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自分の面白いを信じるということ

先日、ツィッターで

「作家志望者の方が「年齢」を理由にライトノベルの大賞に応募するのをやめた。と言うつぶやきをするのを、複雑な思いで読んでいる。そういう方は、52歳の私が、なぜ山猫姫を電撃文庫で書き続けられているのか考えて見て欲しい。問題は年齢ではない、自分の「面白い」を信じられるかどうかだと思う」
と言うツィートをしたら
たくさんの人がフォローしたりリプライを返してくれた。

「年齢じゃない、自分の面白いを信じられるかどうかだ」と言うのは、言い換えると、
作家になれるかどうか、作家を続けられるかどうかの条件に「年齢」は入っていない。
もっと重要なものが必要で、それが無い人間はいくら頑張っても無理だ。と言う意味でもある。

 その「必要なこと」と言うのは年齢とは関係ないという意味なのである。

 必要なことは「自分の「面白い」は疑わず、自分の「面白い」が伝わっているかどうかを疑う」ということである。
 それができれば、プロへの道は開ける。

「面白い」が伝わっているかどうかを、疑えないと。「面白い」を疑ってしまう。
自分の書いたものを読んで「コレは、面白くないんじゃないか?」と考えてしまえば、書くことを続けられなくなる。

 作家志望者で、一次落ち二次落ちの方と話をしたことが何度もあるが、自分は面白さを伝えられなかったのではないか? と疑う人はほとんどいない、不思議なことに、ほとんどの人が「自分の書いたものは面白くなかった」と思い込んでいる。

 ほとんどの人は、自分はちゃんと書いている。伝わっている。と無条件に信じ込んでいる。 書けば書いたことになる。と思っているのだ。

「ちゃんと言った」「ちゃんと書いた」それが伝わらない、ことがわからない。
 だから理由を考えようとしない。

 面白いことに、普通に頭がいい人なのに、なぜか「他人の思考をトレースできない」人は多い。
 大概の人は、相手を責めるのだ。
「これは受け取れないのはおかしい」「これが読みとれないのは馬鹿だ」
 実際に読み取れない人もいるので、一概に間違っているとは言えないのだが、ほとんどの場合、責任は書いた人間にある。

 では、どうすればいいのか。自分の伝わらなさを知るにはどんな方法があるのか。
 答えは簡単「サンプリング」である。

他人の思考のトレースは難しい。そう簡単にできるものではない。
 だが、世の中にはそれを先天的にやれる人もごくわずかだが存在する。
 伝わる文章を最初から書けてしまう天才タイプの人間である。

 作家の中にはそういう先天的なタイプと、自分なりに「どうやれば伝わるのだろう?」と考えて反復して何度も書いて、経験値を積んで、伝わる文章が書けるようになった人間の二種類がいる。

 私は、自分が作家になる前は、作家はみんな「先天的タイプ」だと思っていた。だが、実際に作家になってみると、ほとんどの人は「後天的タイプ」であった。

話を「サンプリング」に戻そう。

 作家志望者の方と話をして思うのは、なぜ、ほとんどの人は、書いた小説を他人に読ませようとしないのか。という点である。

 友人知人、後輩先輩、親でも兄弟でも構わない。自分以外の人間に読ませて、面白さが伝わっているかどうかを確認したかと聞くと、ほとんどの人が「NO」と答える。

 理由はと聞くと「恥ずかしい」となんとか答える人がほとんどだ。

 ふざけるな。である【笑

 他人に見せるのが恥ずかしいシロモノを出版社に送りつけるのか。
 他人に読ませるのが嫌なシロモノで、お金を貰うつもりなのか。

 あなたが書いたものを読むのは他人だ。他人が読めるかどうか、確かめもしないものを、勝手に「読めるだろう、伝わるだろう」と自分で決めつけて、それで「一次落ちだ」「二次落ちだ」と嘆いているだけではないか。

 エンタティメント小説とは自分のために書くのではない、読んだ人間を楽しませるために書くものであり、それができて初めて読んだ人はお金を払ってくれる。

 書いたら読ませるのだ。誰でもいい、とにかく多くの人に読んでもらうのだ。
 二十人に読ませて、三人以上が「なんでこれ、こうなるの?」と聞いたら、伝わっていないのだ。それは自分の責任なのだ。認めるしかないのだ。
「馬鹿には読めない」「他人にはわからない」とかなんとか理由を読み手に転嫁して自分のプライドを守ることの愚かさを知るべきなのだ。

 他人のアドバイスと、読めねえ、という反応は素直に聞くのだ。
 この「素直に聞く」と言うのが、一番重要な要素のような気がする【笑

 
 一方で、読ませると「それなりに面白い」と言う反応が返ってくるが、応募すると反応はもうひとつ。といういわゆるプロとアマのボーダーライン上にいる人の中には 逆に「考えすぎる」人たちがいる。

 自分の面白いが伝わっているかどうか、について悩みすぎてしまう人である。

 文章や単語というのは、読者によって「どうとでも取られる」可能性がある。そこを考えすぎて、なんとかして伝えようと努力しすぎて、文章が、むちゃくちゃくどくどしくなってしまって「だめだこりゃ!」になってしまうような人たちである。

 考えることは大切だが、考えすぎてもダメなのだ。
 ここは実に微妙なバランスで成り立っており、いわばこの塩梅を自分なりに見極めることができるかどうかが、その人をプロにするようなところがある。

 考えすぎると足が止まる。そこを「俺が面白いからいいのだ」で自分を信じて突き進むことができないと書けなくなるのである。
 突き進んでダメでも「もう一度」。
 これができるかどうか。そのバイタリティというか、めげない強さみたいなのが無いと難しい。
 その、めげない原動力になるのが「こういう話を書きたい」だと思うのだ。

 それが無い人は、ここでダメになる。
「上手くいくはず」「できるはず」で、止まってしまう。
「上手くいくはず」「できるはず」でもダメだった。となったときに「でも頑張る、もう一度チャレンジ、俺のあの話を面白いと言ってもらうまで」という理由が無い人は、続かない。

 人間は、理由の無い努力はできない。
 一番、大事なのは、理由である。

読者は好敵手である。

以前、私はここで「ライトノベルは仲間小説である」と書いた。
作者にとって読者は近い存在であり、それがゆえに、ライトノベルは、読者にわかりやすい、読みやすい形で書かれている。

 私の書くライトノベルも、読者にわかりやすく読みやすく書いている。
 リズムを重視し、平易な言葉づかいと、簡潔な文章で、ひっかからないように、ということに全力を傾けて書いている。

 私が書いているライトノベルが、他の人と異なる点があるとしたら、そこは私が読者を仲間だとは思っていない。という点だろう。

 私は、まず、読者を好敵手として捉えている。
 読者からは、一切の甘えや猶予を与えてもらえないものだ、と言う前提で物語を作る。

私は「敵対する相手ですら面白い、と言わざるを得ないもの」を書かなければ、私は生き残れないのだ、と思っている。

 読者に対し甘えも仲間意識もない。読者は、実に怖いお客さんであり、それ以上でもそれ以下でもない。
 読み手に対する一切の依存感情を排して、書かなければ、私は生き残れない。

「なぜこうなるのか」を書くときにそれを読者に「察してもらう」ことを前提にした文章は、私には書けない。
 
「なぜ、こうなるのか」その原因と結果を、確実に、なるべく誤読をさせないように書いて、初めて文章は意味を持つと思っている。

 この、読者に「察してもらう」ことを前提にした文章というのが、いわゆる「仲間向け」文章だと私は思う。
 そして、この「仲間向け文章」というのは、ライトノベルにだけ存在するわけではない。いわゆる「ジャンル」と呼ばれる小説には、すべてこのジャンルの「仲間」に向けて書く部分が存在する。

「察してくれ」系の文章があれば、そういう仲間になりたがる読者は「おお、こいつも同類だー、仲間だー」ということになる。

 私は、どうにもそういう文章が書けない。だから「椎出啓」氏や、「銅大」氏に援助してもらって、そういう成分をなるべく含むようにして山猫姫を書いている。

 「宇宙軍士官学校」は、設定のご協力を戴いて説明文などに銅氏のご助力を戴いているがそれ以外の本文はすべて私の文章である。

 ライトノベル的な、読みやすくわかりやすい書き方でありながら、キャラクター性を抑えた書き方はライトノベル的ではない。という一風変わった書き方になっているのは、私なりに「SFの入門者向け」に考えた書き方である。

 その昔、もう30年くらい昔のことだが「わかりやすいSFはSFじゃない」と言われたことがある。

 これはいわゆるSFマニアの冗談の一つなのだが、この言葉はいまでも私の根っこに刺さっている。

「わかりやすいSF」があってもいい。
「わかりやすいSF」でSFを読んでSFを好きになってくれる人を一人でも増やしたい。

 私はそんなことを考えながら「宇宙軍士官学校」を書いている。

「ライトノベル」は褒め言葉である。

 世の中には面白い人たちがいる。
「ライトノベル」「ラノベ」を相手の支持するコンテンツを貶すための単語だと思っている人たちである。

「まるでライトノベルだ」というのは、褒め言葉である、と思っている私から見れば、実に面白い価値観である。

ライトノベルを「貶し言葉」として使う人間は、ライトノベルを読む読者をも貶めている。
 レベルの低い人間が読むものである。と考えている。
 その言葉の根底にあるのは「選民思想」である。

 我々は選ばれた優れた人間である。
 という根拠の無い自信から、その言葉は発せられる。

 しかし、実のところ、その根底にあるのは、単なる「好き嫌い」である。

 自分が嫌いなものが売れている。
 自分が低く評価したものが、多くの人間から評価された。

 こういう事態に直面したときに、こういう人は自分が間違っているとは思わない。
 間違っているのは、俺が嫌いなものを、有難がる、多くの人々である。
 彼らは、無知な大衆なのだ。
 だから、俺の言っていることがわからないのだ。
 まったく、馬鹿どもはどうしようもない。

 こうやって、多数を否定し、貶すことで自尊心を維持する。これが「選民思想」である。

 結局のところ、エンタティメントが、合うか合わないか、は、個人の趣味嗜好であり
言い換えれば好き嫌いでしかない。

「納豆なんか、人間の食うもんじゃない、あんな、腐った豆喜ぶのは変態か馬鹿だ」

 この言葉は、笑って許せる。納豆が嫌いな人なんだなあ。という感慨しか浮かばない。
 だが、この「納豆」を「ライトノベル」とか「SF」とか「ミステリ」に置き換えると、とたんに、どこかで聞いた言い回しになる【笑

 基本的に「ライトノベル」はエンタティメントである。娯楽であり、読者を楽しませるために書かれ、そして出版されている。

 エンタティメントにとって、正しい姿、目指すべきものは「より多くの客を獲得すること」であり、それ以外の目的は無い。

 笑いも感動も、読者に思考させ発見させ、知識を与えるのも、そのすべては、より多くの客を獲得するためにある。
 
 より多くの読者に面白さを与えるために、伝えるために作家は日々努力しているわけである。
 
 出版社は営利企業であり、商業出版は利益を生み出すために行われている。慈善事業でも採算度外視の同人活動でもない。
 商業出版の目的も、また「より多くの客を獲得すること」であり、編集さんは、そのために毎日作家を叱咤激励しているわけである。

 これを踏まえて「ライトノベル」を見れば。ライトノベルこそ、エンタティメントの正道であると言わざるを得ない。

 より多くの読者を獲得するために、文章は平易に、イラストを多用し、キャラクターの行動を前面に押し出し、少しでも面白くするために、手を買え品を買え、多くの作家が切磋琢磨している。
 
 そして何よりも、多くの読者に支持されている。
 ライトノベルは、多くの読者が、そこに価値を見出し、お金を払って読みたい、と思わせるコンテンツなのである。

 ライトノベルは褒め言葉である。


※追記(8月24日)

 なぜか知らないが、このブログが拡散されているようなので、追記をしておく。

「好き嫌い」は個人の基準である。

 という「常識」は書かなくてもわかると思うのだが、世の中にはそれすらわからない人がいるらしい【笑

 自分の「好き嫌い」が世間一般の普遍的な基準であると思い込む人には、どうやらそれが当たり前らしい。

 納豆が死ぬほど嫌いな人は、納豆を生産しているメーカーは、その人に嫌がらせをするために、毎日大量の納豆を生産しているに違いない。と思うのかもしれないが、
 納豆メーカーの方は、別にその人に嫌がらせをするために納豆を作っているわけではない。
 納豆が好きで、毎日食べたいと思う人のために作っているわけである。

 個人の好き嫌いは自由である。
 それを主張することも自由である。

 好き嫌いを「善・悪」とか「上等・下等」に当てはめるのも別に構わない。

 ただし「その人の中でなら」である。

 こう言えばご理解いただけるだろうか【笑


 ここは私のブログであり、最初から意見の刷り合わせも何もする意思は無い。ここは私が言いたいことを一方的に書いている一方通行の場所である。
 つまり、ここに書かれている文章にはすべて【私の中では】という単語がつく。

 ライトノベルは褒め言葉である【私の中では】

 ブラウザを閉じる権利は常に閲覧者の手にあることを申し添えておく。念のため【笑 

   

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