの魅力で読者をひきつけ、キャラと共に物語の世界に入っていく方法を取るとしたら、トランプ型が適しており。
 
 世界全体を俯瞰的に見て、個々のキャラよりも全体の局面の流れをみることに興味がある人向けに書くとなれば、将棋型が適している。というだけのことなのだ。

 私は、どちらかというと、後者の物語が好きなので、私が面白いと思っている後者の進め方で物語を書いているわけである。

 こういう物語の書き方をするとなると、物語を俯瞰した見方になるのは仕方が無い。
 いわゆるキャラ萌えの方から見ると、実に冷たく突き放しているように見えるようだが、その辺は仕方が無い。

 私は、読者に面白いと思ってもらえる物語を書くのが仕事だと思っている。
 面白い物語を書くことで私の仕事は終わりである。
 別に読者に面白いと思ってもらえる作者になるつもりはない。

 作者と読者は仲間であると思い込みたがっている方が、良く私のあとがきに文句をつけているが。私はどうにもそういう人々の言っている意味がわからないのである。【笑

もしかすると私は金沢に嫌われているのかもしれない【笑

3月25日にレンタカーに金沢の大学に進む次男の荷物を積んで行こうと思ったら、その日は朝から大雪で、関越トンネルの北側ではチェーン規制となったいた。
 深谷駅前のトヨタレンタリースでレジアスハイルーフロングバンを借りたのだが、冬でもタイヤがノーマルでチェーンがオプションで付くだけ。という「太平洋側バージョン」である。

 がっつリ雪の積もっている厳冬期なら、最初からチェーンで行くのもありかもしれないが、この季節は、インターごとの区間的にチェーン規制が掛かることが多い。

 ただでさえチェーン装備では速度も出ない上に、規制が掛かったり外れたりするたびに、いちいちチェーンの着脱をしていたのでは、とんでもない時間と手間が掛かる。
 雪の中でチェーンの着脱を繰り返すなどと言うのは、一種の拷問に近いだろう。
 スタッドレスタイヤが、あっという間に市民権を得てしまったのも当然といえば当然である。
 
 コストの問題もあるのだろうが、冬に長距離を使う可能性もあるレンタカーがノーマルタイヤというのは、天下のトヨタの看板が泣くのではないかと思うが、嫌なら使うな、と言われれれば、そうも行かないわけで、仕方ないので、ノーマルタイヤで借り出し、そのまま深谷市内の、オートステーションという、タイヤ専門店にレンタカーを持ち込んで、中古スタッドレスタイヤに履き換える事にした。

 トラック用のスタッドレスの中古があるかどうか心配だったが、運良く、四本見つかったののだが、ホイルがない。仕方ないのでノーマルタイヤを外して、ホイルはそのままでタイヤだけを組み変えることにした。

 引越しが終わって戻ってきたら、借りたときのノーマルタイヤを付け替えて、買った中古スタッドレスはそのまま引き取ってもらう、と言う条件で、一本3500円と言う話がまとまって、タイヤ四本をスタッドレスに組み替えて、いよいよ金沢へ出発したのだが。

 関越トンネルを抜けたら、いきなり雪である。
 小千谷あたりでは、路面は五センチほどの積雪で、圧雪状態になっていた。
 その後も、山を越えてトンネルを越えるたびに路面状態が変わる。
 とてもノーマルタイヤ&チェーンでは対処できない状況の中、北陸道をひた走って、金沢の次男の暮らす寮に付いたのが、午後五時。
 そのまま家財道具と次男をとりあえす下ろして、私と妻はホテルに一泊。
 
 朝起きてびっくり、金沢市内は真っ白である。
 多少の出費はあっても、安全には変えられない。中古スタッドレスに履き替えて正解だった。
 
 これが、次男の引越しで金沢に入ったときの出来事。
 そして、次男の大学の入学式に参列するために、金沢に向ったのが4月1日。2日に入学式を無事に終えて、ホテルに戻ってテレビをつけたら、なにやら恐ろしい単語が飛び交っていた。

「台風並み」「暴風雨」「爆弾低気圧」

 そう、その日は、先日、北陸と北日本を襲った春の嵐の前日だったのである。

 入学式も終わったし、半日金沢の町を見物して、昼過ぎに出て、夕方に埼玉に着けばいいや。なんて考えていたのだが、とんでもない。朝の九時には、風速十メートルを超えると言う予報が出ていた。

 といおうわけで、4月3日の朝7時に、金沢市内を出て、埼玉に帰ったのだが、ものすごい風で折れた小枝がびしばし車のフロントガラスに当たる中、平均時速70キロ程度で、必死に帰ってくるはめになった。

 つくづく金沢とは相性が悪い【苦笑

 まあとにかく、先週末から今週にかけては、ひたすら車の運転をして終わったような気がする。
 プライベートの様々なことが片付いたので、しばらく書いていなかった原稿書きの方も本腰で書けるようになった。なんというか「物を書く」というのは、精神状態に余裕が無いと無理なのかもしれない。
 このブログの復活もその辺に理由があるのだろう。

 さて、電撃文庫から出ている「ご主人様は山猫姫」であるが、先日メディアワークスの編集さんからお電話があって、既刊の「5・6・7・8巻」すべてに重版が掛かったそうである。
 特に6巻はアマゾンで長い間品切れになっていたのだが、やっと購入可能になりそうだ。

 アニメ化やコミック化というメディアミックスと全く縁の無い物語だが、読者の方に支持されて、なんとか売れてくれているようで、実にありがたい。

 アニメやコミックになってばんばん売れる方が、本は売れるし、アニメ会社もイラストレイターさんも作家も出版社もみんな儲かって、みんなが幸せになれるわけで、アニメ化やコミック化を目指したり前提にして書くことは間違っているわけではない。
 今の出版事情から見ればそれは間違っているどころか、推奨すべきことなのだと思う。

 しかし、そういう売れ方をする本だけがライトノベルと言うわけではないと思う。
 
 固定客を獲得し、つかんで離さない。常に一定数は売れる。そういうライトノベルがあってもいいと思うのだが、私は間違っているのだろうか?【笑

 

小説講座「読者の期待を裏切るな、予想を裏切れ」

 昨日、メディアワークスの編集さんから電話を戴いた。山猫姫9は、巻数を重ねているが、売れ行きがほとんど変わらず、堅調に売れている。とのことで、ありがたいことである。

 シリーズもの、というのは、長く続けていると、読者が減っていくものらしい。
 波長の合った読者は「これは面白い」と言って買い続けてくれるが、波長が合わない読者は「俺の読みたかったものはコレジャナイ」と言って離れていくのである。
 
 シリーズを続けると、必ず「いつもと同じでつまらない」と言う人が出てくる。
 これはもう仕方がない。そういう新しいものにだけ価値を認める人というのは一定数以上存在するのである。
 
 だが、世の中はそういう人だけがいるわけではない。
 今風の「ニンニクマシマシこってりカップラーメン」とか「激辛エスニック味カップラーメン」が、いつの間にか店頭から消えているのに、カップラーメンのしょうゆ味が、いつまでたっても店頭から無くならないようなものである。(笑


 さて、私はそういう、しょうゆ味のカップラーメンのようなライトノベルを12年ほど書き続けてきたわけだが、そういうライトノベルを書きたい。とお考えの方は、この先をお読みになって戴きたい。何か得るものもあるかもしれない。

 しかし、そういうライトノベルに興味は無い。読んだ人間をあっと言わせる新機軸満載の、誰も書かなかった、一番新しいライトノベルを書きたい。とお考えの方は、お読みになってもあまり意味は無いと思うので、あらかじめ念を押しておく【笑

 
 と言うわけで本題に入る。前置きが長いのは年寄りのクセである、お許し願いたい。

 まず「読者の期待を裏切るな、予想を裏切れ」という言葉の意味を解説しよう。
 読者はタイトルやイラストからその本の内容を期待し、予想する。
 「期待」というのは、読者が読みたいと望むものを言う。いわば読者の願望である。
 この期待、願望を裏切ると「面白くない」と言われることになる。
 
 表紙にカワイイミニスカ制服姿の女子高生が描かれていて、タイトルが「生徒会長は僕たちを今日も寝かさない」みたいな小説があれば、それを手に取る読者が期待するのはどんな物語だろうか?
 
 天然ボケの巨乳の美人生徒会長が、一生懸命頑張るけども、あっちでポロリ、こっちでチラリで、それをフォローしようとする主人公が奮戦するお色気ラブコメ。

 あたりを期待し、望むであろうことは間違いない。
 
 地殻変動によって地震が頻発し、富士山が噴火して経済大国としてのインフラや技術。そのすべてを失った近未来の日本に生きる若者の唯一の雇用先は傭兵として海外に行くことだけだった。日本の高校生たちは、傭兵となるべく軍事訓練に明け暮れていた。
 その日、教官はそっと生徒会長に告げた。
「明朝五時、薄暮時に最終訓練が行われる。今夜は早く寝て、明日に備えておけ」
 そして、生徒会長は、生徒たちを集めた。
「教官から情報のリークがありました。明朝薄暮時に訓練が行われるそうです……この意味がわかりますか? そうです。つまり、訓練は今夜、我々が寝静まったその時に始まるでしょう! 総員、完全装備で戦闘靴着用のままベッドに入りなさい!」

 ……なんて物語を期待しているはずがない【笑
 もし、こういう物語を読まされれば、大概の読者は怒る。期待を裏切られたからである。
 中には「こっちの方が面白い」と言う人がいるかもしれないが、そういう人は、おそらく少数派である【笑
 
 ここまで外さなくとも、読者は、自分が望む展開と結末がそこに無ければ、読むのをやめるだろう。
 アマゾンの書評を見ると「自分の思ったとおりに物語が進まない」ことが低評価の最大の理由であることが良くわかる。

 さて、その「読者の期待、願望」という要素を一言で言えば「王道」と言う言葉にたどり着くだろう。
 王道という言葉のせいで、なんとなく物語の道筋と理解している人が多いが、道筋と言うよりも「見せ場」と言ったほうがいいと私は思う。
 読者が期待するものを見せる見せ場が存在する物語がいわゆる王道の物語である。

 「読者の期待を裏切るな」というのは、読者が見たがっている見せ場をちゃんと書け。ということである。これはセオリー中のセオリーで、改めて書く必要も無いことだが、この「読者の期待に沿う」ということを、勘違いする人が多いので、ここで述べておく。

 次の「読者の予想を裏切れ」という、この「予想」とは、いわゆる「展開」であり「流れ」のことである。

 この「展開」や「流れ」は、何で構成されているかと言うと「セリフ」と「描写」である。 主人公の前にツンデレな少女がやってきた、とする。
 ここで、多くの読者は、ツンデレっぷりを期待する。ツンデレな見せ場を望んでいる。
 ならば、ここでツンデレな会話を書く事は何の問題もないように思える。
 それは読者の期待に沿うことだからだ。

 問題は、そのときに、読者の脳内にはすでに予想された「ツンデレっぷり」が存在するということである。
 
 読者が過去に読んできた、同じようなシチュエーション、同じようなキャラが、口にしてきた同じようなセリフと、同じような表情を描写した文章。

 これが「読者の予想」である。

 もしここで、読者が思い浮かべたのとほとんど変わらない。もしくは、全く同じセリフを書いたとしよう。
 果たして、読者はそれを面白いと思うだろうか?

 読者はツンデレなシーン、女の子のツンデレっぷりを期待している。それを読みたいと思っている。そこでツンデレを書くのは、願望と期待に応える行為である。
 だが、それを描き出すときに、読者の予想範囲の「会話のやり取り」や「表情や、しぐさの描写」でそれを書いたのでは、読者は喜ばないのである。

 読者の期待に応え、見せ場を書くときに、それを読者の予想のナナメ上にする。
 読者の予想していない新しい「ツンデレなセリフ回し」があれば、どんなにシチュエーションや設定に手垢が付いていても、それは新鮮に受け取ってもらえるのだ。

 この「読者の予想のナナメ上」を行くためには、読者の記憶にあるパターンのどれとも違うものを思いつかねばならない。
 
 言うのは簡単だが、やれと言われて簡単にやれるものではない。だが、作家とはそれをやる。思いつくことが仕事なのである。

 手前味噌で恐縮だが「多勢に無勢で大軍に取り囲まれた主人公たちが、一握りの仲間たちと、その敵の重圧を撥ね退けて、活路を見出す」という王道の展開がある。

 映画で言えば、古くは西部劇の「アラモ」や「ズールー戦争」新しくは「指輪物語」に至るまで、列挙すればタイトルで埋まってしまうほど、描き尽くされたシチュエーションである。
 だが、このシチュエーションは今でも「読者の期待する見せ場」を描き出すには最適な展開であり、私はこの展開を使うのが大好きである。

 なぜ、これが好きなのか。答えは簡単である、この展開は「期待を裏切らず予想を裏切る」には持って来いなのだ。

「主人公が少数の仲間と共に大軍と戦って、切り抜ける」というのは「読者の期待、願望」である。
 そしてそのために、どんな手段を使うか。ここが、読者との知恵比べである【笑

 条件を簡単にすれば、いくらでも方法がある。しかし作者に有利であるということは、読者の予想にも有利である。ということである。
 条件を厳しくすればするほど、読者は、知識や記憶の中から引っ張り出してきた解決策では太刀打ちできなくなる。
 そして「こんなの無理だ」と思ってくれれば、こっちのものである。

 そう思ったところに、何か一つ解決策を示すことができれば、読者は「その手があったか」と思ってくれるのだ。

 楽ではない。しかし、考え考え抜いて、思いつくからこそ、読者は面白がってくれるのだと思う。

「ご主人様は山猫姫」と言うタイトルで、山猫みたいなお姫さまと、主人公のイチャイチャを期待した読者を裏切ることなく、ちゃんとイチャイチャを書き。それと同時に、それを期待した人の予想を裏切る展開を書くことで、山猫姫は売れているのだと思う。

 電撃大賞へ応募を考えている作家志望者の方は、ご自分の書いた物語を、もう一度読み直していただきたい。

 あなたの物語は、読者の期待に応えているだろうか?
 そして、その期待に応えるための会話や、描写は、読者の予想のナナメ上にあるだろうか?
 期待に応えないことで、読者の期待を外し、会話や描写をどこかで見たものから持ってきて、読者の予想通りにしてはいないだろうか?

 エンタティメントとしての小説は「読者」を楽しませるために存在する。
 それを忘れないで欲しいと願う。

越後湯沢からの引越し

 今週末に、次男の引越しを控えて、毎日ばたばたと荷物の整理やら、転出届けやら、やることが多くて、ブログを書く暇が無かった。

 次男は、この春から金沢の大学に進むのだが、一人暮らしをするとなると、生活に必要な家財一切を揃えねばならないので、なかなか大変である。
 そしてそれに合わせて、今の仕事場として使っている、この越後湯沢のリゾートマンションも引き払うことになった。

 越後湯沢の家財道具が、そのまま次男のところに行くわけである。

 こう書くと実に簡単そうだが、実際はそうは行かない。越後湯沢にある資料の山を埼玉の家に持ち帰らねばならない。
 そのためには、埼玉の家にそれを入れるスペースを作らねばならないわけで、本と軍装品が詰め込まれた7.5畳の別棟の物置はもはや入る隙間も無い。

 この物置を建てたときは「これで資料が全部入るだろう」と思ったが、そんなことはなかった。本は増えることはあっても減ることは無いのである(苦笑

 工程表としては、まず「家の物置の片付け」次に「湯沢の仕事場の片付け」そして「次男の引越しの準備」である。

 湯沢の引き払いと次男の引越しを同時にできれば、一回で済む。と軽く考えていたのだが、それが大きな間違いだったのかもしれない。
 しかし、もう、不動産会社と管理会社に3月一杯で引き払いますと連絡してしまったので、いまさらどうしようもない。

 越後湯沢で仕事をして10年近くになる。
 温泉はあるし、スキー場はあるし、水も空気も米も酒も美味い、素晴らしい土地だった。

 縁があれば、次男が大学を卒業した頃に、また越後湯沢に仕事場を得ることができるかもしれない。それまでの間、しばし、戦略的撤退である。

 

山猫姫9の発売と、一年前のこと。

 3月10日に、電撃文庫から「ご主人様は山猫姫・9」が発売になった。
 予約を受け付けていたアマゾンにリンクしていたが、先日書いたとおり、アマゾンは予約分だけで売り切れてしまい、今は中古本が出品されているだけとなっている。

 しかし、その中古本の価格設定が、一冊2000円から980円、というのは驚いた。
 こうやって、新刊が売り切れで需要が高まっているときに、その需要と供給の隙間を見つ
け、品物を売るのが、いわゆる「目端の利く商人」なのだろう。

 発売日に、書店に行けば、まだ定価で並んでいる新刊本を二倍以上の価格で中古本を売りに出す。と言うのは、普通に考えると、買う人はいそうにないように見えるが、アマゾンに、本がない、と言う事実は変わらないわけで、そのあたりを見越した強気の設定なのだろう。

 それにしても、プレミア分を払っても私の本を買いたい。という方がいるのかどうか、その辺は疑問であるが、こういう商売をしている方から見れば、チャンスなわけで、売れればめっけもの、と言うスタンスなのかもしれない。

 アマゾンで売り切れても、一般の書店では山積みかもしれないので、もし、アマゾンで買えな買った方は、書店を探していただければ、と思う。

 さて、あの日から一年が過ぎた。

 一年前のあの日あの時間、私は車に乗って買い物に出かけていた。
 埼玉県北部は風が強く、車の揺れと地面の揺れの区別がつかなかったため、家に戻ってから地震の発生を知った。

 テレビに映る大津波の映像を、私はリアルタイムで見た。
 どれほどの災害になるのか、想像つかなかった。

 三陸は過去に三回ほどいったことがある。
 岩手県の宮古には、部下の結婚式に招待されて一泊した
 三陸鉄道に乗るために旅行したこともある。

 へりのカメラがリアルタイムで映し出す光景を見ながら、私は悔しくて仕方が無かった。

 ――俺はなぜ、警察官を辞めてしまったのだろう。
 警察官を続けていれば、何かができたかもしれない。
 遠く離れた埼玉で、何ができるかと言われれば、何もできはしない。たとえ警察官だったとしても、現場に行けるわけではない。

 そんなことはわかっている。
 でも、私は蚊帳の外なのだ。
 もし、私がまだ警察官をやっていれば、私の力が何かの役にたったかもしれない。
 しかし、今の私には、個人としての立場しかない。

 組織に所属し、組織で動くその力を知っているがゆえに、何の組織にも所属しない個人という立場が、どれほど無力か思い知らされた。

 私は個人的に様々な資格を持っている。だが、その資格が何の役にも立たない。
 ――悔しかった。
 アクティブに動けないことが悔しかった。

 もし、私が現役の警察官だったら、まず動いただろう
 出動計画を立ち上げ、備品を点検し、車両を確保し、糧食を手配し、出動可能人員を把握し、上司と本部に報告する。

 岩手、宮城の地図とデータを用意して、出動が掛かったときに備えて大型免許と検定を持った係員を選抜し、各部署に人員をどれだけ出せるかを打診する。

 応援派遣部隊として実際に現場に赴き捜索に当たる警察官が、動き出すその前に、やるべきことは、山のようにある。

 現場で泥にまみれ、自分の手で捜索することはできなくとも、現場で動く同僚のために動くことができる。

 しかし、警察を辞職した私には、何もできないのだ。
 
 そして、私は心に決めた。
 今、目の前で起きていることに対し、何一つアプローチできない悔しさを忘れないでおこう。
 今、動けなくとも、私の力が役に立つときがある。
 その時を逃がさないようにしよう。アクティブに動こう。

 そしてボランティアとして登録した私は、トラックを運転することになったのだが、それはまた別の話である。

 その後、首都圏でもライフラインが脅かされ、計画停電が行われるようになり、不安な日々が続いた。
 
 当たり前が、当たり前でなくなってしまった日々は、当たり前を維持することの尊さを思い起こさせてくれた。

 災害に襲われた人々を助ける人間は「英雄」と呼ばれ褒め称えられ、栄誉を受けることができる。
 しかし、その災害を引き起こさないように、日々保守点検を続けている人々が「英雄」と呼ばれることは無い。
 それは「当たり前のこと」と言われて終わりである。

 それは「当たり前」のことなのかもしれない。
 感謝する必要の無いことで、取るに足らないことなのかもしれない。

 しかし、彼らが、その「当たり前のこと」を「当たり前に」やっているから、私たちは「当たり前」に暮らして行けるのだ。

 本当の「英雄」とは。「当たり前のこと」を「当たり前」に続け、職務を果たしている人々だと私は思う。

 その人々に感謝することなく、メンテナンスも防災設備も「コスト」としか考えず、削ることで利益を上げることを「当たり前」だと思うような人間が栄誉を得るような価値観は、間違っていると私は思う。

 安全とは、平穏とは、最大限のコストを掛けて、人間が全力で守るに足りるものなのだ。


 
 
    
ご主人様は山猫姫〈9〉帝国崩壊編 (電撃文庫)

ご主人様は山猫姫〈9〉帝国崩壊編 (電撃文庫)

  • 作者: 鷹見 一幸
  • 出版社/メーカー: アスキーメディアワークス
  • 発売日: 2012/03/10
  • メディア: 文庫



【小説講座】「文章のシェイプアップ方法について【荒療治注意】」

「ライトノベルは、軽く読めるけど中身が無い」とか「面白いけど後に何も残らない」などという話をよく聞く。
 こういう話を聞くたびに、私は「よく出来たライトノベルとは吟醸酒みたいなものかもしれない」と思うことがある。
吟醸酒の多くは、淡麗辛口な日本酒で「軽くさらっと飲めて後に残らない」ために、酒造米を磨いて芯にして、さらに厳重な温度管理を行って醸造される。
「軽く飲める」ようになるためにために「水のように飲める」ために、手間ヒマ掛けているわけである。
 水のように飲める酒だからといって酒に水を足せばいいか、というとそんな簡単な話ではない【笑

 余談であるが、 落語のネタに、酒の分類で「村醒め」「軒醒め」「直醒め」というのが出てくる話がある。
 良い酒は、飲んだ後もずっと酔っていられて、村を出るまで醒めない。
 安い酒は、飲んでいるうちは酔えるが、店を出て軒先にでると、とたんに醒めるので「軒醒め」
 もっと安い酒は、飲んでいるうちから直【じき】に醒めてくるので「直醒め」
「なんじゃそりゃずいぶん薄い酒だな、ずいぶん酒の中に水を入れるだろう」と言うと、店主が笑って「いえ、水の中に酒を入れます」
「そりゃあ水っぽい酒だ」
「いえ酒っぽい水です」

 吟醸酒が造られるようになったのは、昭和に入ってからで、エンジンや電気で動く動力式精米機が使われるようになり、米の精米度を上げることができるようになったので、作れるようになったわけで、それ以前の酒は、なんというか実にこう味の濃い、米を溶かしたような、濃い味の酒が主流だった。
 こういった昔風の作り方で醸された日本酒は「淡麗辛口」とは正反対の酒で「濃醇甘口」と呼ばれている。

 さて、話を酒から小説に戻そう。
 私は「水のように読める」ライトノベルは、決して「水っぽい小説」ではないと思っている。
 最近「おミズっぽいラノベ」も出てきてるが、それについて話をするとややこしくなるので、ここではスルーする【笑

 ライトノベルと言うのは、読んだ後に残るのは「面白かった」という感触。だけでいい。と割り切った小説かもしれない。
 深く読みたければ読めばいい。だけど、深く読んだからエライとかそういうわけではないのである。
 どんな知識レベルの人でも面白いと思ってもらえるのが、「良いライトノベル」であり「良いエンタティメント」だと私は思うのだ。
  難しいことを、難しく書くのはだれでもできるけど、難しいことを、わかりやすく書くのは難しい。
 簡単なことを簡単に書いたのでは、読者は興味を持ってくれない。
 そして簡単な事を難しく書いたら、もっと興味を失うだろう
 ライトノベルは、確かに、簡単で単純で、読んでも軽くて後に残らない。でも、それは、そういう意図があって、そう書かれているものだから、ちゃんと成立しているのである。

 実を言うと、軽く書くのは、実に難しいのだ。なのに、なぜか、軽く書く=簡単に書ける と思い込んでる人が一杯いるような気がする。

 作家志望者の方の中には。どうやっても、書きすぎてしまう人がいるかもしれない。
 書きすぎる人は、一言で言うと不安なのである。
 ちゃんと伝わっているかどうか、自信がないから、読者に伝えるときに、たくさん書こうとする。
 しかし、形容詞にしろ修飾語にしろ、多すぎると肝心な部分、読者に伝えなくてはならない情報が、その中に埋もれてしまうのだ。
 だから、印象がボケる。ピントが甘くなる、物語全体が、霧の中で動いてるような感覚になるのである。

 これを矯正する荒療治の方法がある。
 これは「荒療治」と言うとおり、あまり、書きなれていない人。そして自分の文章が好きで好きでたまらない人。自分は文章が上手いと思っている人にはお勧めできない。
 特に、自分の書いた文章を自分の分身のように思っている人には絶対に無理である

 なぜなら、これをやると、自分の自信や自分の個性だと思い込んでいる部分が、がりがり削り取られることになるからだ。

 本当のことを言えば、そうやって削られてもなお残るものこそが、本当の個性であり、本当の文章力であり、削られたものは、余計な部分なのだが。それを認めることができないと、感情的反発しか残らないので、あまり薦めるつもりは無い。

 これだけ前振りをしておいてなんだが、その荒療治とは、実はたった一行で終わってしまう。

『行を半分にする』

 訂正。一行どころか七文字で終わってしまった【笑

 これはどういうことかと言うと、一つのエピソードを書くのに、120行使って書いたなら、それを半分の60行にする。ということである。

 余分な修飾語、余分な形容詞、余分な会話、特に何行にも分けて書いている会話を、一つにまとめて、とにかく、物理的に半分にするのである。
 これには、ものすごい労力が必要となる。なぜなら、考えなくてはならない。

「私は書ける」と思っている人の多くは、そう思っているだけである。
「考えないでもすらすら文章が出て来る」というのは、実は、文章書きのスキルで言うと一段レベルが上がっただけなのだ。
 素人から、一段上がっただけである。完成形でも到達点でもない。

 なぜかというと、そういう人は、頭の中に浮かんだ言葉を、思いついたら、そのまま書いているだけなのだ。
 そこで、言葉を吟味しない。思いついただけの言葉をどんどんそこに書いていくだけなので、楽しいし、どんどん書ける自分がすごい存在のように感じる。

 だが、その「書ける文章」とは、記憶の中にある、同じような言葉を脳内から拾ってきて、そのまま書いているだけなのだ。
 どこかで見たような表現と、どこかで見たような言葉だけが並べば、どんな物語でも「どこかで見た感」で一杯に見えてしまう。

 アイディアも構成もどんでん返しも何もかも。読者にそこまで読まれて、始めて意味がある。
 だが、どこかで見たような表現とどこかで見たような言葉だけが、メリハリも無くだらだら並べられた小説では、読者はそこまで読んではくれない。
 途中で「もういいや」となって終わりである。

 そもそも、勘違いする人が多いのがここである。これを肝に銘じて欲しい。

『読者はあなたの小説を読む義理は無い』

 読者は勝手である。ちょっと冒頭を読んで、気に入らなければ、ぽいと投げ捨てて見向きもしないのである。
「私の書いた小説は特別だ」と思っているのは、作者にとって特別なだけで、読者にしてみれば、書店に毎月並ぶ何十冊という小説と全く同じであり、読まねばならない義理は無いのである。
 
 さて、話を元に戻そう。

 荒療治をする目的である。
 これは要するに、ギリギリまで容量を切り詰めることで、情報の取捨選択が求められるということである。

 小説の文章とは読者に情報を示すことが目的である。その情報の優先度を、ここで判断しなければならない必要に迫られることになる。

 行を削る。削ると、意味が伝わらなくなる。だとしたら、違う言葉で表現するしかない。何も考えないで手なりで書いている人は、今まで言葉を吟味しないで書いてきた人である。
これは、吟味すると言うスキルを覚えるための「荒療治」なのだ。

 書かなくてはいけないことを削ってしまうと、読み直してみると、わけがわからなくなる。 書かなくてもいいことを削ると、読み直してもちゃんとわかる

 削ったら意味が通じなくなるくらいまで、情報を研ぎ澄まし、七つも六つも形容詞を使って表現していることを、ひとつかふたつの言葉で、的確に表現する言葉を探し出す
 二行三行に渡って交わしていた会話を、一つにまとめることで、会話をすっきりさせる。

 これは、すべて作者がこの文章で、この会話で「読者になにを伝えたいのか」を明確に意識していなければできないのだ。
 なにを書くべきか、何を伝えるべきかを、明確に意識しなければ、それを伝えるための言葉を見つけてくることはできない

 逆に言うならば、それを明確に言い表す言葉が見つからないから、無駄な言葉を並べてそれそれを表現しようとしているわけである。

 実際にこれをやると、どんどん文章が無味乾燥になって行くように見えるだろう。
 しかし、それが無個性に見えるとしたら、それはつまり、あなたが、自分の言葉を使っていなかったと言うことの証明である。

 あなたでなければ使えない、あなたで無ければ書けない言葉があれば、それは最後まで残るだろう。
 それこそが、あなたの文章なのだ。

 どこかで見た文章でもない、ありきたりの文章でもない、読者から見れば、あなたの小説でしか読むことの出来ない文章なのだ。

 まあ、これは私の方法論なので、押し付けるつもりは無い。自分のやり方で書くのが一番いいのは言うまでも無い。

 この「荒療治」は、袋小路に入ってしまって、どうしても先が見えなくなった方にしかお勧めできない方法である。


「作家」という答えを出す方法は一つではない。


 さて、ここまで【小説講座】と銘打って、色々書いてきたわけだが。さっそく、私のウェブページのメールフォームを使って。「お前のやり方は間違っているお前の書き方では、作家にはなれない」というご意見を戴いた。

 ということは、どうやら、私はまだ作家になっていないらしい。【笑

 と、まあ冗談は抜きにして、メール主の言いたいことはわかる。
 つまり「お前【鷹見】のやり方では【メール主】は作家になれない」と言う意味なのだ。

 私【鷹見】のやり方が、間違っているわけではない。現にこうして作家を続けているわけで、もし私のやり方が間違いなら、作家は続けていられないだろう。

 世の中のすべてのことに「正しいやり方」「正しい答え」があって、それをやれば、誰でも同じ結果を残せる。
 こういう「黄金の処方箋」が存在するものと勘違いをしている人が実に多い。

 確かに、テストの答えはひとつしかないように見える。3+4は7であリ、それ以外の数字は×を付けられる。
 そして○以外はすべて×、つまり「間違った答え」となる。

 そういう方法でテストは行われる。たった一つの「正しい答え」以外はすべて「間違った答え」と教え込む。

 知識の正確さや計算力を測るテストなら、そういう教育の仕方でも構わないだろう。しかし、社会はテストのようには進まない。

 作家になる。と言う答えを「7」とするならば、答えが7になる方法を求めなさい。

 世の中で出される課題は、こういうものだ。
 つまり、求められる答えに。どうやればそれに至るのか、その方法を求められるのだ。

 1+6でも正解だし、1×7でも正解だし、10-3でも間違いではない。
 「7」の代わりに「作家」や「利益」という単語を入れてみれば、もっとよくわかる。

 「作家」になることが課題ならば、どうやれば作家になれるのか。その方法(答え)は一つではない。
 「利益を出す」ことが課題ならば、どうやれば利益が出るのか、その方法(答え)は一つではない
 なのに、なぜか、多くの人は「正しい答え【やり方】は一つだけ」と思い込んでいる。

 そして、これが一番大事なのだが、社会で求められるのは○か×か、ではない。
 100点でなければ0点、なんて判断基準は無いのである。

 特に、小説のような創作物は、個人の好みに左右される。
 Aと言う人間が「ここが素晴らしい」と評価したその部分をBという人間が「ここがダメだ」と評価することも珍しくは無い。その価値観の違いこそが個性である。

 私の書いている「小説講座」は「私の方法」である。
 私はこの方法で作家になり、そしてそれを十年以上続けている。

 私は「7」と言う答えを出すために「1+6」と言う方法を使っている。しかし、世の中には「3+4」と言う方法で「7」と言う答えを出した作家さんもいるのである。
 
「○○先生は3+4と言うやり方が正しいと言っている、だからお前のやり方は間違っている!」と言う人は、そのやり方だけが「7」と言う答えにたどり着くことができると思い込んでいる。
 
 「正しい答え(○)は一つだけ。それ以外は全部間違い(×)」と思い込んでいるのである。

 私の「小説講座」は、無数にある「答えが7【作家】になる数式【方法】」の一つでしかない。
 私は私のやり方しか知らない。だから私のやり方を書いているわけで、「これだけが正しい。これ以外のやり方は全部間違っている」などと主張したつもりはない。

 私のやり方を読んで「面白そうだな」と思ったら、やってみる。くらいのノリで読んでもらえるとありがたい。

 次の【小説講座】は、文章のシェイプアップについて軽く書いてみたいと思っている。


 先日の日記で、アマゾンで「ご主人様は山猫姫・9」の予約が始まったので、下のリンクを押して欲しい。と書いたが、本日現在、アマゾンでは予約が中止になっている。

 「入荷お知らせメールをお送りします」になって、予約購入ができないのだ。

 どうやら、予約件数が、仕入れ予定数の上限を超えてしまったようである。アマゾンで予約し忘れた方は、ご面倒でも、発売日にお近くの書店を覗いていただきたい。
 私の本は、郊外型の書店では売り切れていても、アニメイトとか、とらのあな、といった、いわゆるサブカル向けの書店では売れ残っていることが多い。
 読者層が一般のライトノベルとは少し違っているので、こういうことになるらしい。

 発売日まであと2日。もう少しお待ちいただきたい。


【不定期連載小説講座】「文章で、スケッチをやってみよう」


「ご主人様は山猫姫・9」がアマゾンで予約が始まって二日目。現状でアマゾンランキングの50位前後をウロウロしている。

 ランキングの一ケタには、「とある禁書目録」や「ゴールデンタイム」「れでぃ×ばと!」という電撃文庫のトップランナーが並んでいるが、私はそのはるか後方にいるわけである。

 トップランナーと書いたが、アマゾンの売れ行きランキングはマラソンのようなものかもしれない。書店に並ぶスタート前に、まず予約でスタート順が決まり、売り出しと同時にスタートとなる。

 人気のある本はずっと上位を占めているが、人気が無くなれば、どんどん後落していく。
 逆に、予約の段階では全く無名だった本が、書店に並んだ後で、口コミで一気にゴボウ抜きでトップ集団に躍り出ることもあったりする。

 そういう番狂わせもあるのが出版界の面白いところであるのと同時に「いつか俺も……」と思わせる恐ろしいところでもある【苦笑

 さて今回の小説講座は、情景を描いて読者をそこに連れて行くことができるようになるための訓練方法「文章で行うスケッチ」である。

 ちゃんとキャラクターの会話を書いているのに、友人に読ませると「これ、どこで誰が話してるの?」みたいなことを言われてしまう。
 もしくは「会話だけしか書けない」と言う人が結構いる。

 そういう人は、脳内にその場面が浮かんでいないのだ。
 映画やドラマの映像で言えば、キャラクターの顔のアップが延々と続いているだけで、動きや構図を全く考えていないのと同じである。

 キャラの顔のアップだけでも、その表情を、生き生きと描写できればそれで場をもたせることはできるが、そんな技量を最初から持っている天才はほんの一握りである。
 平凡な人間が小説を書けるようになるには、訓練を積むしかない。

 まず、適当な白い紙を用意して欲しい。線が引ければ文字が書ければ何でもいい。その紙に大きく四角を書いてから、そこに、脳内の記憶をフルに思い起こして、行きつけのコンビニの図面を書いて欲しい。

 入り口がここで、ここに雑誌が並んでて、ここにカウンターがあって、ここに弁当やおにぎりがあって、この棚にパンがあって、その反対側にお菓子が並んでて……と、想い出しながら図面に書き入れていくのだ。

 図面が書き終わった頃には、脳内に、しっかりとコンビニの店内が出来上がっているはずである。

 そうしたら、その紙を持って、そのコンビニに行って欲しい。
 自分の脳内の記憶と、実際のコンビニとの違いを見比べるのである。
 結構思い違いをしているはずである。

 さて、修正を終えたら、家に戻り、目の前の図面と記憶を頼りに、シチュエーションを思い浮かべて欲しい。

 主人公が、コンビニでパンを買おうか弁当を買おうかと迷っているところに、後輩の女の子がやってきて、声をかける。と言うシチュエーションだ。

 まず、主人公の立っている位置を決めよう。決めたらその位置で、何を見ているかを書き出そう。箇条書きで構わない。
 次に、店に入ってきた後輩の動きを決めよう。どのあたりで、主人公を見つけ、どこで声をかけてくるのか、それを。

 この一連のイメージを絵にしたもの、それがアニメや映画の絵コンテになる。
 作者は、これを脳内に作ってその順番で、文章に起こしていかねばならない。

 書くべきことには、順序がある。
 
 この順番を考えずに書くと、カメラはあっちこっちをてんでばらばらに映した映像を、読者に見せることになる。
 
 後輩の女の子の外見を描写して、店の中の混み具合を書いて、また後輩の女の子の表情を書いて、いきなり回想シーンに入って……と言う具合である。

 脳内にちゃんと情景と、空間を作らずに書くと、いきなりドアが現れたり、突然階段を転げ落ちたり、右にいたはずの相手が左側にいたり、現代日本が舞台で国産車を運転していて助手席に仲間が乗っているはずなのに、前の車を右から追い越しざまに、ドア越しに運転手の腕をピストルで撃ち抜いたりすることになる。

 この「文章のスケッチ」をすることの利点は、そういう空間の認識が出来る回路を脳内につくることである。
 脳内に思い浮かべる情景をしっかりと、明確にさせることで、会話だけで、他に何も無い顔のアップだけのコマが続くようなマンガにならないで済むし、何よりも、この部分が『色々あって』に繋がっていくのだ。

 そして、描写のときに、コンビニの店内にあるものを、的確に描写することで、読者にその情景を思い起こさせることができる。
 読者の記憶の中にある情景と、あなたが書いた情景が一致したとき、読者葉あなたの書いた文章に「リアリズム」を感じるだろう。
 
「店員さんが肉まんのケースを開けると、ふわっと湯気が立ち昇り、レジの上に飾ってあった、ホワイトデーのポスターが、かさかさと揺れた」

この二行で、読者の脳内に、肉まんを暖めているケースから立ち昇る湯気を思い浮かべてもらうのと同時に、今が二月の終わりから三月の初旬であることを読者に説明できる。

いちいち、セリフなどで説明しなくとも、情景描写で読者をそこに連れて行くのと同時に今の季節がいつなのかを説明できるわけである。

 この積み重ねが、なにを産むかと言うと、説得力である。

 ありっこない、あるわけない、荒唐無稽な話を書くのだから、説得なんか無駄じゃないか、とお考えかもしれない。
 だが、ありっこない、あるわけない話だけでは、誰も読んではくれない。
 ありっこない、あるわけない、でも、あったらいいな。と思わせるから読者は読んでくれるのだ。

 そして、小説は、その、ありっこない、あるわけない話を読者に「でも、あるかもしれない」と思わせることができるのだ。

「ありっこない、あるわけない、でも、あるかもしれない話」
 私が目指している理想の物語は、読者の方にそう思ってもらえる物語である。

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