「山猫姫10」のあとがきを書いています。
「山猫姫10」のゲラ修正とあとがきをやっている最中である。
ゲラ修正は、さすがに10年作家を続けているので、それなりにこなすことができるが、「あとがき」だけは、いまだに慣れない。
なぜ、私は「あとがき」が書けないのか、嫌なのか。その理由を考えてみると、それはやはり、私は「読者の仲間」というポジションに立てないからだと思う。
ライトノベルは仲間小説である。身内の気心の知れた仲間が、仲間に向けて書いている小説だと私は思っている。
ライトノベルの多くは「その年代の人が、その年代向けに、つまり身内に語る物語」であり意識的に向き合う必要がない。
身内に話をするときに遠慮や身構える必要は無い。
同年代の作家さんたちは、まさしく仲間内、身内に話しかけるように、自然に書ける。
あとがきも、同じように、意識しなくても、すらすらと書けるに違いない。
しかし、私とライトノベルのメイン読者層との年齢差は、まさしく親子ほども離れている。
親が子供に対し、何かを語るとすれば、それは「説教」か「昔話」である。
つまり、私の書いているライトノベルは「説教」なのだ。【笑
私の本を読んで「なんだ、こいつ、上から目線で書きやがって」と反発する人がすごく多いのは無理も無いのである。
だからと言って、これはどうしようもないのである。
生きてきた時間が違うのだ、同じモノを見ても、そこから感じるものも、経験も、価値観も、全く違うのである。
私と読者は、仲間ではない。
私が物語を書くときに考える、最初の出発点はそこである。
仲間ではないのだから、当然、私の書く物語はシビアな目で見られていることになる。
「俺たちの仲間」なら許してもらえることが、私の書くものは許してもらえない。
仲間ではない読者が「面白い」と言ってくれるものを書かねば、私は生き残れない。
ライトノベルは、私にとってホームではない。そこは常にアウェイである。
だとすると、私が書くものは、年齢や経験や知識の差に関係なく面白く読めるものでなくてはならない。
それは、いわゆる「王道」と呼ばれる筋運びであり、そこから一歩も外れることができない、ということでもある。
王道と言うのは、過去において何度も何度もそれこそ星の数ほど生まれてきた物語が通ってきた道であり、いくら頑張っても歯が立たないほどに踏み固められ、磨かれている道である。
この王道を進みたければ、ここに、さらに「自分だけの面白さ」を刻まなくてはならない。
「よくある話」だけど「面白い」というルート以外に私に歩ける道はないのである【笑
こういう書き方をする人間が、物語を離れて読者に語る言葉は、純粋な「解説」にならざるを得ない。
他のライトノベルと同じように読者の方が「仲間としての作家の言葉」を望んでいるとしても、私にはそれは無理なのだ【苦笑
というわけで、今回も作品世界の技術レベルの解説と、絵師さんと、銅氏への謝辞でお茶を濁そうと思っているが、今から気が重い【苦笑
ゲラ修正は、さすがに10年作家を続けているので、それなりにこなすことができるが、「あとがき」だけは、いまだに慣れない。
なぜ、私は「あとがき」が書けないのか、嫌なのか。その理由を考えてみると、それはやはり、私は「読者の仲間」というポジションに立てないからだと思う。
ライトノベルは仲間小説である。身内の気心の知れた仲間が、仲間に向けて書いている小説だと私は思っている。
ライトノベルの多くは「その年代の人が、その年代向けに、つまり身内に語る物語」であり意識的に向き合う必要がない。
身内に話をするときに遠慮や身構える必要は無い。
同年代の作家さんたちは、まさしく仲間内、身内に話しかけるように、自然に書ける。
あとがきも、同じように、意識しなくても、すらすらと書けるに違いない。
しかし、私とライトノベルのメイン読者層との年齢差は、まさしく親子ほども離れている。
親が子供に対し、何かを語るとすれば、それは「説教」か「昔話」である。
つまり、私の書いているライトノベルは「説教」なのだ。【笑
私の本を読んで「なんだ、こいつ、上から目線で書きやがって」と反発する人がすごく多いのは無理も無いのである。
だからと言って、これはどうしようもないのである。
生きてきた時間が違うのだ、同じモノを見ても、そこから感じるものも、経験も、価値観も、全く違うのである。
私と読者は、仲間ではない。
私が物語を書くときに考える、最初の出発点はそこである。
仲間ではないのだから、当然、私の書く物語はシビアな目で見られていることになる。
「俺たちの仲間」なら許してもらえることが、私の書くものは許してもらえない。
仲間ではない読者が「面白い」と言ってくれるものを書かねば、私は生き残れない。
ライトノベルは、私にとってホームではない。そこは常にアウェイである。
だとすると、私が書くものは、年齢や経験や知識の差に関係なく面白く読めるものでなくてはならない。
それは、いわゆる「王道」と呼ばれる筋運びであり、そこから一歩も外れることができない、ということでもある。
王道と言うのは、過去において何度も何度もそれこそ星の数ほど生まれてきた物語が通ってきた道であり、いくら頑張っても歯が立たないほどに踏み固められ、磨かれている道である。
この王道を進みたければ、ここに、さらに「自分だけの面白さ」を刻まなくてはならない。
「よくある話」だけど「面白い」というルート以外に私に歩ける道はないのである【笑
こういう書き方をする人間が、物語を離れて読者に語る言葉は、純粋な「解説」にならざるを得ない。
他のライトノベルと同じように読者の方が「仲間としての作家の言葉」を望んでいるとしても、私にはそれは無理なのだ【苦笑
というわけで、今回も作品世界の技術レベルの解説と、絵師さんと、銅氏への謝辞でお茶を濁そうと思っているが、今から気が重い【苦笑
2012-06-28 00:53