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【小説講座その3】 「読者をそこに連れて行け」

 過去に「その1・色々あって、が大事」「その2・あるある感がリアリティを産む」の2回ここで小説の書き方について軽く書いたが、結構なアクセスがあった。

 世間ではライトノベルの小説大賞の雄「電撃大賞」の〆切が近づいている時期でもあり、作家志望者のなかには、私のような末端作家の言葉でも「参考になるかもしれない」とお考えの方もいるのだろう。

 というわけで、今回は日記ではなく、小説について思ってることを書いてみようと思う。

 作家志望者の方の書いた物を読むと、これと言って、文法の間違いもないし、キャラクターの想いも行動も、矛盾無く書かれているし、ちゃんと読み進むことが出来るのに、なぜか、心躍らないという作品を書く人がいる。

 なんと言えばいいのだろう。物語が迫ってこないのである。
 何だか、薄いスクリーン越しに見ているような、非現実感、作り物感が最後まで消えない。
 当然、キャラクターに感情移入できないので、読み進めていくうちにだんだんとモチベーションが下がっていくのである。

 こういう人の書くものに共通する点は、描写が一定で、実に観念的だ。という点である。
 キャラクターが、立っている場所の説明が、書き割りを説明しているだけで、読んだ人間の肌身に迫ってこないのだ。

 描写とは、読者をその場所に連れて行くことである。
 その物語世界の、その場所にキャラクターが立っているのなら、それを見ている読者も、その場所に立たせなくてはならない。

 荒野なら、乾いた砂埃の中に立たせ、雑踏の中なら、人々のざわめきの中に立たせるのだ。

  寒いのか暑いのか、乾いているのか湿っているのか、うるさいのか静寂なのか、何が聞こえ、どんな匂いがして、どんな気分になるのか。
 
 これを全部書く必要は無い、読者に印象付けるだけの情報を添加するだけでいい。
 そこにキャラクターが立てば、当然感じるであろう、こういった情報が抜け落ちているとしたら、それは、そのキャラクターの立っている情景を、想像していないという証拠である。

 なんとなく荒野っぽい場所。くらいのイメージで書いていると、すべてのピントがボケていくのだ。
 
 たとえば、銃器の描写をするとする。ボルトアクションのライフルを操作する動作をこと細かく描写してあったとしても、それは、そのキャラがライフルを操作していることにはならない。それは単なる手順書、マニュアルのコピーでしかない。

 本当に、そのキャラがライフルを操作するならば、そのキャラの習熟度に応じて、見る場所、気が付く場所が違うはずだ。

 ボルトを引いて薬莢が飛び出したときに、無煙火薬の匂いを嗅ぐはずである。
 コンクリートの地面に薬莢が落ちれば、チン! という澄んだ金属音がするかもしれない。
 匂いの中に、潤滑油の燃えるにおいが混じるのを嗅いで。その銃が新品同様であることに気が付くかもしれない。

 これはすべて、キャラクターがそのとき、つまりライフルを撃ったときに、当然感じるものであり、考えることでもある。
 
 読者は、そんなこと知らないのだから書く必要は無いと思う方もいるだろう。
 確かに、ライトノベルの多くが必要としているのは「ライフル」という記号であり、実際のライフルを撃つときに何を感じるのか、なんてことまで求めてはいない。

 だから、そんなことに気を配るのは無駄だ。 そうお考えの方もいるだろう。
 「らしさ」さえあればいいのであって、それが真実かどうかは問題ではない。と言う方もいるだろう。

 そのとおりである。「らしさ」が出ていれば無問題なのだ。問題は、その「らしさ」の精度なのである。

 「らしさ」がヌルければ、物語がヌルくなるのだ。
 作家志望者の多くが「こんなもんでいいや」と思っている「それらしさ」は、ちっともそれらしくないのである。

 一歩踏み込んで欲しい。「こんなもんでいいや」と思っている部分を、もうちょっと精密にその情景を想像して欲しいのだ。

 繰り返すが、そこに立ったものでなければわからない、五感の感覚を少しだけ加えるのだ。
 すべてを書く必要は無い。様々な感覚の中で、最も読者の印象に残りそうな情報を選択して、それだけを書けばいいのだ。

 描写とは、脳内にある語彙の中から「ぴったりの一言」を探し出してきてそこにはめ込むことを言うのである。

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 たった今まで降っていたスコールが止むのと同時に、熱帯の太陽が照りつけた。
 アスファルト舗装の上に残った水溜りが一気に蒸発し、それは目には見えない水蒸気となってアラシアの街並みを包んでいた。
 冷房の効いたクーリオン空港の建物から表通りに出たとたん、足元から湿気をたっぷりと含んだ熱気が、むわーっと這い上がって来るのを感じた恵美は、思わず顔をしかめた。
 ……うわ、すごい湿気。
 暑いところだとは聞いていたが、実際にその場所に来て体験してみると、その暑さは恵美の想像を超えていた。
 通り過ぎていった黒い雲のあとに広がる真っ青な空を見上げて恵美は思った。
 ……わあ、夏の空みたい。

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 我田引水じみているが、これは私の書いた「ネオクーロンA」の冒頭のシーンである。
 私はこの文章を、読者をスコールが過ぎ去った後の熱帯のアラシアに連れて行くことを目的にして書いている。
 
 そしてこれを書いている情報の根源は、私の中にある、夏の夕立の上がった後のアスファルトの道路を歩いたときの記憶である。

 難しくもなんともないのだ。すべては自分の中にあるのだ。単にそれをどう取り出せばいいのか、そしてどう書けばいいのか、という部分の修練が足りないだけなのだ。
 
 作家になりたいのなら、観察と記憶、そしてそれを自分の中で文章にする再構成のスキルを磨く必要がある。
 
 俺の書くものにはカワイイ女の子しか出てこないから、そんな勉強は必要ない。と思っている人もいるかもしれない。だが、その「カワイイ女の子」を、どう描き出すかという部分のスキルが育っていなければ、その人の書くものは、その他大勢の中に埋もれてしまうだろう。

 その「その他大勢」から抜け出すためには「その人でなければ書けない文章」が、どれだけあるかに掛かっている。

 極端な話、300pの文庫本の物語の中に、その人で無ければ書けない文章、言い換えれば、その人でなければ読めない文章が1ページ分あれば、その物語は充分読者を引き付けておけるのである。
 
 その人でなければ書けない文章、その人でなければ読めない文章。とは、別に変わった文章変わった比喩、難しい単語を使うことではない。
 読んでいる読者が、はっとする、気づく、小さな発見を与える文章である。

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 隼人とケンジは、歩道いちめんに落ちている落ち葉をがさがさと踏みながら、研究所に向かって歩いていた。
 研究所の周りを取り囲む林の木々はすっかり葉を落とし、すかすかの枝のむこうに、研究所の建物が良く見える。
「はやぶさくん……どこに行っちゃったんだろうなあ……」
 隼人は、そうつぶやくと、空を見上げた。
 冬の青空は、ぴん、と澄み切っていて、まるで青いガラス板のように見えた。
 隼人の前を歩いていたケンジも、同じように立ち止まって、空を見上げる。
 北風が林の木々の枝を揺らす、ざわざわ、という音と、電線を鳴らすひゅんひゅん、という音を聞いていたケンジが、ぽつりと言った。
「オレ、このあいだ、兄ちゃんが、ラジオを組み立てているのを見ていたんだ」
 隼人は目を丸くした。
「へえ、すごい、ラジオなんか作れるの?」


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 これは、私の書いた角川つばさ文庫の「はやぶさ」の一節であるが、児童向けの小説であるために、難しい言葉が使えない。
 普通の平易な単語を組み合わせて、読んだ人の脳内に冬のイメージを浮かび上がらせることを目的として文章を書いている。

 この文章を読んだ人の脳内に、落ち葉をがさがさと踏んで歩いた経験や、関東の冬の、あのぴん、と澄み切った硬質な青さを見上げた経験や、北風が電線を鳴らす音を聞いた経験を呼び覚ませば、この文章によって読んだ人の脳内に、そういった光景が浮かぶだろう。

 描写とは、読んだ人のイメージを引っ張り出すフックでもある。


ネオクーロンA (角川スニーカー文庫)

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  • 作者: 鷹見 一幸
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 2003/11
  • メディア: 文庫



はやぶさ/HAYABUSA (角川つばさ文庫)

はやぶさ/HAYABUSA (角川つばさ文庫)

  • 作者: 鷹見 一幸
  • 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
  • 発売日: 2011/09/28
  • メディア: 単行本



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