アカウントが判明しました。
一年以上放置していた、ブログが復活できた。
長い間放置していた理由は、so-netの運営の方から「アカウントのセキュリティが低いので切り替えてくれ」という通知が来ていたらしいのだが、メールが、なぜかスパム扱いになって、自動的に削除していたので、全く気が付かず、ある日を境に、ログインできなくなったためである。
期限までに切り替えなければ、運営の方で強制的に以前のアカウントを停止し、新しいアカウントを配布する。ということだったらしいが、その時の新しいアカウントを、メモした紙を紛失し、以前のパソコンのハードディスクがクラッシュしたためにメールデータも取り出せなくなり、仕事も忙しいし、プライベートでも色々あって、ブログのアカウントの復活、という仕事の優先順位が、どんどん後回しになっていったためである。
気がつけば「宇宙軍士官学校」も10巻になり、この3月24日には書店に並ぶことになった。
この「宇宙軍士官学校」については「俺、つええ! なキャラである有坂恵一が、宇宙空間で無双するよくある話」と言う方が結構いるらしいが、いわゆる少年マンガ的な「俺つええ!」なヒーローが戦う話とは、大きな違いがあるのだが、そのことに気がついている人はいないようだ。
その違いを、ひとことで言うと
「宇宙軍士官学校は、主人公のテンションと、勝負の勝敗に、何の関係もない」
という部分である。
いわゆる「俺つええ!」的な構造を持つ物語は、主人公のテンションがすべてである。主人公がテンションを上げ、物語を引っ張っていくことで、超人的な力を発揮し、強大な敵に勝つ。というのが、セオリーである。
いかに主人公のテンションを上げるか、に作者も、読者も関心が無くのである。
だが、宇宙軍士官学校の物語構造はそうではない。主人公がテンションを上げようが、無双の腕前を持っていようが、勝つときは勝つし、負けるときは負けるのである。
なぜこういう書き方をするのか。それは簡単な話で「宇宙軍士官学校」は戦争を描いているからであり、個人戦闘を描いているわけではないからである。
「ルーデル」がいても、ドイツは負けたし、「シモ・ヘイヘ」がいても、フィンランドは勝てなかった。簡単に言ってしまえば、そういうことなのかもしれない。
さて、ブログが復活したついでに、ちょっと文章について考えていることを書いてみようと思う。
私は、読みやすい文章というものは、文章に含まれた情報量が、適量であるか、もしくは少し足りないくらいの
域に留まっている文章ではないか、と考えている。
そんな抽象的なことを言われてもわからん、と言われるだろうから、少し例を挙げてみる。
『机の上にバナナが置いてある』という情景を文章で描くとしたら、どう書くだろう。その情景の情報は
「机」「上」「バナナ」である。
だが、これだけでは、原始人と会話しているようなものなので、文章にしてみよう
「机の上にバナナが置いてある」
これで文章になった。だが、これは情報を文章にしただけで、味も素っ気もない。だが、それでも構わないのだ。読者に伝えたい情報が、それだけならば、これで十分なのだ。
だが、これ以外に読者に伝えたい情報があるならば、この文章に言葉を足していくことになる。
「バナナが置かれている意味を読者に伝えたい時」
「誰が置いたのか、その人物の情報に広げたい時」
そういう意図を持って、机の上に置かれたバナナを描くとすれば
「机の上に(ちょこんと)バナナが置いてある」
「机の上に(忘れ物のように、ちょこんと)バナナが置いてある」
といった形容詞で補うことになる。
この場合「ちょこん」というオノマトペは幼い感覚を読者に与えるので、バナナを置いていった人物の説明の意味も持つ。「忘れ物」という言葉から受けるイメージは「おっちょこちょい」「あわてもの」というものなので、合わせて使うと、それだけでバナナを置いていった人物のイメージを読者の中に作ることができる。
机の上のバナナについて、こういった情報を補うと、読者の興味はどこにいくのか。それは「誰が置いたのか」という、バナナを置いた人物に興味が向く。
向かなくても、少なくともここから、バナナを置いた人物の情報に記述が向かっても、読者は違和感を覚えない。そのまま受け入れてもらえるのだ。
その人物のイメージはどんなものだろうか?
「年齢四十代半ば、体格ガッチリ、右目に黒い眼帯を施し、迷彩服を着て髭を生やし、腰にはガバメントが入ったホルスター」な人物が浮かぶ人はまずいないだろう。
それを狙ってあえて逆を張ることもできるが、そういうのはあまりオススメしない。(笑
順当に考えて、「ちょっとおっちょこちょいの、年下の女の子」というイメージではないだろうか。
こういうことを書くと「読者はそんなこと考えてない」という人がよくいる。
確かに、いちいちそこまで意識の上に浮かべる人間はいない。中にはいるかもしれないが、ほとんどは読み飛ばしているだろう。
だが、その意識の上に浮かんでいない部分で、読者は文章を読み取っているのである。
たったこれだけの文章で、印象が、ガラリと変わって、読みやすくなるわけではない。だが、こう言った細かい情報の積み重ねが、文章の読みやすさに繋がっていく。
逆に言うならば、その無意識に受け取る情報が無駄に多いと、読者はお腹いっぱいになってしまうのだ。
情報は、トランプの手札のようなものである。
受け取った手札が読者の脳内で「役」を作れば、読者はそれを「ああ、これはこういうことか」と納得して手札から取り除くことができる。
だが、情報、つまり手札が多いと、読者は持ちきれなくなる。印象が散漫になって、先を読む気が失われていくのである。
ブログが復活したとはいえ、締め切りは相変わらずなので、定期的に更新することはできないだろうが、興味があれば、また覗きに着ていただけると嬉しい。
長い間放置していた理由は、so-netの運営の方から「アカウントのセキュリティが低いので切り替えてくれ」という通知が来ていたらしいのだが、メールが、なぜかスパム扱いになって、自動的に削除していたので、全く気が付かず、ある日を境に、ログインできなくなったためである。
期限までに切り替えなければ、運営の方で強制的に以前のアカウントを停止し、新しいアカウントを配布する。ということだったらしいが、その時の新しいアカウントを、メモした紙を紛失し、以前のパソコンのハードディスクがクラッシュしたためにメールデータも取り出せなくなり、仕事も忙しいし、プライベートでも色々あって、ブログのアカウントの復活、という仕事の優先順位が、どんどん後回しになっていったためである。
気がつけば「宇宙軍士官学校」も10巻になり、この3月24日には書店に並ぶことになった。
この「宇宙軍士官学校」については「俺、つええ! なキャラである有坂恵一が、宇宙空間で無双するよくある話」と言う方が結構いるらしいが、いわゆる少年マンガ的な「俺つええ!」なヒーローが戦う話とは、大きな違いがあるのだが、そのことに気がついている人はいないようだ。
その違いを、ひとことで言うと
「宇宙軍士官学校は、主人公のテンションと、勝負の勝敗に、何の関係もない」
という部分である。
いわゆる「俺つええ!」的な構造を持つ物語は、主人公のテンションがすべてである。主人公がテンションを上げ、物語を引っ張っていくことで、超人的な力を発揮し、強大な敵に勝つ。というのが、セオリーである。
いかに主人公のテンションを上げるか、に作者も、読者も関心が無くのである。
だが、宇宙軍士官学校の物語構造はそうではない。主人公がテンションを上げようが、無双の腕前を持っていようが、勝つときは勝つし、負けるときは負けるのである。
なぜこういう書き方をするのか。それは簡単な話で「宇宙軍士官学校」は戦争を描いているからであり、個人戦闘を描いているわけではないからである。
「ルーデル」がいても、ドイツは負けたし、「シモ・ヘイヘ」がいても、フィンランドは勝てなかった。簡単に言ってしまえば、そういうことなのかもしれない。
さて、ブログが復活したついでに、ちょっと文章について考えていることを書いてみようと思う。
私は、読みやすい文章というものは、文章に含まれた情報量が、適量であるか、もしくは少し足りないくらいの
域に留まっている文章ではないか、と考えている。
そんな抽象的なことを言われてもわからん、と言われるだろうから、少し例を挙げてみる。
『机の上にバナナが置いてある』という情景を文章で描くとしたら、どう書くだろう。その情景の情報は
「机」「上」「バナナ」である。
だが、これだけでは、原始人と会話しているようなものなので、文章にしてみよう
「机の上にバナナが置いてある」
これで文章になった。だが、これは情報を文章にしただけで、味も素っ気もない。だが、それでも構わないのだ。読者に伝えたい情報が、それだけならば、これで十分なのだ。
だが、これ以外に読者に伝えたい情報があるならば、この文章に言葉を足していくことになる。
「バナナが置かれている意味を読者に伝えたい時」
「誰が置いたのか、その人物の情報に広げたい時」
そういう意図を持って、机の上に置かれたバナナを描くとすれば
「机の上に(ちょこんと)バナナが置いてある」
「机の上に(忘れ物のように、ちょこんと)バナナが置いてある」
といった形容詞で補うことになる。
この場合「ちょこん」というオノマトペは幼い感覚を読者に与えるので、バナナを置いていった人物の説明の意味も持つ。「忘れ物」という言葉から受けるイメージは「おっちょこちょい」「あわてもの」というものなので、合わせて使うと、それだけでバナナを置いていった人物のイメージを読者の中に作ることができる。
机の上のバナナについて、こういった情報を補うと、読者の興味はどこにいくのか。それは「誰が置いたのか」という、バナナを置いた人物に興味が向く。
向かなくても、少なくともここから、バナナを置いた人物の情報に記述が向かっても、読者は違和感を覚えない。そのまま受け入れてもらえるのだ。
その人物のイメージはどんなものだろうか?
「年齢四十代半ば、体格ガッチリ、右目に黒い眼帯を施し、迷彩服を着て髭を生やし、腰にはガバメントが入ったホルスター」な人物が浮かぶ人はまずいないだろう。
それを狙ってあえて逆を張ることもできるが、そういうのはあまりオススメしない。(笑
順当に考えて、「ちょっとおっちょこちょいの、年下の女の子」というイメージではないだろうか。
こういうことを書くと「読者はそんなこと考えてない」という人がよくいる。
確かに、いちいちそこまで意識の上に浮かべる人間はいない。中にはいるかもしれないが、ほとんどは読み飛ばしているだろう。
だが、その意識の上に浮かんでいない部分で、読者は文章を読み取っているのである。
たったこれだけの文章で、印象が、ガラリと変わって、読みやすくなるわけではない。だが、こう言った細かい情報の積み重ねが、文章の読みやすさに繋がっていく。
逆に言うならば、その無意識に受け取る情報が無駄に多いと、読者はお腹いっぱいになってしまうのだ。
情報は、トランプの手札のようなものである。
受け取った手札が読者の脳内で「役」を作れば、読者はそれを「ああ、これはこういうことか」と納得して手札から取り除くことができる。
だが、情報、つまり手札が多いと、読者は持ちきれなくなる。印象が散漫になって、先を読む気が失われていくのである。
ブログが復活したとはいえ、締め切りは相変わらずなので、定期的に更新することはできないだろうが、興味があれば、また覗きに着ていただけると嬉しい。
2016-03-21 01:24