小説講座「読者の期待を裏切るな、予想を裏切れ」
昨日、メディアワークスの編集さんから電話を戴いた。山猫姫9は、巻数を重ねているが、売れ行きがほとんど変わらず、堅調に売れている。とのことで、ありがたいことである。
シリーズもの、というのは、長く続けていると、読者が減っていくものらしい。
波長の合った読者は「これは面白い」と言って買い続けてくれるが、波長が合わない読者は「俺の読みたかったものはコレジャナイ」と言って離れていくのである。
シリーズを続けると、必ず「いつもと同じでつまらない」と言う人が出てくる。
これはもう仕方がない。そういう新しいものにだけ価値を認める人というのは一定数以上存在するのである。
だが、世の中はそういう人だけがいるわけではない。
今風の「ニンニクマシマシこってりカップラーメン」とか「激辛エスニック味カップラーメン」が、いつの間にか店頭から消えているのに、カップラーメンのしょうゆ味が、いつまでたっても店頭から無くならないようなものである。(笑
さて、私はそういう、しょうゆ味のカップラーメンのようなライトノベルを12年ほど書き続けてきたわけだが、そういうライトノベルを書きたい。とお考えの方は、この先をお読みになって戴きたい。何か得るものもあるかもしれない。
しかし、そういうライトノベルに興味は無い。読んだ人間をあっと言わせる新機軸満載の、誰も書かなかった、一番新しいライトノベルを書きたい。とお考えの方は、お読みになってもあまり意味は無いと思うので、あらかじめ念を押しておく【笑
と言うわけで本題に入る。前置きが長いのは年寄りのクセである、お許し願いたい。
まず「読者の期待を裏切るな、予想を裏切れ」という言葉の意味を解説しよう。
読者はタイトルやイラストからその本の内容を期待し、予想する。
「期待」というのは、読者が読みたいと望むものを言う。いわば読者の願望である。
この期待、願望を裏切ると「面白くない」と言われることになる。
表紙にカワイイミニスカ制服姿の女子高生が描かれていて、タイトルが「生徒会長は僕たちを今日も寝かさない」みたいな小説があれば、それを手に取る読者が期待するのはどんな物語だろうか?
天然ボケの巨乳の美人生徒会長が、一生懸命頑張るけども、あっちでポロリ、こっちでチラリで、それをフォローしようとする主人公が奮戦するお色気ラブコメ。
あたりを期待し、望むであろうことは間違いない。
地殻変動によって地震が頻発し、富士山が噴火して経済大国としてのインフラや技術。そのすべてを失った近未来の日本に生きる若者の唯一の雇用先は傭兵として海外に行くことだけだった。日本の高校生たちは、傭兵となるべく軍事訓練に明け暮れていた。
その日、教官はそっと生徒会長に告げた。
「明朝五時、薄暮時に最終訓練が行われる。今夜は早く寝て、明日に備えておけ」
そして、生徒会長は、生徒たちを集めた。
「教官から情報のリークがありました。明朝薄暮時に訓練が行われるそうです……この意味がわかりますか? そうです。つまり、訓練は今夜、我々が寝静まったその時に始まるでしょう! 総員、完全装備で戦闘靴着用のままベッドに入りなさい!」
……なんて物語を期待しているはずがない【笑
もし、こういう物語を読まされれば、大概の読者は怒る。期待を裏切られたからである。
中には「こっちの方が面白い」と言う人がいるかもしれないが、そういう人は、おそらく少数派である【笑
ここまで外さなくとも、読者は、自分が望む展開と結末がそこに無ければ、読むのをやめるだろう。
アマゾンの書評を見ると「自分の思ったとおりに物語が進まない」ことが低評価の最大の理由であることが良くわかる。
さて、その「読者の期待、願望」という要素を一言で言えば「王道」と言う言葉にたどり着くだろう。
王道という言葉のせいで、なんとなく物語の道筋と理解している人が多いが、道筋と言うよりも「見せ場」と言ったほうがいいと私は思う。
読者が期待するものを見せる見せ場が存在する物語がいわゆる王道の物語である。
「読者の期待を裏切るな」というのは、読者が見たがっている見せ場をちゃんと書け。ということである。これはセオリー中のセオリーで、改めて書く必要も無いことだが、この「読者の期待に沿う」ということを、勘違いする人が多いので、ここで述べておく。
次の「読者の予想を裏切れ」という、この「予想」とは、いわゆる「展開」であり「流れ」のことである。
この「展開」や「流れ」は、何で構成されているかと言うと「セリフ」と「描写」である。 主人公の前にツンデレな少女がやってきた、とする。
ここで、多くの読者は、ツンデレっぷりを期待する。ツンデレな見せ場を望んでいる。
ならば、ここでツンデレな会話を書く事は何の問題もないように思える。
それは読者の期待に沿うことだからだ。
問題は、そのときに、読者の脳内にはすでに予想された「ツンデレっぷり」が存在するということである。
読者が過去に読んできた、同じようなシチュエーション、同じようなキャラが、口にしてきた同じようなセリフと、同じような表情を描写した文章。
これが「読者の予想」である。
もしここで、読者が思い浮かべたのとほとんど変わらない。もしくは、全く同じセリフを書いたとしよう。
果たして、読者はそれを面白いと思うだろうか?
読者はツンデレなシーン、女の子のツンデレっぷりを期待している。それを読みたいと思っている。そこでツンデレを書くのは、願望と期待に応える行為である。
だが、それを描き出すときに、読者の予想範囲の「会話のやり取り」や「表情や、しぐさの描写」でそれを書いたのでは、読者は喜ばないのである。
読者の期待に応え、見せ場を書くときに、それを読者の予想のナナメ上にする。
読者の予想していない新しい「ツンデレなセリフ回し」があれば、どんなにシチュエーションや設定に手垢が付いていても、それは新鮮に受け取ってもらえるのだ。
この「読者の予想のナナメ上」を行くためには、読者の記憶にあるパターンのどれとも違うものを思いつかねばならない。
言うのは簡単だが、やれと言われて簡単にやれるものではない。だが、作家とはそれをやる。思いつくことが仕事なのである。
手前味噌で恐縮だが「多勢に無勢で大軍に取り囲まれた主人公たちが、一握りの仲間たちと、その敵の重圧を撥ね退けて、活路を見出す」という王道の展開がある。
映画で言えば、古くは西部劇の「アラモ」や「ズールー戦争」新しくは「指輪物語」に至るまで、列挙すればタイトルで埋まってしまうほど、描き尽くされたシチュエーションである。
だが、このシチュエーションは今でも「読者の期待する見せ場」を描き出すには最適な展開であり、私はこの展開を使うのが大好きである。
なぜ、これが好きなのか。答えは簡単である、この展開は「期待を裏切らず予想を裏切る」には持って来いなのだ。
「主人公が少数の仲間と共に大軍と戦って、切り抜ける」というのは「読者の期待、願望」である。
そしてそのために、どんな手段を使うか。ここが、読者との知恵比べである【笑
条件を簡単にすれば、いくらでも方法がある。しかし作者に有利であるということは、読者の予想にも有利である。ということである。
条件を厳しくすればするほど、読者は、知識や記憶の中から引っ張り出してきた解決策では太刀打ちできなくなる。
そして「こんなの無理だ」と思ってくれれば、こっちのものである。
そう思ったところに、何か一つ解決策を示すことができれば、読者は「その手があったか」と思ってくれるのだ。
楽ではない。しかし、考え考え抜いて、思いつくからこそ、読者は面白がってくれるのだと思う。
「ご主人様は山猫姫」と言うタイトルで、山猫みたいなお姫さまと、主人公のイチャイチャを期待した読者を裏切ることなく、ちゃんとイチャイチャを書き。それと同時に、それを期待した人の予想を裏切る展開を書くことで、山猫姫は売れているのだと思う。
電撃大賞へ応募を考えている作家志望者の方は、ご自分の書いた物語を、もう一度読み直していただきたい。
あなたの物語は、読者の期待に応えているだろうか?
そして、その期待に応えるための会話や、描写は、読者の予想のナナメ上にあるだろうか?
期待に応えないことで、読者の期待を外し、会話や描写をどこかで見たものから持ってきて、読者の予想通りにしてはいないだろうか?
エンタティメントとしての小説は「読者」を楽しませるために存在する。
それを忘れないで欲しいと願う。
シリーズもの、というのは、長く続けていると、読者が減っていくものらしい。
波長の合った読者は「これは面白い」と言って買い続けてくれるが、波長が合わない読者は「俺の読みたかったものはコレジャナイ」と言って離れていくのである。
シリーズを続けると、必ず「いつもと同じでつまらない」と言う人が出てくる。
これはもう仕方がない。そういう新しいものにだけ価値を認める人というのは一定数以上存在するのである。
だが、世の中はそういう人だけがいるわけではない。
今風の「ニンニクマシマシこってりカップラーメン」とか「激辛エスニック味カップラーメン」が、いつの間にか店頭から消えているのに、カップラーメンのしょうゆ味が、いつまでたっても店頭から無くならないようなものである。(笑
さて、私はそういう、しょうゆ味のカップラーメンのようなライトノベルを12年ほど書き続けてきたわけだが、そういうライトノベルを書きたい。とお考えの方は、この先をお読みになって戴きたい。何か得るものもあるかもしれない。
しかし、そういうライトノベルに興味は無い。読んだ人間をあっと言わせる新機軸満載の、誰も書かなかった、一番新しいライトノベルを書きたい。とお考えの方は、お読みになってもあまり意味は無いと思うので、あらかじめ念を押しておく【笑
と言うわけで本題に入る。前置きが長いのは年寄りのクセである、お許し願いたい。
まず「読者の期待を裏切るな、予想を裏切れ」という言葉の意味を解説しよう。
読者はタイトルやイラストからその本の内容を期待し、予想する。
「期待」というのは、読者が読みたいと望むものを言う。いわば読者の願望である。
この期待、願望を裏切ると「面白くない」と言われることになる。
表紙にカワイイミニスカ制服姿の女子高生が描かれていて、タイトルが「生徒会長は僕たちを今日も寝かさない」みたいな小説があれば、それを手に取る読者が期待するのはどんな物語だろうか?
天然ボケの巨乳の美人生徒会長が、一生懸命頑張るけども、あっちでポロリ、こっちでチラリで、それをフォローしようとする主人公が奮戦するお色気ラブコメ。
あたりを期待し、望むであろうことは間違いない。
地殻変動によって地震が頻発し、富士山が噴火して経済大国としてのインフラや技術。そのすべてを失った近未来の日本に生きる若者の唯一の雇用先は傭兵として海外に行くことだけだった。日本の高校生たちは、傭兵となるべく軍事訓練に明け暮れていた。
その日、教官はそっと生徒会長に告げた。
「明朝五時、薄暮時に最終訓練が行われる。今夜は早く寝て、明日に備えておけ」
そして、生徒会長は、生徒たちを集めた。
「教官から情報のリークがありました。明朝薄暮時に訓練が行われるそうです……この意味がわかりますか? そうです。つまり、訓練は今夜、我々が寝静まったその時に始まるでしょう! 総員、完全装備で戦闘靴着用のままベッドに入りなさい!」
……なんて物語を期待しているはずがない【笑
もし、こういう物語を読まされれば、大概の読者は怒る。期待を裏切られたからである。
中には「こっちの方が面白い」と言う人がいるかもしれないが、そういう人は、おそらく少数派である【笑
ここまで外さなくとも、読者は、自分が望む展開と結末がそこに無ければ、読むのをやめるだろう。
アマゾンの書評を見ると「自分の思ったとおりに物語が進まない」ことが低評価の最大の理由であることが良くわかる。
さて、その「読者の期待、願望」という要素を一言で言えば「王道」と言う言葉にたどり着くだろう。
王道という言葉のせいで、なんとなく物語の道筋と理解している人が多いが、道筋と言うよりも「見せ場」と言ったほうがいいと私は思う。
読者が期待するものを見せる見せ場が存在する物語がいわゆる王道の物語である。
「読者の期待を裏切るな」というのは、読者が見たがっている見せ場をちゃんと書け。ということである。これはセオリー中のセオリーで、改めて書く必要も無いことだが、この「読者の期待に沿う」ということを、勘違いする人が多いので、ここで述べておく。
次の「読者の予想を裏切れ」という、この「予想」とは、いわゆる「展開」であり「流れ」のことである。
この「展開」や「流れ」は、何で構成されているかと言うと「セリフ」と「描写」である。 主人公の前にツンデレな少女がやってきた、とする。
ここで、多くの読者は、ツンデレっぷりを期待する。ツンデレな見せ場を望んでいる。
ならば、ここでツンデレな会話を書く事は何の問題もないように思える。
それは読者の期待に沿うことだからだ。
問題は、そのときに、読者の脳内にはすでに予想された「ツンデレっぷり」が存在するということである。
読者が過去に読んできた、同じようなシチュエーション、同じようなキャラが、口にしてきた同じようなセリフと、同じような表情を描写した文章。
これが「読者の予想」である。
もしここで、読者が思い浮かべたのとほとんど変わらない。もしくは、全く同じセリフを書いたとしよう。
果たして、読者はそれを面白いと思うだろうか?
読者はツンデレなシーン、女の子のツンデレっぷりを期待している。それを読みたいと思っている。そこでツンデレを書くのは、願望と期待に応える行為である。
だが、それを描き出すときに、読者の予想範囲の「会話のやり取り」や「表情や、しぐさの描写」でそれを書いたのでは、読者は喜ばないのである。
読者の期待に応え、見せ場を書くときに、それを読者の予想のナナメ上にする。
読者の予想していない新しい「ツンデレなセリフ回し」があれば、どんなにシチュエーションや設定に手垢が付いていても、それは新鮮に受け取ってもらえるのだ。
この「読者の予想のナナメ上」を行くためには、読者の記憶にあるパターンのどれとも違うものを思いつかねばならない。
言うのは簡単だが、やれと言われて簡単にやれるものではない。だが、作家とはそれをやる。思いつくことが仕事なのである。
手前味噌で恐縮だが「多勢に無勢で大軍に取り囲まれた主人公たちが、一握りの仲間たちと、その敵の重圧を撥ね退けて、活路を見出す」という王道の展開がある。
映画で言えば、古くは西部劇の「アラモ」や「ズールー戦争」新しくは「指輪物語」に至るまで、列挙すればタイトルで埋まってしまうほど、描き尽くされたシチュエーションである。
だが、このシチュエーションは今でも「読者の期待する見せ場」を描き出すには最適な展開であり、私はこの展開を使うのが大好きである。
なぜ、これが好きなのか。答えは簡単である、この展開は「期待を裏切らず予想を裏切る」には持って来いなのだ。
「主人公が少数の仲間と共に大軍と戦って、切り抜ける」というのは「読者の期待、願望」である。
そしてそのために、どんな手段を使うか。ここが、読者との知恵比べである【笑
条件を簡単にすれば、いくらでも方法がある。しかし作者に有利であるということは、読者の予想にも有利である。ということである。
条件を厳しくすればするほど、読者は、知識や記憶の中から引っ張り出してきた解決策では太刀打ちできなくなる。
そして「こんなの無理だ」と思ってくれれば、こっちのものである。
そう思ったところに、何か一つ解決策を示すことができれば、読者は「その手があったか」と思ってくれるのだ。
楽ではない。しかし、考え考え抜いて、思いつくからこそ、読者は面白がってくれるのだと思う。
「ご主人様は山猫姫」と言うタイトルで、山猫みたいなお姫さまと、主人公のイチャイチャを期待した読者を裏切ることなく、ちゃんとイチャイチャを書き。それと同時に、それを期待した人の予想を裏切る展開を書くことで、山猫姫は売れているのだと思う。
電撃大賞へ応募を考えている作家志望者の方は、ご自分の書いた物語を、もう一度読み直していただきたい。
あなたの物語は、読者の期待に応えているだろうか?
そして、その期待に応えるための会話や、描写は、読者の予想のナナメ上にあるだろうか?
期待に応えないことで、読者の期待を外し、会話や描写をどこかで見たものから持ってきて、読者の予想通りにしてはいないだろうか?
エンタティメントとしての小説は「読者」を楽しませるために存在する。
それを忘れないで欲しいと願う。
2012-03-24 01:10