2012年大雪の越後、越中、越前の旅
2月4日午前6時。越後湯沢のマンションを出て、関越道の湯沢インターに向う。
路面に積もった雪は凍結して、スタッドレスタイヤが踏むと、バリバリという音を立てる。 雪の積もっていない路面が白いところは乾いているが、黒いところは氷である。
この状態で高速道路を走るとなれば、最高速度は50キロである。路面状況によっては70キロを出せればいいところである。
金沢市内に午前11時にたどり着くには、所要時間を五時間と見て、この時間に出発することとした。
湯沢から越後川口までは、積雪も無く、サクサクと進んだが、越後川口を過ぎ、越路に入ったあたりで、前も見えないほどの雪になった。
長岡ジャンクションから、北陸道に入ると、雪質が変わり、重たい湿った雪がバシバシとフロントガラスに当たる。
柏崎を過ぎたあたりで、ハンドルが取られまくるような横風と雪に襲われる。
フルタイム四駆とはいえ、ワンボックスカーは横風に弱い。
とても速度が出せるわけもなく、60キロで進む。
それでもなんとか、午前十時過ぎに無事に金沢市内に到着し、大学で受付して、次男の下宿に案内してもらった。
南西の角の六畳一間を見て、次男も気に入ったようで、他を見るまでもなく最初の物件で決まった。
管理人さんから、生活環境を聞くと、少しはなれたところに「バロー」という安いスーパーがある、ということなので、仮契約を終えた後で、その「バロー」というスーパーに行ってみると、確かに安い。コロッケ一個18円である【笑
夕方になれば、弁当や惣菜は半額になる、と聞いた次男は「半額弁当を奪い合う戦いに参戦することになるのかな?」などとつぶやいていた。
独身の男性の生活を支えているのは、今も昔も「外食産業」である。
江戸時代の江戸の街は、独身者に食事を提供する屋台売りがあふれていた。
江戸の町そのものが、女性より男性が多い、若い男の町であり、そういった男たちのほとんどが、自炊するよりも、屋台の食事を愛用していた。
私が独身だった頃は、コンビニもほとんど無く、吉野家のような牛丼店も、繁華街にはあるものの、街道沿いにはほとんど展開していなかった。
もっとも、私が言っているのは1970年代後半から1080年中ごろにかけての話であり 今とは隔絶の感がある。
なんせ、ファミレスが日本にでき始めた頃の話であるからして、今の若い人には、大昔にしか思えないだろう。
余談であるが、初期のファミレスとは実に「オシャレ」な場所であった。
その当時、郊外に住む人間が、車で晩飯を食べに行く場所と言えばラーメン屋や街道沿いのドライブイン、定食屋しかなかったのだ。
ファッションとは無縁の、遠距離トラックの運転手などが利用する食堂である。
そんな中に登場した デザートをはじめとする、多彩なメニューをもち、「ナイフ&フォーク」で飯を食うレストラン、というのは「オシャレ」以外のナニモノでもなかったのだ。
デザートとして一世を風靡した「ティラミス」は、ファミレスのデニーズのデザートメニューとして取り入れられて、一気に火が点いたといわれており、いわゆるブームの発信基地になるくらい、ファミレスは生活の中心に存在していた。
ファミリーレストランの名の通り、終末の夜ともなれば、家族連れで賑わうのが当たり前だった。
だが、バブル崩壊とともに、家族で外食と言う光景も消えて行き、外食産業は、再び少ないメニューを安価で提供する、牛丼屋のような「食堂」形態に移っている。
独身者の食を支えている、こういった食堂形態の外食産業が繁盛している現代は、江戸時代の再来かもしれない。
デフレといわれて久しいが、日本の食を支えている人々の努力によって、今、我々は安価でそこそこ美味しいものを食べることができる。
「安いものは不味い」というのは、真実である。材料も調味料も、安いものは質もそれなりである。
だが、日本人は、それに妥協しない。安い、質の悪い材料を使っても、少しでも美味くするために努力するのである。
その努力を誰もが「あたりまえ」だと考えている。
「安かろう不味かろう」があたりまえ、ではないのだ。どの店も「安かろう不味かろう」を当たり前だからこれでいい、などとは思っていない。誰よりも、客がそう思っていないのだ。
日本人は、美味さに妥協しない。店の人間は、少しでも他店よりも「美味いもの」を提供しようと思うし、客もまた、少しでも美味い店を探してそこに行こうとする。
コンビニに並んでいる100円の袋詰め菓子も、みんなどれも、そこそこ美味い。
こんな国は、日本だけである。
日本の食いものは、総じて「底が高い」のである。
次の日(5日)には、富山ライトレールを見てきたのだが、その話は、また明日にしようと思う。
今日の本は文春新書の「コンビニ・ファミレス・回転寿司」である。およそ10年ほど前に書かれた本であるが、この本が提示した問題は、今でも変わらず存在する。
路面に積もった雪は凍結して、スタッドレスタイヤが踏むと、バリバリという音を立てる。 雪の積もっていない路面が白いところは乾いているが、黒いところは氷である。
この状態で高速道路を走るとなれば、最高速度は50キロである。路面状況によっては70キロを出せればいいところである。
金沢市内に午前11時にたどり着くには、所要時間を五時間と見て、この時間に出発することとした。
湯沢から越後川口までは、積雪も無く、サクサクと進んだが、越後川口を過ぎ、越路に入ったあたりで、前も見えないほどの雪になった。
長岡ジャンクションから、北陸道に入ると、雪質が変わり、重たい湿った雪がバシバシとフロントガラスに当たる。
柏崎を過ぎたあたりで、ハンドルが取られまくるような横風と雪に襲われる。
フルタイム四駆とはいえ、ワンボックスカーは横風に弱い。
とても速度が出せるわけもなく、60キロで進む。
それでもなんとか、午前十時過ぎに無事に金沢市内に到着し、大学で受付して、次男の下宿に案内してもらった。
南西の角の六畳一間を見て、次男も気に入ったようで、他を見るまでもなく最初の物件で決まった。
管理人さんから、生活環境を聞くと、少しはなれたところに「バロー」という安いスーパーがある、ということなので、仮契約を終えた後で、その「バロー」というスーパーに行ってみると、確かに安い。コロッケ一個18円である【笑
夕方になれば、弁当や惣菜は半額になる、と聞いた次男は「半額弁当を奪い合う戦いに参戦することになるのかな?」などとつぶやいていた。
独身の男性の生活を支えているのは、今も昔も「外食産業」である。
江戸時代の江戸の街は、独身者に食事を提供する屋台売りがあふれていた。
江戸の町そのものが、女性より男性が多い、若い男の町であり、そういった男たちのほとんどが、自炊するよりも、屋台の食事を愛用していた。
私が独身だった頃は、コンビニもほとんど無く、吉野家のような牛丼店も、繁華街にはあるものの、街道沿いにはほとんど展開していなかった。
もっとも、私が言っているのは1970年代後半から1080年中ごろにかけての話であり 今とは隔絶の感がある。
なんせ、ファミレスが日本にでき始めた頃の話であるからして、今の若い人には、大昔にしか思えないだろう。
余談であるが、初期のファミレスとは実に「オシャレ」な場所であった。
その当時、郊外に住む人間が、車で晩飯を食べに行く場所と言えばラーメン屋や街道沿いのドライブイン、定食屋しかなかったのだ。
ファッションとは無縁の、遠距離トラックの運転手などが利用する食堂である。
そんな中に登場した デザートをはじめとする、多彩なメニューをもち、「ナイフ&フォーク」で飯を食うレストラン、というのは「オシャレ」以外のナニモノでもなかったのだ。
デザートとして一世を風靡した「ティラミス」は、ファミレスのデニーズのデザートメニューとして取り入れられて、一気に火が点いたといわれており、いわゆるブームの発信基地になるくらい、ファミレスは生活の中心に存在していた。
ファミリーレストランの名の通り、終末の夜ともなれば、家族連れで賑わうのが当たり前だった。
だが、バブル崩壊とともに、家族で外食と言う光景も消えて行き、外食産業は、再び少ないメニューを安価で提供する、牛丼屋のような「食堂」形態に移っている。
独身者の食を支えている、こういった食堂形態の外食産業が繁盛している現代は、江戸時代の再来かもしれない。
デフレといわれて久しいが、日本の食を支えている人々の努力によって、今、我々は安価でそこそこ美味しいものを食べることができる。
「安いものは不味い」というのは、真実である。材料も調味料も、安いものは質もそれなりである。
だが、日本人は、それに妥協しない。安い、質の悪い材料を使っても、少しでも美味くするために努力するのである。
その努力を誰もが「あたりまえ」だと考えている。
「安かろう不味かろう」があたりまえ、ではないのだ。どの店も「安かろう不味かろう」を当たり前だからこれでいい、などとは思っていない。誰よりも、客がそう思っていないのだ。
日本人は、美味さに妥協しない。店の人間は、少しでも他店よりも「美味いもの」を提供しようと思うし、客もまた、少しでも美味い店を探してそこに行こうとする。
コンビニに並んでいる100円の袋詰め菓子も、みんなどれも、そこそこ美味い。
こんな国は、日本だけである。
日本の食いものは、総じて「底が高い」のである。
次の日(5日)には、富山ライトレールを見てきたのだが、その話は、また明日にしようと思う。
今日の本は文春新書の「コンビニ・ファミレス・回転寿司」である。およそ10年ほど前に書かれた本であるが、この本が提示した問題は、今でも変わらず存在する。
2012-02-05 21:42