【小説講座】「文章のシェイプアップ方法について【荒療治注意】」
「ライトノベルは、軽く読めるけど中身が無い」とか「面白いけど後に何も残らない」などという話をよく聞く。
こういう話を聞くたびに、私は「よく出来たライトノベルとは吟醸酒みたいなものかもしれない」と思うことがある。
吟醸酒の多くは、淡麗辛口な日本酒で「軽くさらっと飲めて後に残らない」ために、酒造米を磨いて芯にして、さらに厳重な温度管理を行って醸造される。
「軽く飲める」ようになるためにために「水のように飲める」ために、手間ヒマ掛けているわけである。
水のように飲める酒だからといって酒に水を足せばいいか、というとそんな簡単な話ではない【笑
余談であるが、 落語のネタに、酒の分類で「村醒め」「軒醒め」「直醒め」というのが出てくる話がある。
良い酒は、飲んだ後もずっと酔っていられて、村を出るまで醒めない。
安い酒は、飲んでいるうちは酔えるが、店を出て軒先にでると、とたんに醒めるので「軒醒め」
もっと安い酒は、飲んでいるうちから直【じき】に醒めてくるので「直醒め」
「なんじゃそりゃずいぶん薄い酒だな、ずいぶん酒の中に水を入れるだろう」と言うと、店主が笑って「いえ、水の中に酒を入れます」
「そりゃあ水っぽい酒だ」
「いえ酒っぽい水です」
吟醸酒が造られるようになったのは、昭和に入ってからで、エンジンや電気で動く動力式精米機が使われるようになり、米の精米度を上げることができるようになったので、作れるようになったわけで、それ以前の酒は、なんというか実にこう味の濃い、米を溶かしたような、濃い味の酒が主流だった。
こういった昔風の作り方で醸された日本酒は「淡麗辛口」とは正反対の酒で「濃醇甘口」と呼ばれている。
さて、話を酒から小説に戻そう。
私は「水のように読める」ライトノベルは、決して「水っぽい小説」ではないと思っている。
最近「おミズっぽいラノベ」も出てきてるが、それについて話をするとややこしくなるので、ここではスルーする【笑
ライトノベルと言うのは、読んだ後に残るのは「面白かった」という感触。だけでいい。と割り切った小説かもしれない。
深く読みたければ読めばいい。だけど、深く読んだからエライとかそういうわけではないのである。
どんな知識レベルの人でも面白いと思ってもらえるのが、「良いライトノベル」であり「良いエンタティメント」だと私は思うのだ。
難しいことを、難しく書くのはだれでもできるけど、難しいことを、わかりやすく書くのは難しい。
簡単なことを簡単に書いたのでは、読者は興味を持ってくれない。
そして簡単な事を難しく書いたら、もっと興味を失うだろう
ライトノベルは、確かに、簡単で単純で、読んでも軽くて後に残らない。でも、それは、そういう意図があって、そう書かれているものだから、ちゃんと成立しているのである。
実を言うと、軽く書くのは、実に難しいのだ。なのに、なぜか、軽く書く=簡単に書ける と思い込んでる人が一杯いるような気がする。
作家志望者の方の中には。どうやっても、書きすぎてしまう人がいるかもしれない。
書きすぎる人は、一言で言うと不安なのである。
ちゃんと伝わっているかどうか、自信がないから、読者に伝えるときに、たくさん書こうとする。
しかし、形容詞にしろ修飾語にしろ、多すぎると肝心な部分、読者に伝えなくてはならない情報が、その中に埋もれてしまうのだ。
だから、印象がボケる。ピントが甘くなる、物語全体が、霧の中で動いてるような感覚になるのである。
これを矯正する荒療治の方法がある。
これは「荒療治」と言うとおり、あまり、書きなれていない人。そして自分の文章が好きで好きでたまらない人。自分は文章が上手いと思っている人にはお勧めできない。
特に、自分の書いた文章を自分の分身のように思っている人には絶対に無理である
なぜなら、これをやると、自分の自信や自分の個性だと思い込んでいる部分が、がりがり削り取られることになるからだ。
本当のことを言えば、そうやって削られてもなお残るものこそが、本当の個性であり、本当の文章力であり、削られたものは、余計な部分なのだが。それを認めることができないと、感情的反発しか残らないので、あまり薦めるつもりは無い。
これだけ前振りをしておいてなんだが、その荒療治とは、実はたった一行で終わってしまう。
『行を半分にする』
訂正。一行どころか七文字で終わってしまった【笑
これはどういうことかと言うと、一つのエピソードを書くのに、120行使って書いたなら、それを半分の60行にする。ということである。
余分な修飾語、余分な形容詞、余分な会話、特に何行にも分けて書いている会話を、一つにまとめて、とにかく、物理的に半分にするのである。
これには、ものすごい労力が必要となる。なぜなら、考えなくてはならない。
「私は書ける」と思っている人の多くは、そう思っているだけである。
「考えないでもすらすら文章が出て来る」というのは、実は、文章書きのスキルで言うと一段レベルが上がっただけなのだ。
素人から、一段上がっただけである。完成形でも到達点でもない。
なぜかというと、そういう人は、頭の中に浮かんだ言葉を、思いついたら、そのまま書いているだけなのだ。
そこで、言葉を吟味しない。思いついただけの言葉をどんどんそこに書いていくだけなので、楽しいし、どんどん書ける自分がすごい存在のように感じる。
だが、その「書ける文章」とは、記憶の中にある、同じような言葉を脳内から拾ってきて、そのまま書いているだけなのだ。
どこかで見たような表現と、どこかで見たような言葉だけが並べば、どんな物語でも「どこかで見た感」で一杯に見えてしまう。
アイディアも構成もどんでん返しも何もかも。読者にそこまで読まれて、始めて意味がある。
だが、どこかで見たような表現とどこかで見たような言葉だけが、メリハリも無くだらだら並べられた小説では、読者はそこまで読んではくれない。
途中で「もういいや」となって終わりである。
そもそも、勘違いする人が多いのがここである。これを肝に銘じて欲しい。
『読者はあなたの小説を読む義理は無い』
読者は勝手である。ちょっと冒頭を読んで、気に入らなければ、ぽいと投げ捨てて見向きもしないのである。
「私の書いた小説は特別だ」と思っているのは、作者にとって特別なだけで、読者にしてみれば、書店に毎月並ぶ何十冊という小説と全く同じであり、読まねばならない義理は無いのである。
さて、話を元に戻そう。
荒療治をする目的である。
これは要するに、ギリギリまで容量を切り詰めることで、情報の取捨選択が求められるということである。
小説の文章とは読者に情報を示すことが目的である。その情報の優先度を、ここで判断しなければならない必要に迫られることになる。
行を削る。削ると、意味が伝わらなくなる。だとしたら、違う言葉で表現するしかない。何も考えないで手なりで書いている人は、今まで言葉を吟味しないで書いてきた人である。
これは、吟味すると言うスキルを覚えるための「荒療治」なのだ。
書かなくてはいけないことを削ってしまうと、読み直してみると、わけがわからなくなる。 書かなくてもいいことを削ると、読み直してもちゃんとわかる
削ったら意味が通じなくなるくらいまで、情報を研ぎ澄まし、七つも六つも形容詞を使って表現していることを、ひとつかふたつの言葉で、的確に表現する言葉を探し出す
二行三行に渡って交わしていた会話を、一つにまとめることで、会話をすっきりさせる。
これは、すべて作者がこの文章で、この会話で「読者になにを伝えたいのか」を明確に意識していなければできないのだ。
なにを書くべきか、何を伝えるべきかを、明確に意識しなければ、それを伝えるための言葉を見つけてくることはできない
逆に言うならば、それを明確に言い表す言葉が見つからないから、無駄な言葉を並べてそれそれを表現しようとしているわけである。
実際にこれをやると、どんどん文章が無味乾燥になって行くように見えるだろう。
しかし、それが無個性に見えるとしたら、それはつまり、あなたが、自分の言葉を使っていなかったと言うことの証明である。
あなたでなければ使えない、あなたで無ければ書けない言葉があれば、それは最後まで残るだろう。
それこそが、あなたの文章なのだ。
どこかで見た文章でもない、ありきたりの文章でもない、読者から見れば、あなたの小説でしか読むことの出来ない文章なのだ。
まあ、これは私の方法論なので、押し付けるつもりは無い。自分のやり方で書くのが一番いいのは言うまでも無い。
この「荒療治」は、袋小路に入ってしまって、どうしても先が見えなくなった方にしかお勧めできない方法である。
こういう話を聞くたびに、私は「よく出来たライトノベルとは吟醸酒みたいなものかもしれない」と思うことがある。
吟醸酒の多くは、淡麗辛口な日本酒で「軽くさらっと飲めて後に残らない」ために、酒造米を磨いて芯にして、さらに厳重な温度管理を行って醸造される。
「軽く飲める」ようになるためにために「水のように飲める」ために、手間ヒマ掛けているわけである。
水のように飲める酒だからといって酒に水を足せばいいか、というとそんな簡単な話ではない【笑
余談であるが、 落語のネタに、酒の分類で「村醒め」「軒醒め」「直醒め」というのが出てくる話がある。
良い酒は、飲んだ後もずっと酔っていられて、村を出るまで醒めない。
安い酒は、飲んでいるうちは酔えるが、店を出て軒先にでると、とたんに醒めるので「軒醒め」
もっと安い酒は、飲んでいるうちから直【じき】に醒めてくるので「直醒め」
「なんじゃそりゃずいぶん薄い酒だな、ずいぶん酒の中に水を入れるだろう」と言うと、店主が笑って「いえ、水の中に酒を入れます」
「そりゃあ水っぽい酒だ」
「いえ酒っぽい水です」
吟醸酒が造られるようになったのは、昭和に入ってからで、エンジンや電気で動く動力式精米機が使われるようになり、米の精米度を上げることができるようになったので、作れるようになったわけで、それ以前の酒は、なんというか実にこう味の濃い、米を溶かしたような、濃い味の酒が主流だった。
こういった昔風の作り方で醸された日本酒は「淡麗辛口」とは正反対の酒で「濃醇甘口」と呼ばれている。
さて、話を酒から小説に戻そう。
私は「水のように読める」ライトノベルは、決して「水っぽい小説」ではないと思っている。
最近「おミズっぽいラノベ」も出てきてるが、それについて話をするとややこしくなるので、ここではスルーする【笑
ライトノベルと言うのは、読んだ後に残るのは「面白かった」という感触。だけでいい。と割り切った小説かもしれない。
深く読みたければ読めばいい。だけど、深く読んだからエライとかそういうわけではないのである。
どんな知識レベルの人でも面白いと思ってもらえるのが、「良いライトノベル」であり「良いエンタティメント」だと私は思うのだ。
難しいことを、難しく書くのはだれでもできるけど、難しいことを、わかりやすく書くのは難しい。
簡単なことを簡単に書いたのでは、読者は興味を持ってくれない。
そして簡単な事を難しく書いたら、もっと興味を失うだろう
ライトノベルは、確かに、簡単で単純で、読んでも軽くて後に残らない。でも、それは、そういう意図があって、そう書かれているものだから、ちゃんと成立しているのである。
実を言うと、軽く書くのは、実に難しいのだ。なのに、なぜか、軽く書く=簡単に書ける と思い込んでる人が一杯いるような気がする。
作家志望者の方の中には。どうやっても、書きすぎてしまう人がいるかもしれない。
書きすぎる人は、一言で言うと不安なのである。
ちゃんと伝わっているかどうか、自信がないから、読者に伝えるときに、たくさん書こうとする。
しかし、形容詞にしろ修飾語にしろ、多すぎると肝心な部分、読者に伝えなくてはならない情報が、その中に埋もれてしまうのだ。
だから、印象がボケる。ピントが甘くなる、物語全体が、霧の中で動いてるような感覚になるのである。
これを矯正する荒療治の方法がある。
これは「荒療治」と言うとおり、あまり、書きなれていない人。そして自分の文章が好きで好きでたまらない人。自分は文章が上手いと思っている人にはお勧めできない。
特に、自分の書いた文章を自分の分身のように思っている人には絶対に無理である
なぜなら、これをやると、自分の自信や自分の個性だと思い込んでいる部分が、がりがり削り取られることになるからだ。
本当のことを言えば、そうやって削られてもなお残るものこそが、本当の個性であり、本当の文章力であり、削られたものは、余計な部分なのだが。それを認めることができないと、感情的反発しか残らないので、あまり薦めるつもりは無い。
これだけ前振りをしておいてなんだが、その荒療治とは、実はたった一行で終わってしまう。
『行を半分にする』
訂正。一行どころか七文字で終わってしまった【笑
これはどういうことかと言うと、一つのエピソードを書くのに、120行使って書いたなら、それを半分の60行にする。ということである。
余分な修飾語、余分な形容詞、余分な会話、特に何行にも分けて書いている会話を、一つにまとめて、とにかく、物理的に半分にするのである。
これには、ものすごい労力が必要となる。なぜなら、考えなくてはならない。
「私は書ける」と思っている人の多くは、そう思っているだけである。
「考えないでもすらすら文章が出て来る」というのは、実は、文章書きのスキルで言うと一段レベルが上がっただけなのだ。
素人から、一段上がっただけである。完成形でも到達点でもない。
なぜかというと、そういう人は、頭の中に浮かんだ言葉を、思いついたら、そのまま書いているだけなのだ。
そこで、言葉を吟味しない。思いついただけの言葉をどんどんそこに書いていくだけなので、楽しいし、どんどん書ける自分がすごい存在のように感じる。
だが、その「書ける文章」とは、記憶の中にある、同じような言葉を脳内から拾ってきて、そのまま書いているだけなのだ。
どこかで見たような表現と、どこかで見たような言葉だけが並べば、どんな物語でも「どこかで見た感」で一杯に見えてしまう。
アイディアも構成もどんでん返しも何もかも。読者にそこまで読まれて、始めて意味がある。
だが、どこかで見たような表現とどこかで見たような言葉だけが、メリハリも無くだらだら並べられた小説では、読者はそこまで読んではくれない。
途中で「もういいや」となって終わりである。
そもそも、勘違いする人が多いのがここである。これを肝に銘じて欲しい。
『読者はあなたの小説を読む義理は無い』
読者は勝手である。ちょっと冒頭を読んで、気に入らなければ、ぽいと投げ捨てて見向きもしないのである。
「私の書いた小説は特別だ」と思っているのは、作者にとって特別なだけで、読者にしてみれば、書店に毎月並ぶ何十冊という小説と全く同じであり、読まねばならない義理は無いのである。
さて、話を元に戻そう。
荒療治をする目的である。
これは要するに、ギリギリまで容量を切り詰めることで、情報の取捨選択が求められるということである。
小説の文章とは読者に情報を示すことが目的である。その情報の優先度を、ここで判断しなければならない必要に迫られることになる。
行を削る。削ると、意味が伝わらなくなる。だとしたら、違う言葉で表現するしかない。何も考えないで手なりで書いている人は、今まで言葉を吟味しないで書いてきた人である。
これは、吟味すると言うスキルを覚えるための「荒療治」なのだ。
書かなくてはいけないことを削ってしまうと、読み直してみると、わけがわからなくなる。 書かなくてもいいことを削ると、読み直してもちゃんとわかる
削ったら意味が通じなくなるくらいまで、情報を研ぎ澄まし、七つも六つも形容詞を使って表現していることを、ひとつかふたつの言葉で、的確に表現する言葉を探し出す
二行三行に渡って交わしていた会話を、一つにまとめることで、会話をすっきりさせる。
これは、すべて作者がこの文章で、この会話で「読者になにを伝えたいのか」を明確に意識していなければできないのだ。
なにを書くべきか、何を伝えるべきかを、明確に意識しなければ、それを伝えるための言葉を見つけてくることはできない
逆に言うならば、それを明確に言い表す言葉が見つからないから、無駄な言葉を並べてそれそれを表現しようとしているわけである。
実際にこれをやると、どんどん文章が無味乾燥になって行くように見えるだろう。
しかし、それが無個性に見えるとしたら、それはつまり、あなたが、自分の言葉を使っていなかったと言うことの証明である。
あなたでなければ使えない、あなたで無ければ書けない言葉があれば、それは最後まで残るだろう。
それこそが、あなたの文章なのだ。
どこかで見た文章でもない、ありきたりの文章でもない、読者から見れば、あなたの小説でしか読むことの出来ない文章なのだ。
まあ、これは私の方法論なので、押し付けるつもりは無い。自分のやり方で書くのが一番いいのは言うまでも無い。
この「荒療治」は、袋小路に入ってしまって、どうしても先が見えなくなった方にしかお勧めできない方法である。
2012-03-09 01:21