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時代は繰り返す。されど戻るわけではない。

金沢の帰りに、富山市に立ち寄って、富山ライトレールを見てきた。

 富山ライトレールとは、JRの富山港線を第三セクターに移行するのに合わせて、車両と設備を路面電車化した鉄道線である。

 とはいえ、路面電車化した区間は富山駅の北側にある短い区間だけで、それ以外の線路はJR時代の線路をそのまま使っている。

 富山駅前からの市街地区間は、路面電車として走り、市街地を抜けると、専用の軌道を走る鉄道となるタイプの鉄道は、富山ライトレール以外にも、高岡駅から射水へと延びる万葉線や、福井駅から越前武生駅を結ぶ福井鉄道福武線などがある。

 こういった「市街地は路面電車」それ以外は「鉄道」という形態は、別に珍しいものではなく、過去には長野県松本市の松本駅から浅間温泉まで伸びる松本市内線や、大分交通の別大線などのように日本全国で見ることができた。

 この路面を走る併用軌道が短く、専用軌道が長い路線は、今でも残る都電のように生き残っているところが多いが、それ以外の路線はほとんどが廃止されてしまっている。
 
 昭和40年代に入り、モータリゼーションの波が押し寄せてくると、道路の渋滞は激しくなり、路面電車は渋滞の元凶と言われ、次々に廃止されることとなったのである。

 しかし、路面電車のレールが占めていたスペースなどは焼け石に水で、渋滞は解消されることは無かった。

 渋滞の原因は、そもそも人々が自動車で動くことなど考えたことも無い都市の構造にあった。
 商店街の商店は、客が車に乗ってくるなどということは考えてもいなかった。それどころか、自分たちの店に商品を運んでくる車ですら、停める場所が無いのが当たり前だったのだ。 
 都市を再開発するには莫大な費用が掛かる。渋滞解消のためには、都市部を迂回してバイパスを作った方が安上がりである。

 というわけで、地方都市を通る国道には広いバイパスが作られ、そのバイパス沿いに郊外型の店舗が立ち並ぶ。という日本全国どこでも同じような光景が見られるようになった。

 そして、バイパスに迂回する車が増えて、中心部の渋滞が無くなった都市に、再び路面電車を復活させる動きが出始めた。
 
 この先、さらに少子高齢化が進めば、都市部への人口の集中が始まるだろう。
 郊外の山を削って作られたひな壇のようなニュータウンは、自家用車を持っている若い世代のための一戸建て住宅である。
 車を運転しなくなった高齢者に、あの坂道を上り下りするのは辛い。かつてのニュータウンの住民は、家を処分して次々に都市の中心部のマンションに移り住み始めている。

 都市に住む高齢者にとって、公共交通機関は生活に欠かせない。バスや路面電車の需要は増えるだろう。

 時代は繰り返す。と言われているが、実際には元に戻るわけではない。確かに富山ではライトレールと言う形で路面電車が戻ってきた。しかし、それは新しい設計思想の、揺れの少ない、そして床が低く乗り降りが楽な車両、新しいシステムとなって戻ってきたのだ。

「時代遅れ」と言われ、性能が低い、効率が悪い、として切り捨てられてきた物の中には、今の材質や技術で作り直せば、性能もコストも、充分太刀打ちできるものがあるかもしれない。
 画期的な独創的な発明が世の中を変える、と言われている。
 確かにエポックメイキングな発明によって世の中は変化していくように見える。だが、実際に世の中を変えていくのは、そういった全く新しいものではなく、「車輪の改良」のような日々の技術の積み重ねだと私は思う。

 日々の仕事はルーティンワークであり、昨日と同じ今日、今日と同じ明日が続くように感じる人も多いだろう。同じところをぐるぐる回り続けているようなものに思えるかもしれない。
 でも、日々の仕事の繰り返しの中で、少しずつ自分なりに改良を加えようと思えば、同じところに戻ってきているようで、本当はほんの少しだけステージが上ることができる。

 日々の暮らしも仕事も、すべては螺旋階段である。
 螺旋階段を登っている人を真上から見れば、同じところをぐるぐる回っているようにしか見えない。でも、視点を変えれば、一周回れば、ほんの少しステージが上っているのがわかる。
 世の中はそうやって変わっていく。
 人間がそうやって変わっていくように、ぐるぐると同じようなことを繰り返してじりじりと進んでいくのである。


日本路面電車カタログ2011- (イカロス・ムック)

日本路面電車カタログ2011- (イカロス・ムック)

  • 作者: 神谷 武志
  • 出版社/メーカー: イカロス出版
  • 発売日: 2011/10/20
  • メディア: ムック



書き溜めた文章が一瞬に消えると、さすがに凹む

so-netの悪口を言うつもりは無い。
ネットというのは、通信によって成り立っている以上、不具合は避けられない。
バックアップを取っておかない私が悪いのだ。

 とはいえ、ここ二日間に三回ほど、書き終わった文面をアップする際に「エラー画面」が出て、文章がすべて消滅する。という仕打ちを受けている。

 性能もデザインもインターフェースも良いに越したことは無いだろう、だが、一番重要なのは信頼性だと思うのだが、私は間違っているのだろうか?【苦笑

 富山ライトレールを見てきた感想や、まあ、それにともなう様々なことを、書き連ねた自己本位の文章に、価値はないだろうが、そこはそれ、自分の書いた文章もまた「主観的宝物」なのである。

 同じ内容の文章を書く、というのは実にしんどい行為であり、そしてそれが三回にわたると、さすがにかんべんしてくれ。という気になる。

 写真もアップロードするとフリーズすることが多く。サイズを小さくしても、それがサムネイルに反映されないことが多い。

 とりあえず、様子見で富山ライトレールの写真をアップしてみるが、これもダメだったら、ブログはしばらく様子を見ようと思っている。

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2012年大雪の越後、越中、越前の旅

 2月4日午前6時。越後湯沢のマンションを出て、関越道の湯沢インターに向う。
 路面に積もった雪は凍結して、スタッドレスタイヤが踏むと、バリバリという音を立てる。 雪の積もっていない路面が白いところは乾いているが、黒いところは氷である。

 この状態で高速道路を走るとなれば、最高速度は50キロである。路面状況によっては70キロを出せればいいところである。
 金沢市内に午前11時にたどり着くには、所要時間を五時間と見て、この時間に出発することとした。

 湯沢から越後川口までは、積雪も無く、サクサクと進んだが、越後川口を過ぎ、越路に入ったあたりで、前も見えないほどの雪になった。
 
 長岡ジャンクションから、北陸道に入ると、雪質が変わり、重たい湿った雪がバシバシとフロントガラスに当たる。

 柏崎を過ぎたあたりで、ハンドルが取られまくるような横風と雪に襲われる。
 
 フルタイム四駆とはいえ、ワンボックスカーは横風に弱い。
 とても速度が出せるわけもなく、60キロで進む。

 それでもなんとか、午前十時過ぎに無事に金沢市内に到着し、大学で受付して、次男の下宿に案内してもらった。
  
 南西の角の六畳一間を見て、次男も気に入ったようで、他を見るまでもなく最初の物件で決まった。

 管理人さんから、生活環境を聞くと、少しはなれたところに「バロー」という安いスーパーがある、ということなので、仮契約を終えた後で、その「バロー」というスーパーに行ってみると、確かに安い。コロッケ一個18円である【笑

 夕方になれば、弁当や惣菜は半額になる、と聞いた次男は「半額弁当を奪い合う戦いに参戦することになるのかな?」などとつぶやいていた。
 
 独身の男性の生活を支えているのは、今も昔も「外食産業」である。
 江戸時代の江戸の街は、独身者に食事を提供する屋台売りがあふれていた。

 江戸の町そのものが、女性より男性が多い、若い男の町であり、そういった男たちのほとんどが、自炊するよりも、屋台の食事を愛用していた。

 私が独身だった頃は、コンビニもほとんど無く、吉野家のような牛丼店も、繁華街にはあるものの、街道沿いにはほとんど展開していなかった。

 もっとも、私が言っているのは1970年代後半から1080年中ごろにかけての話であり 今とは隔絶の感がある。
 
 なんせ、ファミレスが日本にでき始めた頃の話であるからして、今の若い人には、大昔にしか思えないだろう。

 余談であるが、初期のファミレスとは実に「オシャレ」な場所であった。
 その当時、郊外に住む人間が、車で晩飯を食べに行く場所と言えばラーメン屋や街道沿いのドライブイン、定食屋しかなかったのだ。
 
 ファッションとは無縁の、遠距離トラックの運転手などが利用する食堂である。
 
 そんな中に登場した デザートをはじめとする、多彩なメニューをもち、「ナイフ&フォーク」で飯を食うレストラン、というのは「オシャレ」以外のナニモノでもなかったのだ。

 デザートとして一世を風靡した「ティラミス」は、ファミレスのデニーズのデザートメニューとして取り入れられて、一気に火が点いたといわれており、いわゆるブームの発信基地になるくらい、ファミレスは生活の中心に存在していた。
 ファミリーレストランの名の通り、終末の夜ともなれば、家族連れで賑わうのが当たり前だった。

 だが、バブル崩壊とともに、家族で外食と言う光景も消えて行き、外食産業は、再び少ないメニューを安価で提供する、牛丼屋のような「食堂」形態に移っている。

 独身者の食を支えている、こういった食堂形態の外食産業が繁盛している現代は、江戸時代の再来かもしれない。

 デフレといわれて久しいが、日本の食を支えている人々の努力によって、今、我々は安価でそこそこ美味しいものを食べることができる。

 
 「安いものは不味い」というのは、真実である。材料も調味料も、安いものは質もそれなりである。
 
 だが、日本人は、それに妥協しない。安い、質の悪い材料を使っても、少しでも美味くするために努力するのである。

 その努力を誰もが「あたりまえ」だと考えている。
 「安かろう不味かろう」があたりまえ、ではないのだ。どの店も「安かろう不味かろう」を当たり前だからこれでいい、などとは思っていない。誰よりも、客がそう思っていないのだ。

 日本人は、美味さに妥協しない。店の人間は、少しでも他店よりも「美味いもの」を提供しようと思うし、客もまた、少しでも美味い店を探してそこに行こうとする。

 コンビニに並んでいる100円の袋詰め菓子も、みんなどれも、そこそこ美味い。
 こんな国は、日本だけである。
 日本の食いものは、総じて「底が高い」のである。

 
 次の日(5日)には、富山ライトレールを見てきたのだが、その話は、また明日にしようと思う。


今日の本は文春新書の「コンビニ・ファミレス・回転寿司」である。およそ10年ほど前に書かれた本であるが、この本が提示した問題は、今でも変わらず存在する。


コンビニ ファミレス 回転寿司 (文春新書)

コンビニ ファミレス 回転寿司 (文春新書)

  • 作者: 中村 靖彦
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1998/12
  • メディア: 新書



当たり前が続くのは、当たり前か?

 昨日から、日本海側は大雪である。
 土曜日に、この春から大学に通う次男の住まいを決めるために金沢に行かねばならないのと、今月末に予定されているボーイスカウトのスキー合宿の下見のために、妻と次男を乗せて越後湯沢に戻ることになった。

 母の補聴器を買いに行ったり、色々用事があって、埼玉の家を発ったのは午後九時過ぎ。
 FMラジオの交通情報は、関越自動車道が湯沢から新潟中央まですべて大雪のために通行止めになっている、と繰り返し伝えていた。

 青森の方でも、地吹雪の中で百台以上の車が立ち往生し、十数時間動かなかった。というニュースが流れる中。車の中にスコップ、予備チェーン、毛布、ACコンバーター、予備ガソリン、パンなどの食料。2Lペットボトルの飲料数本。使い捨てカイロ、乾電池、ノーパソ、などの品物を積み込んだ。

 車はステップワゴンのフルタイム4WD。四輪スタッドレス装着済みであるが、スタッドレスでも動けなくなる場合を考慮して、チェーンも用意してある。

 なぜ、これほどまで準備をしているのかと言うと、長年の四駆乗りの習性と、そして五年ほど前の一月に、雪道で立ち往生に巻き込まれた経験があるからである。

 正月二日に越後湯沢から六日町のイオンに買い物に行き、その帰り道で、国道17号の塩沢と湯沢の間にある、登坂車線のある坂道で、トラックとバスが動けなくなり、そのまま大渋滞に巻き込まれたのだ。

 六日町から越後湯沢まで、通常なら45分ほどで着く距離を7時間以上かかったのである。

 ガソリンはどんどん減っていく、車は動かない。

 だが、私はこういうときのために、いつも、予備燃料タンクにガソリンを10リットルほど入れたものを持ち歩いている。

「備えよ、常に」である。

 道路は走れるのが当たり前である。誰も走れなくなったときのことを考えてはいない。
 だが、いつ、どんなときも、その「当たり前」が通用するとは限らない。

 越後湯沢のインターを降りるとき、目の前を、黄色い旋回灯を光らせた除雪車の車列が出発して行った。

 彼らはこれから雪に挑むのだ。
 朝まで、降り続く雪を、除雪し続けるのだ。

 道路を車が走る、という「当たり前」を守るために。


 当たり前が、当たり前でなくなった光景と言うのは、どこか、奇妙に見えるときがある。

 新潟の燕駅から、月潟を通って、新潟市内まで「新潟交通」という私鉄が通っていた。
 1999年4月に廃止されたあとも、数年間は、線路や駅の設備はそのまま残っていた。
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 この写真は、廃止された新潟交通の木場駅の写真である。
 線路の上を列車が走る「当たり前」の光景はそのままなのに、かつて、踏み切りだった道路が、それはもう、当たり前でもなんでもないんだよ。と教えてくれている。

 当たり前のことは当たり前に続く。
 誰もがそれに疑問を持つことは無い。なぜならそれは当たり前のことなのだから。

 どこかの誰かが、その当たり前のことを続けるために、当たり前に努力している。
 当たり前の途中で、当たり前が終わらないために、努力している。

 それに感謝するのも、また、当たり前のことだと私は思うのだ。

 

 

 

 

 

情報のタイムラグをイマジネーションで埋めるとオルガンがオルゴールになる話

 オルゴール、というものを御存知だと思う。
 木製の小さな箱に入っていてゼンマイ仕掛けの爪がついた円筒を回し、その爪で小さな鉄琴を弾いて音楽を奏でるアレである。

 英語ではミュージックボックスという、アレをオルゴールと呼ぶのは日本だけである。

 そもそも、オルゴールとはいったい何語なのか、というと、これはオランダ語であり、オランダ語の「オルゲル」が語源である。

 ところが、オランダ語の「オルゲル」とは、オルガンを意味する単語であり、ミュージックボックスを意味する単語ではない。

 では、なぜ、日本で、本来オルガンを意味する言葉が、ミュージックボックスに取って変わられたのか。
 
 答えは当時の蘭学者の勇み足にある。

 ここから先は私の想像だが。
 オランダからミュージックボックスが日本にやってきたとき、日本の蘭学者は、いわゆる事典のような本を開いて調べたに違いない。
 
 そしてその中に、箱のような絵と、そして音楽を奏でるもの、という説明が書かれたオルガンの項目を読んで。
「これは、オルゲルと呼ぶものにございます」と答えたのではないかと思う。

 確かに、音楽を奏でる木の箱であるから、説明は間違ってはいない。
 なんせ、当時の日本は鎖国中で、オルガンなど見たことも無いわけで、文献だけで調べるには限界があったのだろう。
 もしかしたr、その当時の蘭学者が使っていた事典には、ミュージックボックスの項目が無かったのかもしれない。

 とにかく、日本に入ってきたミュージックボックスは、「オルゲル」と呼ばれるようになり、それが「オルゴール」に変わって行ったのではないだろうか。

 その後、本物のオルガンが入ってきて、アレはオルゲルではないのだ。と気がついたときには、もうすでに日本人の間で「オルゴール」が固有名詞として広まってしまっていた。

 だから日本では、アレは今でも「オルゴール」と呼ばれ続けているわけである。

 
 これと同じようなものに「カツ丼」がある。
 今ではどこでも出される「ソースカツ丼」であるが、北陸、福井、山梨県甲府市あたりでは、カツ丼と言えば、ソースカツ丼のことであり、同じように新潟や、群馬の一部ではそばつゆのような甘辛いタレにカツをくぐらせたものを、ご飯の上に乗せる「たれカツ丼」が「カツ丼」である。

 こういった地方では、タレで煮て玉子でとじた、いわゆる普通のカツ丼は「煮カツ丼」とか「卵カツ丼」と呼ばれている。

 そもそも、カツ丼が始まったのは諸説あるが、大正時代、東京の早稲田からだと言う説が有力である。

 トンカツ自体はそれより前から、いわゆる「洋食」の代表的メニューとして日本中の洋食屋に広がっており、日本中どこでも同じような調理方法で作られ、キャベツを添えてソースを掛けて食されていた。

 大正時代、まだ日本には、いや世界のどこにもテレビは無い。写真は高価なものだったし、雑誌や新聞も貴重なマスメディアの一つで、今のように日本中でほぼ同時に出来事が知られる、ということは無かった。

 そんな時代に「東京でカツ丼というトンカツを使った新しいメニューが始まったらしい」「どうやら人気メニューのようだ」というウワサが立ったわけである。

 今のように、評判になるのと同時にテレビが取材に来て、情報と同時に映像が伝わる、などということが無い時代である。

 「カツ丼」という言葉と「天丼のように、カツをご飯の上に乗せたものらしい」という情報だけが伝わってきた地方の食堂では、店主が、その、まだ見ぬ「カツ丼」というシロモノを、一生懸命想像したにちがいない。

 ある店主は「トンカツをご飯の上に乗せたというのだから、この洋食のトンカツをそのままご飯の上に乗せるのだろう」と考えて、丼のご飯の上に千切りキャベツを敷き、その上にトンカツを乗せ、ソースを掛けた。「ソースカツ丼」の始まりである。

 ある店主は「天丼のようなもの、という話だから、天ぷらの代わりにトンカツを天つゆにくぐらせて、そのままご飯の上に乗せるのだろう」と考えた。「たれカツ丼」の始まりである。

 「カツ丼」という言葉だけが先に伝わったことにより、日本各地に、さまざまな「カツ丼」が誕生したわけである。

 現代のような、ネットやテレビが発達した時代では考えられない情報のタイムラグがあった時代。そのタイムラグを埋めたのは、人間の想像力だったのである。

 
 

県境の長いトンネルを抜けると青空だった。主観的宝物の話

 越後湯沢でのカンヅメ中だったが、急用ができたので、カンヅメを中止して埼玉の自宅に戻ることになった。
 越後湯沢は大雪である。
 電信柱もトランスの部分に雪が積もってなんだかよくわからない姿になるほどの大雪である。
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 越後湯沢の駅のホームに立つと、足元には様々な表示が描かれている。
 上越新幹線で走っている新幹線車両のほとんどが二階建て車両で、いわゆる「MAXとき」とか「MAXたにがわ」と呼ばれる車両である。

 8両編成MAX、12両編成MAX、などと言う表示に混じって少し外れたところに「10両編成」とだけ書かれた表示がある。

 この10両編成は、二階建てではない新幹線。つまり旧型の200系と呼ばれる新幹線車両の停止位置を示している。
 
 この200系新幹線は、東海道山陽新幹線から消えた、初代新幹線、いわゆる0系の雰囲気を残す丸っこい先頭部を持っており、どこと無く懐かしい雰囲気がある。
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 今日【正確には昨日】越後湯沢から乗ってきた「たにがわ」も、この200系だった。

 この時期はガーラ湯沢始発であるが、乗っている人もおらず、貸し切り状態だったが、高崎駅で、どっと乗り込んできた。
 越後湯沢と、東京を結ぶ「たにがわ」の役割は、高崎と東京を結ぶビジネス特急である。

 さて、本日も前回と同じく、私の主観的宝物を紹介しよう。

「旧東ドイツ秘密警察、シュタージが使用していた手錠」である。
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写真はデジカメではなく、スキャナで取り込んだもので、余白があるのは、位置を間違えたためである【笑
 もっとも、これは、私が譲って貰った相手がそう言っていただけで、本当にシュタージが使っていたかどうかは定かではない。
 
 ただ、刻印が「pollzei」【警察】となっているので、少なくとも東ドイツの警察で使用していたことに間違いはなさそうだ。

 以前、東ドイツのベルリンの国境警備隊の隊員だった人の手記を読んだことがある。

 ベルリンは東西を壁で隔てられ、その壁の東側には有刺鉄線と、もし壁に近づいたものがいれば、鳴り響く警報装置。足跡が残るように砂を敷き詰めた通路のような場所と地雷原。そして、人が入れば自動的に発射する機能のついた自動銃が取り付けられていた。

 これはすべて、東ドイツ側から西ドイツ側に逃亡を企てる者を阻止するためにつくられたものである。

 これらの装置は、東ドイツでは秘密でもなんでもなかった、逆に国外脱出を企てる国民を威嚇するために大々的に宣伝されていた。

 もし、お前らが逃げようと壁に近づけば、警報装置が鳴り響き、足跡はすぐに見つかり、足を踏み入れれば地雷が爆発し、それでも近づけば、監視兵がいなくても自動的に機関銃が発射され射殺されるのだ。と繰り返し映画や、写真で広報されていたのだ。

 現代の日本でも「機械警備」というものは存在する。いや、それが主流だと言ってもいい。
 しかし、この東ベルリンの機械警備システムとは大きく違う。
 日本の機械警備は、センサーだけが機械で、実際に現場に駆けつけるのは人間である。
 人間が判断し、人間が対処する。

 しかし、東ベルリンのシステムは違う。
 この機械警備は、人の匂いがしない。徹頭徹尾合理化され、逃げようとするものには容赦なく銃弾が撃ち込まれるのだ。

 これほど非人道的なシステムを発案したのは誰だろう? 私はずっと長い間疑問に思ってきた。
 これは、人間の情とかそういう次元とは全く違う、冷徹で合理的な、まさしくシステムとしか言いようの無い設備である。
 人間とは、これほどまでに、冷酷に、合理的になれるものだろうか?
 このシステムを考案し実現化した人間には血が通っているのだろうか?

 だが、東ベルリンの国境警備隊員の手記を読んだとき、私は驚いた。

 こういった機械警備システムや、足跡の残る砂の道や、自動射撃システムのほとんどを考案したのは、現場の国境警備隊員たちだったのだ。

 なぜ、彼らはこんなシステムを考案したのか。

 国外逃亡を図る人々が憎かったのだろうか? 許せなかったのだろうか?

 答えは違っていた。

 国境警備隊員たちは、国外逃亡を図る人たちを撃ちたくなかったのだ。
 自分の手で、その人々を撃ちたくなかったのである。

 警報装置も、砂の道も、自動射撃システムも。すべては「おねがいだからやめてくれ」という懇願にも似た思いから発案したのだと言うのだ。

 侵略者なら、進んで引き金を引く。祖国を守るためならためらいはしない。
 国境警備隊は、その為に存在する。
 
だが、東ドイツの国境警備隊の仕事は、外敵から祖国を守ることではなく、自分の国民を国外に逃がさないために。裏切り者を撃つのが仕事だったのだ。

 国境警備隊員のモチベーションは常に低かったそうだ。
 しかし、上官にそんな態度を見せるわけには行かない。政治将校に知られたらこっちの命が危ない。

 だから、国境警備隊員たちは、より厳重な警戒装置を発案し提案し続けたのだ。
「祖国に忠誠を誓う証し」として。
 何よりも、人を撃ちたくない、自分の国の人間を撃ちたくない、という思いから、彼らは発案し提案し続けた。

 ベルリンの壁に沿って設けられた、自動警報装置も砂の道も地雷原も、自動射撃装置も、そのすべてが、冷酷さの証しでも合理的なシステムでもなかったのだ。

 それは不合理な国家の中で生きる人々が、選ばざるを得なかった、実に生々しい人間の意志が込められたシステムだったのである。

 東ドイツの手錠を見て、私は思う。

 ――もし、私が、東ドイツの警官だったら。私はどんなことを考えただろうか……と。


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