SSブログ

「すげえ!」と思った経験が、作家の軸になる。

 人間が、作家を志す。その動機はなんだろうか?
 私の場合は「すげえ!」という経験である。

 小説を読んで、マンガを読んで、映画を見て、そして「すげえ!」と圧倒された経験。
 その前に、完全に圧倒され、ひれ伏した経験。

 この経験、体験が、私を作家に導いてくれたのだと思う。

 この「圧倒された経験」があればこそ、それにあこがれるにしろ、それに反発するにしろ、それは自分の軸になる。

 もし、この「すげえ!」という感覚が無かったなら。
 単に「あ、面白い」程度の感慨しか抱かなかったとしたら。

 私はおそらく作家になることは無かっただろうと思う。

 ハインライン、小松左京、筒井康隆、桂米朝、佐藤さとる、横溝正史、アリステア・マクリーン、ウンベルト・エーコ、京極夏彦、みなもと太郎、聖悠紀、川原泉、エラリークィーン、D・J・シマック、E・E・スミス……列記すればきりが無い。
 私は小学生の頃から、こういった先達の送り出した作品を読んで「すげえ!」「すげえ!」と言い続けてきた。

 本屋行って「レンズマン」読んで「すげえ!」「デビルマン」読んで「すげえ!」映画館行って「2001年」見て「すげえ!」「海のトリトン」見て「すげえ!」

 これが私の中学生時代の記憶である【笑

 これらの創作物が私の目標であり、私の軸になっている。
 小説を書いていて不安になったとき。これでいいのだろうか? これは本当に面白いと思ってもらえるのだろうか? と不安になったとき。

 私が過去に「すげえ!」と思った作品が私の軸になってくれた。
 私の書くものが、ぶれずに済んでいるのは、こういった、過去に私が心酔した作品のおかげである。

 どんな風に書けばいいのだろう?
 何を書けばいいのだろう?
 
 そういった不安を抱いた時、常に、私の前に、過去の先達がお書きになった「すげえ」作品群が、道を照らしてくれたのだ。

 「ここに来い」……と。

それは目標であり、道標であり、かがり火であり、そして私が迷走しないための碇であった。
 
「面白い作品」「好きな作品」では、この役目はできない。
そういった作品は軽いのだ。目標にはなるだろう、でも軸にはならない。碇にもならない。

 作品に圧倒された経験。これが無い人には、私が何を言っているのか理解できないかもしれない。
 今までに読んできたどの作品に対しても「俺には書けない、かなわない」と思ったことが無い人には、この感覚は理解できないだろう。
 
 私は、そういう「すげえ」作品たちに近づこうと思ってきた。
 追い抜かすことなんかできっこない。でもせめて、その背中が見えるところまで近づきたいと思ってきた。

 作家になって13年。追いつくどころか、ドンドン離されて。周回遅れでヒイハアぜいぜい言いながら走っている最中である【笑

 話は代わるが、世間はもうすぐ師走。忘年会シーズンである。
 会社勤めの方は、職場で、学生の方はサークルなどで、上司や、諸先輩方と宴席に出ることもあるだろう。

 そういうときに、可愛がられる方法をお教えしよう。
 実に簡単である。
 
「上司(先輩)の仕事振りを見て、真似しようと思います。上司(先輩)は僕の手本です」

 と言えばいいのである。【笑

 人間何が嬉しいと言って、自分が誰かの先達になれることほど嬉しいことは無いのだ。
 そう言ってくれた後輩を、憎む馬鹿はいない。
 たとえ、一ミリでも尊敬できる部分があるなら、そこを拡大して、手本にすればいいのだ。
 まったく手本にする気がない。尊敬するところが無いのなら、まあ仕方が無い。近づかないに限る【笑

 新人作家さんは、諸先輩方の「デビュー作」を暗記しておくといい。
 その作家さんの前に行って
「私は○○先生の△△【デビュー作のタイトル】を読んで「すげえ!」と思って、作家になろうと思いました」と言うのだ。
 きっと可愛がってもらえるはずである【笑

 さて、宇宙軍士官学校について、早くも色々ご感想を戴いた。

「たった15年で世界がこんなに変わるわけが無い、ご都合主義だ」とおっしゃる方もいる。
 そういう方は、明治元年から、明治15年までの間に、日本という国に起きた、テクノロジーの激変と、それに伴う文化や常識の変化をお調べになって欲しい。
 
 ちょんまげと刀、籠と飛脚、移動手段は徒歩だった時代の人々の距離感や認識が、十五年でどれほど変わったか、もし、その時代に生きていれば、それは想像を絶するものだったはずだ。
 五年で鉄道が開通し、日本全国に郵便が届き、籠は人力車に変わり、明治二十二年には東海道線が全通して、東京から神戸まで20時間5分で行けるようになる。
 東海道五十三次を歩いて、江戸から京都まで二週間を要していた時代から、わずか20年で、一日以内でその距離を移動出来るようになったのである。
 
「宇宙軍士官学校」の世界の人類は「文明開化」の真っ只中にいる日本人なのである。
 このことは一巻にも書いてあるのだが、文明開化の知識はあっても、それが人々をどう変えたのか、についてまで考えられる人は少ないのかもしれない。

 作中に「ガンダム」などの単語が出てくることに違和感を覚える方も結構いるようだ。
「宇宙軍士官学校」の作品世界は、はるかな未来でも、この世界とは異なる進化を遂げた異世界の話でもない。
 この、今、我々が暮らしている、この現実世界と地続きの世界である。

 今、この文章をお読みになっている、その瞬間に異星人が訪れた、その十五年後の世界である。
 当然ガンダムは存在するし、エヴァンゲリオンは劇場版が公開されているし、スカイツリーは建っているし、「きのこの山」と「たけのこの里」は抗争を続けているのである。【笑

 作品世界が、現実から遊離していないと納得できない方には、申し訳ないが、これは私の書くものに共通する描き方である。
 
「でたまか」のような、まったく切り離された世界観のスペオペにするには、少々重いテーマを扱うので、その重さを支えるには、現実の枠組みが必要だと考えたわけである。
 ご了承願いたい。

  
 


 



 
 


 

「宇宙軍士官学校」について、色々考えていること。

 本日、11月22日は早川書房から「宇宙軍士官学校」の二巻が発売される日である。

 二巻の書き方は、一巻の書き方と、さほど変わっていない。
 わかりやすく、読みやすく、展開がサクサクと進む。
 
 しかし、内容はちょっとハードになって来ている。
 描かれている内容はハードだが、書き方が軽いので、さほど読者の負担にはならないと思う。

 小説の印象は「語り口」で、かなり左右される。
 わかりやすく読みやすく書くと、結構重い内容も、するっと読んでもらえるのだ。

 私は、今の読者の方にとって、一番重要なのは、この「読み手にストレスを与えない」と言う書き方ではないかと思う。

 内容を深く読もうと思えばいくらでも読める。そういう内容の情報をしっかり持っている物語を、さらりと読ませる。

 これが、私の考える「エンタティメント」である。

 しっかりとした設定とバックグラウンドを持った世界観の話を、しっかりと書くのは、スタンダードな書き方である。

 私はその「書き方」の部分にジュヴナイルの手法を使っている。
 ジュヴナイルとライトノベルの違いは何か。それは、キャラクターの描き方だと思う。

 ジュヴナイルは、作品世界とキャラクターが独立している。平行して描かれる。
 ライトノベルは、キャラクターと作品世界は同一である。世界はキャラクターに付随するものとして描かれる。

 宇宙軍士官学校は、キャラクターを、ほとんど描写していない。女の子も出てくるが、物語を動かす脇役の位置に留まっている。

 唯一主人公に影響を与えるキャラとして描かれているのは、電子人格の「ロボ」だけである。【笑

 私は、宇宙軍士官学校で「展開」を書こうと思っている。
 キャラクターに対する興味で物語を引っ張っていくのではなく、キャラクターの直面する事件に、どう対処するのか、というその思考や方法に対する興味で、物語を引っ張っていけたら、と思っている。
 この点で、一般的なライトノベルとは大きく違う。

 果たして、こういう書き方が、受け入れてもらえるかどうか、おっかなびっくりで一巻を出したのだが、おかげさまで、増刷される程度には売れてくれた。

 そしてこうして何とか二巻も出すことができた。
 
 構想では全五巻くらいでまとめるつもりなので、この後に続く巻も楽しみにしていて欲しい。
 もっとも、売れなければ、その時点で終了であるが。【苦笑



 
 


ブログ更新ついでに広告も更新。

 ツィッターで、私のサイトの「著作紹介に、「宇宙軍士官学校」も「山猫姫9・10」も掲載されていないのですがどうしてですか?」というご質問を受けた。

 理由は、忙しくてめんどくさいから。である【苦笑

 そもそも、ブログ本文からして二ヶ月放置なのだからして、中の記事や広告バナーが更新できるわけが無い。

「雑家屋鷹見商店」のサイトは、実は友人に依頼して作ってもらっている。その友人もまた忙しくなってしまい、こまめな更新ができなくなったので、こうやって日記分だけをブログにしたわけである。

 そしてまたブログも放置。ということではいけないので、なんとか更新したついでに、このブログの左右のバナーも更新してみた。

 左は「最新刊」右は「電子書籍」である。

 最新刊は11月22日発売予定の「宇宙軍士官学校・2」と現段階の山猫姫の最新刊である「山猫姫10」である。

 電子書籍は、現在キンドルでも発害している「でたまか第一部・三冊」である。
 
 実を言うとこれ以外にも電撃文庫の「ガンズ・ハート」も電子書籍化されているのだが、それは角川書店の電子書籍であり、アマゾンで購入はできない。

 こういったアフリエィトをブログに掲載し、収入を得ているという人の話をよく聞くが、私のこのブログの場合、今年一月から現在までの間のアフリエィト収入は1000円ちょっとである【笑

 更新もせずに二ヶ月放置するような人間では、アフリエィトのバナーを押して物を買うようなお客さんが来るわけが無い。

 流行を追いかけ、もしくは便利な品物、役に立つ品物を見つけ出し、こまめに更新して、お客さんを逃がさない、そういう努力をしてはじめて、対価が生じるわけである。

 ネットもリアルもその辺の理屈は同じである。


「宇宙軍士官学校」の2巻が22日に発売されます。

 二ヶ月放置していたブログの更新である。

 ブログと言うのは、いわゆる日記のようなものだが、これでは「日記」ではなく「月報」。 下手をすると「季報」になってしまうかもしれない。【苦笑

 なんで書かないのかというと、私の中にある執筆用のリソースが振り向けられないからである。

 人間の余裕と言うのは、可変である。いつも一定の余裕を保てる人間はそういない。どんなにキャパシティのある人間でも、するべきこと、考えるべきことが多くなれば、余裕はどんどん少なくなっていく。

 何をするか、と言う優先順位をつけて、その順番にリソースを使っていくわけだが、私の場合「ブログを更新する」というのは、かなり後の方に位置する。
 最優先は、当然「家族と自分のこと」であり、次が「仕事」である。

 私が若くて独身なら、この家族の部分に「彼女」とか「恋愛」とかが来るのだろうが、来年1月に55歳になるオヤジには、そういう部分は縁が無い【笑

 そして、家族と言っても長男はもう就職して自活しているし、次男も今年の春に金沢の大学に行って、向こうで一人暮らしをしているので、実質的に手が離れたようなものである。
 となれば、優先すべきは仕事である。

 私は現在電撃文庫から「ご主人様は山猫姫」。早川書房から「宇宙軍士官学校」の二つのシリーズを刊行している。
 この二社以外にも、角川つばさ文庫と角川スニーカー文庫、の二つのレーベルとも付き合いがある。
 
 角川スニーカーは電撃文庫でデビューする少し前に「でたまか」で拾って戴いた縁があり、電撃文庫と同じくらいの長い付き合いであるが、ここしばらく本を出していない。
 新シリーズを立ち上げる、ということで、色々プロットを立てたのだが、どうにも要求されるものをクリアできない。
 「属性」とか「要素」というものを要求されても、私の書くものは、そういうものと縁が無いのである。
 
 なんと言えばいいのか、良い言葉が見つからないが。簡単に言ってしまえば、私は書きたいものしか書けないのである【笑

 「メガネ」だとか「委員長」だとか「幼馴染」と言う属性を要求されても、それが、私にとって面白ければ書くが、面白くない、関心が無い場合は、書けないのである。
 
 作劇の用語に「マクガフィン」という言葉がある。
 これはアルフレッド・ヒッチコックが用いた言葉で、意味は、物語が動く際に、そのきっかけとなる品物。という意味である。
 たとえば、怪盗が「宝物」を狙っている。という物語だとすれば、その物語のメインは「宝物」を巡る攻防を描くことであり、その「宝物」は美術品でもいいし、宝石でもいいし、絵画でもいいわけである。
 品物のサイズや重さによって、トリックや、逃走方法に多少の違いは出るにしろ、物語が描くのは「その品物がなんであるか」ではなく「その品物を巡ってキャラクターがどう動くか」である。
 
 ライトノベルの多くは、この「品物」の方を重要視する。
 つまり「空から女の子が降ってきた物語」をライトノベルで描くとすれば、最も重要なのは「なぜ落ちてきたのか」と言う理由ではない。「どんな女の子が落ちてきたのか」であり「落ちてきた女の子と主人公との関係性の推移」である。
 空から女の子が落ちてきたことで事件が起こり、巻き込まれるとしても、その事件の中で描かれるのは女の子との関係性だけである。
 なぜなら読者の多くは、落ちてくる理由には興味がないのだ。興味の対象は「どんな女の子」なのか、なのだ。
 だから、女の子に関しては詳細な設定がある。髪の色、眼の色、容姿、バストサイズ、そして、ぱんつの色【笑

 だから「ラノベは絵で売る」のである。
 そういうマーケティングのほうが、メディアミックスには向いているのである。書いていない、というか考えていない部分を、マンガやアニメで埋めることができるのである。
 ライトノベルの多くが「ボーイ・ミーツ・ガール(女の子ちょっとワケあり)」なのだから、それはまあ当然のことである。

 だが、私が書くとすれば、私が書きたいと思うのは「なぜ女の子が落ちてきたのか」と言う理由であり「落ちてきた女の子によって、個人だけでなく社会がどう動くか」かである。それが書きたいのだ。
 私は「落ちてきた女の子」には、はっきり言ってあまり重点を置かないだろう。
 
 私の書く物語は、デビュー作の「時空のクロス・ロード」から今まで、全部、主人公がいなくても物語を続けていける構造になっている。
 私は主人公やキャラクターを使って物語世界を描き出しているだけなのだ。
 キャラを描くことで、同時に世界を描いているわけで、キャラクターと言うのは絵筆に過ぎないのである。
 極端な話、もし、物語の途中で主人公が死んでも、物語は続いていくだろう。
 キャラクターと世界は、同じ場所に存在しているが別々のものであり、キャラクターは世界を構成する要素でしかないのだ。

 つまり、もし、私が「女の子が空から落ちてきた話」のプロットを書くとすれば、その大部分を占めるのは、落ちてきた理由であり。その理由に関連して、追われるようになった女の子を助けて、活躍する主人公。という「物語の展開」である。
 女の子も、主人公も、私が求めているキャラクター性は「読者に嫌われない」程度でしかない。
 スニーカーの編集部が欲しがっているプロットとは。おそらくまったく違うものだったはずだ。編集さんも困ったに違いない。

 ライトノベルで要求されるのは、ビジュアルである。
 メディアミックスし、より多くの読者、顧客を獲得し、映像展開を進め、キャラクターグッズやDVDを売ることで利益を拡大する。
 これが今のライトノベルのビジネスモデルである。

 だが、私にはそれは無理なのだ。私が書きたいものは、そういう展開に合致するものではない。、
 そういうビジネスモデルに合致するものを要求されても、私には書けないのだ。

「面白い小説」は書ける、書く自信はある。しかし「アニメ化されてどかんと売れる小説」は無理である。私に書けるのは「面白くてそこそこ売れる小説」なのだ【笑
 
 というわけで、現在スニーカー文庫の新シリーズを書いている。
 かくして、、3つのレーベルで、3つのシリーズを同時進行することになった。

 これが、ブログの更新ができなかった理由である【笑

 さて、タイトルの「宇宙軍士官学校2」であるが、11月22日に発売予定である。
 「ただのライトノベルだ」というご感想をいくつも戴いたが、ライトノベル的な書き方をしているが 実はライトノベルではない。
 なぜなら、キャラクターを完全に抑えて書いているからである。

 私が書きたかったのは、物語の展開である。キャラクターではない。
 物語の展開さえ面白ければ、キャラクターのビジュアルが皆無でも、読者は楽しく読めるはずだ。
 私はそう考えて「宇宙軍士官学校」を書いた。
 記述や描写がわかりやすく、物語の見通しがいいのは、ライトノベルとジュヴナイルの技法である。
 なぜ、この技法を使ったのかというと、これによって、読み手のストレスを軽減し、物語の筋を追う、展開を追う楽しさ、面白さを味わって戴きたかったからである。

 宇宙軍士官学校はSFではないかもしれない。でも、面白ければ無問題だと、私は思っている。【笑 
 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。