「読者の引越しに連れて行ってもらう本」
3月である。
月が替わっても、相変わらず越後湯沢のマンションでカンヅメ仕事中である。
色々苦戦中であるが、平行して書いている三つの物語、それぞれに、苦労するポイントがあって、どれも一筋縄ではいかない。
「山猫姫」は、いわゆるラブコメ的なキャラの掛け合いの部分と、ガチで戦う戦闘シーン。そして、その戦闘シーンを支える、兵站や用兵という段取りの部分。この三つが入り混じっており、私は、そのどれもが書きたくて仕方が無いのである。
戦闘シーンが主で、ラブコメが従ではないし、その逆でもない。どれもが、同じように面白い物語を目指している。そして兵站シーンこそが『色々あって』の部分なので、おろそかにはできない。
この、全方位な書き方が、いけないのだろう。
読者の方から「山猫姫ってどんな話?どこが面白いの? と友人に聞かれても一言で説明できません。説明できないので、面白さが伝わりません」というメールを戴いている。
面白さを単純化して、一言で言えるようにする、というのは大切なことである。
そういう物語は、面白さがわかりやすい。
しかし、その面白さは、一枚板の面白さである。仕掛けで言えば「びっくり箱」のようなもので、インパクトは大きいが、それだけで終わりである。
そしてこういう物語構造は、ネタバレに弱い。面白さがわかりやすい分、一発勝負になってしまうのだ。
私のような書き方は、びっくり箱、と言うよりもお化け屋敷に近い。驚かせるネタを複合的に仕込んで、何度も驚かせるので、一言では、どこが怖かったのか言えない。つまり、ネタバレに強いのである【笑
しかし、その分、書くのは手間が掛かる。
山猫姫の場合、いわゆるラブコメの掛け合いと、戦闘と、二つの小説を書いているのと同じような労力を必要とする。
だが、そうやって作家が苦労した分、読者にとっては読み応えがある、つまりは何度か読み返せる物語になると私は思っている。
以前、ここで、つばさ文庫版「HAYABUSAはやぶさ」のことを書いたが、あの物語も、書くほうからすれば、実にめんどくさい構造の物語である。
探査機はやぶさの、イトカワとの往復の旅路は、実に素晴らしい実話である。
その実話を採録するだけで、それは物語として通用する。
私はその物語に、さらに、一人の少年の7年間の物語を載せた。はやぶさの物語と平行して進む、少年の物語である。
この書き方は、いわば、はやぶさの物語に負けない密度と、そして想いを載せた少年の物語を創り出すことでのみ成り立つ。
あの、はやぶさの実話に負けない創作を作り出す、などという大それたことを、我ながらよくもまあ、挑戦する気になったものだと思う【笑
とにかく、私が書いた「はやぶさ」は、書店に並んでいるどのはやぶさの物語とも違うものになった。
「はやぶさ」とうたっていながら、「はやぶさと、それを見ていた人間の物語」を書いてしまったのは、どうやら私だけのようである。
先日、ブログに「はやぶさ」のことを書いたら、知り合いから、私の書いた「はやぶさ」に自作の帯をつけて、何度も繰り返して読んでくれている小学校二年生の子供を持つ、母親のブログを紹介するメールを戴いた。
http://cafetrico.tea-nifty.com/index/2012/01/post-62e2.html
この、手作りの帯の写真を見たとき、私は、心底から「書いてよかった」と思った。
私が作家になろうと決心したとき、心に誓った目標がある。それは
「読者の引越しに連れて行ってもらえる本を書こう」
ということである。
私は、警察官だった。御存知のように、警察官は転勤の多い職業である。今までに何度と無く引越しをしてきた。
そして私はそのたびに、本を処分してきた。
しかし、どうしても捨てられない本があった。数は決して多くない、そんなにたびたび読み返すわけでもない、それどころか本棚に並べたきり、次の引越しまで一回も開かない本もある。
だが、捨てられないのだ。なぜか、その本は捨てられないのだ。
その本は私の一部になってしまっているのだ。
佐藤さとる・著「コロボックル童話集」
アリステア・マクリーン著「女王陛下のユリシーズ号」
R ・Aハインライン著「宇宙の戦士」
こういった、引越しのたびに連れて行った本が、私の部屋には山のようにある。
だから、私は作家になると決めたときに、心に誓ったのである。「いつか、私も、こんな風に読者の一部になるような本を書こう。書けるようになろう」と。
こういう考えを人に話すと笑われることが良くある。
「そんな本ばかりでは、本が売れません。どんどん新しい本を買ってもらわなければ、困ります」
「本は、回転がすべてです、読者を飽きさせない本を書くよりも、飽きる前に次の本が出るようにするべきです」
「鷹見さんの考え方は古すぎます。いまどきそんなことを言っていたら笑われますよ」
「俺の嫁はワンクールで、とっかえひっかえできるから、業界が回っているんです」
確かにそのとおりなのだろう。それが経済的にも正しいのだろう。
でも、一人くらい私のようなへそ曲がりがいても言いと思うのだ【笑
果たして私の書いた「はやぶさ」が、このお子さんの引越しに連れて行ってもらえるかどうか、それはわからない。
このお子さんの一部になれるかどうかもわからない。
しかし、今、確かに私の書いた「はやぶさ」は、この子に愛されている。
それだけでも、今の私には、過分すぎるほどの幸せである。
月が替わっても、相変わらず越後湯沢のマンションでカンヅメ仕事中である。
色々苦戦中であるが、平行して書いている三つの物語、それぞれに、苦労するポイントがあって、どれも一筋縄ではいかない。
「山猫姫」は、いわゆるラブコメ的なキャラの掛け合いの部分と、ガチで戦う戦闘シーン。そして、その戦闘シーンを支える、兵站や用兵という段取りの部分。この三つが入り混じっており、私は、そのどれもが書きたくて仕方が無いのである。
戦闘シーンが主で、ラブコメが従ではないし、その逆でもない。どれもが、同じように面白い物語を目指している。そして兵站シーンこそが『色々あって』の部分なので、おろそかにはできない。
この、全方位な書き方が、いけないのだろう。
読者の方から「山猫姫ってどんな話?どこが面白いの? と友人に聞かれても一言で説明できません。説明できないので、面白さが伝わりません」というメールを戴いている。
面白さを単純化して、一言で言えるようにする、というのは大切なことである。
そういう物語は、面白さがわかりやすい。
しかし、その面白さは、一枚板の面白さである。仕掛けで言えば「びっくり箱」のようなもので、インパクトは大きいが、それだけで終わりである。
そしてこういう物語構造は、ネタバレに弱い。面白さがわかりやすい分、一発勝負になってしまうのだ。
私のような書き方は、びっくり箱、と言うよりもお化け屋敷に近い。驚かせるネタを複合的に仕込んで、何度も驚かせるので、一言では、どこが怖かったのか言えない。つまり、ネタバレに強いのである【笑
しかし、その分、書くのは手間が掛かる。
山猫姫の場合、いわゆるラブコメの掛け合いと、戦闘と、二つの小説を書いているのと同じような労力を必要とする。
だが、そうやって作家が苦労した分、読者にとっては読み応えがある、つまりは何度か読み返せる物語になると私は思っている。
以前、ここで、つばさ文庫版「HAYABUSAはやぶさ」のことを書いたが、あの物語も、書くほうからすれば、実にめんどくさい構造の物語である。
探査機はやぶさの、イトカワとの往復の旅路は、実に素晴らしい実話である。
その実話を採録するだけで、それは物語として通用する。
私はその物語に、さらに、一人の少年の7年間の物語を載せた。はやぶさの物語と平行して進む、少年の物語である。
この書き方は、いわば、はやぶさの物語に負けない密度と、そして想いを載せた少年の物語を創り出すことでのみ成り立つ。
あの、はやぶさの実話に負けない創作を作り出す、などという大それたことを、我ながらよくもまあ、挑戦する気になったものだと思う【笑
とにかく、私が書いた「はやぶさ」は、書店に並んでいるどのはやぶさの物語とも違うものになった。
「はやぶさ」とうたっていながら、「はやぶさと、それを見ていた人間の物語」を書いてしまったのは、どうやら私だけのようである。
先日、ブログに「はやぶさ」のことを書いたら、知り合いから、私の書いた「はやぶさ」に自作の帯をつけて、何度も繰り返して読んでくれている小学校二年生の子供を持つ、母親のブログを紹介するメールを戴いた。
http://cafetrico.tea-nifty.com/index/2012/01/post-62e2.html
この、手作りの帯の写真を見たとき、私は、心底から「書いてよかった」と思った。
私が作家になろうと決心したとき、心に誓った目標がある。それは
「読者の引越しに連れて行ってもらえる本を書こう」
ということである。
私は、警察官だった。御存知のように、警察官は転勤の多い職業である。今までに何度と無く引越しをしてきた。
そして私はそのたびに、本を処分してきた。
しかし、どうしても捨てられない本があった。数は決して多くない、そんなにたびたび読み返すわけでもない、それどころか本棚に並べたきり、次の引越しまで一回も開かない本もある。
だが、捨てられないのだ。なぜか、その本は捨てられないのだ。
その本は私の一部になってしまっているのだ。
佐藤さとる・著「コロボックル童話集」
アリステア・マクリーン著「女王陛下のユリシーズ号」
R ・Aハインライン著「宇宙の戦士」
こういった、引越しのたびに連れて行った本が、私の部屋には山のようにある。
だから、私は作家になると決めたときに、心に誓ったのである。「いつか、私も、こんな風に読者の一部になるような本を書こう。書けるようになろう」と。
こういう考えを人に話すと笑われることが良くある。
「そんな本ばかりでは、本が売れません。どんどん新しい本を買ってもらわなければ、困ります」
「本は、回転がすべてです、読者を飽きさせない本を書くよりも、飽きる前に次の本が出るようにするべきです」
「鷹見さんの考え方は古すぎます。いまどきそんなことを言っていたら笑われますよ」
「俺の嫁はワンクールで、とっかえひっかえできるから、業界が回っているんです」
確かにそのとおりなのだろう。それが経済的にも正しいのだろう。
でも、一人くらい私のようなへそ曲がりがいても言いと思うのだ【笑
果たして私の書いた「はやぶさ」が、このお子さんの引越しに連れて行ってもらえるかどうか、それはわからない。
このお子さんの一部になれるかどうかもわからない。
しかし、今、確かに私の書いた「はやぶさ」は、この子に愛されている。
それだけでも、今の私には、過分すぎるほどの幸せである。
2012-03-02 00:57