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スキルの蓄積とは

昨日の記事で、さらっと流した「蓄積」という言葉について、少し補足しておこうと思う。

私は昨日の記事の中で「蓄積がない」と書いたが、それを「経験値」と言い換えたほうが良かったかもしれない。
実写、アニメに関わらず、映像関係の表現方法には「見せ方」というものがある。

「見せ方」というのは、描き出したい事象をどう映像にするのか、そのカメラアングルや、絵の動かし方の総称であり、アニメで言うところの演出の方が担当する部分でもある。

 この作業は、言わば映像化する際の肝の部分であり、文章で書かれたシナリオを、絵にするというのは、誰にでもできるわけではない。それには特別な才能を必要とするのだ。

 カメラを引くのか,寄るのか、俯瞰で描くのか、ローアングルで迫力を出すのか。
 それは、その物語をどう描くのか、という意志によって決まり、技巧によって成立する。
 そして、その技巧は、経験によって積み重なって行く。

 時代劇を例に取って説明するとわかりやすいかもしれない。かつて「東映時代劇」と呼ばれた一ジャンルがあった。
 時代劇映画は戦前戦後を通じて人気ジャンルであり、数えきれないほどの時代劇が製作され、コメディタッチからシリアスな作品まで、様々な技法が凝らされ、一種の様式美と言っても良いほどの類型パターンが作られた。
 
 例えば、時代劇で「果たし合い」を描くとする。
 演出家の脳内には、過去の時代劇で「果たし合い」が、どう描かれてきたのか、という蓄積がある。
 全く何もない所からひねり出すのではなく、過去の作例をたたき台にして、その上に自分なりの描き方を乗せることができる、ということのメリットは大きい。
 何よりも、脳内のコストが違う。
 過去に誰も映像化しなかった概念を、新しく映像として創り出せ、と言われたら、必死に考え、試行錯誤を繰り返し、それでも、作れるかどうかわからない。その不安と重圧に比べれば、過去の作品という名前の下敷きがあるというのは、本当に楽である。

 過去に経験の無い所から、何かを創り出せと言われても簡単に作れるものではない。
 
 余談であるが、スタンリー・キューブリックが映画「2001年宇宙の旅」を撮影する前に、生物学者を集めて
「過去に地球上に存在した生物の特徴を持たない、全く新しい生物のビジュアルを考えてくれ」と頼んだが、誰ひとりとしてその生物を思いつけなかった。という話がある。

 この話の出典は明らかではないし、私の思い違いかもしれないので、このエピソードの信憑性は無いが。このエピソードがそれなりの説得力を持っているのは、人間の発想は過去に得た知識の蓄積の中からしか生まれない。という真理を表しているからではないか、と私は考える。

 そして話は昨日の記事に戻る。

 ロボットやモビルスーツを、どう動かせばカッコイイのか、どう描けば見ている人間の琴線をくすぐるのか、という蓄積はある。
 同じように女の子を、どう動かせば可愛いのか、どう描けば見ている人間の琴線をくすぐるのか、という蓄積もある。

 しかし、「合戦をどう描くか」に関しては、その蓄積がないのだ。
 誰も、そんなシチュエーションを描こうとしてこなかったし、描く必要もなかったのだ。だから、描こうとしても方法論も技法も確立していない。もし、苦心惨憺して映像化したとしても、果たして売れるかどうかもわからない。今の映像業界で、そんなリスクを負う人間はいないだろう。

 以上、証明終わり。(笑

 というわけで、私は高望みをせずに、自分のできることをできる範囲で続けていこうと思っている。
 脳内妄想を他人に読んでもらえることは、光栄の至りなのだから。


「合戦」を描くということ。

「宇宙軍士官学校・10」が発売されて5日ほど過ぎた。31日には電子書籍版も配信されるらしい。
ツィッターなどで感想を検索すると、そこそこ評判も良さそうなので少し安心した。

 そこそこ評判もよく、ドカン、とまでは行かないが、そこそこ売れているとはいえ、あいも変わらずメディアミックスとは無縁であり、中堅と言えば聞こえはいいが、いわゆる「知る人ぞ知る」レベルの作家業である。
 まあ、人間何よりも大切なのは「身の程を知る」ことであり、現状に不満を抱いても、それが自分の努力ではどうにもならないのなら、下手な望みは持たない方がいいのである。

 メディアミックス、特にアニメについては、業界に結構知り合いがいるので、色々話をすることもあるのだが、今のアニメの制作側からの視点で自分の作品を見れば、これほど「美味しくない」コンテンツは、珍しい。

 まず「ネームバリュー」が無い。作家もそうだが、作品に客を惹きつけるものがない。
 二次創作で盛り上がる気配もなければ、熱狂的に支持してDVDを買ってくれそうなファンもいない。どう見ても投下した資本を回収できそうにない。

 また、コンテンツの内容も、作画や演出に苦労しそうな大軍勢の合戦とか、大艦隊とか、動かすのに手間のかかるものばかり出てくる。
 メカならCGでなんとかなるとしても、山猫姫のような人間同士の合戦シーンを描くには、絵を描く側にそれなりの蓄積が必要だが、それなりの腕のある原画家や作画監督を使うには、マイナーすぎて、資本を投下するにはリスクが大きすぎる。
「合戦シーン」をどう描くか。というのは、アニメで言うところの「コンテを切る」部分である。
 
私が「合戦シーン」のコンテの完成形を見たのは、マンガ版「風の谷のナウシカ」の帝国軍の騎兵隊が立て籠もった城塞を土鬼(ドルク)の大部隊が攻城砲を並べて包囲している中を、クシャナ率いる騎兵隊が敵中突破して攻城砲を破壊するエピソードのコマ割である

 あの一冊は、なんというか、こう、鬼気迫るものがある。宮崎さんが本当にやりたかったことは、あの合戦シーンではなかったのか。と思わせる力の入れ方である。

 もし私が一夜にして大金持ちになったら、その金をつぎ込んで、あのエピソードだけをアニメにしたいと、本心から思う。
 
「合戦シーン」というのは、長い間、実写映画の世界で描かれてきた。特に、国家予算をつぎ込んで作られたソビエト映画の合戦シーンは、人的資源を無尽蔵につぎ込んで作られており、「戦争と平和」のナポレオン戦争に至ってはエキストラだけで数万人という規模である。

 実を言うと、ナウシカの土鬼との合戦シーンは、ソビエト映画の「イワン雷帝」のイメージが強く出ているように思える。おそらく、ナウシカを描いた時の宮崎氏の脳内に、あったイメージの根源の一つであろうと推察する。

 CGが発達し、無数の人間の集団を自由に動かせる時代となった今こそ、単なる「モブ」ではない、意志を持った軍勢として描き出した物語が見たいと思う。

 私の脳内にしか存在しない「合戦シーン」
 その迫力、その面白さを他人に伝える手段を、私は持っていない。映像を作る技術も人を雇う資本もない。
 私にできることは、それを文章で描き出し、「小説」として渡すことだけなのだ。

 小説というメデイアは、映像などのメディアに比べれば地味で、多くの人々に受け入れられるものではない。しかし、映像では描ききれない、もしくは描くには膨大な資本を必要とする題材。たとえばひとつの国家の興隆と滅亡、ひいては地球の滅亡まで、ほとんど資本の投下なしに描けるメディアである。

 そう考えると、メディアミックスの余地が無い私のコンテンツは、小説に特化しているだけなのかもしれない。

 

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