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兄(R2)が死去いたしました。

兄の葬儀が終わった。
私の兄は昭和29年8月生まれで、今年で60歳。還暦を迎えたばかりだった。

父は二十年前に、そして母は昨年他界した。
兄弟は兄と私の二人。そして兄がこの世を去り、後に残ったのは私一人になってしまった。

私の兄は、月刊アウトの編集者だった頃に「R2」の名前で、記事を書いていた。
立命館大学のSF研究会に所属し、その後月刊アウトの編集者となったのも、高校時代のSF仲間だった「C」さんがみのり書房にいた縁だった。
 
ガンダムが世に出て、アニメとSFが商売として大きく開花していくその創成期に、兄と私は立ち会っていた。

みのり書房退社後、普通の会社員として勤めながら、ニフティフォーラムの方で「花筏」のハンドルネームで、色々やっていたようだが、その頃のことは、私は良く知らない。

 その後、私が小説を書き始めた頃に、共に小説を書き始め、私は電撃大賞に応募し、兄は学研の歴史群像小説賞に応募した。
 そして私は「鷹見一幸」の名前で電撃文庫でデビューし、角川スニーカーで「でたまか」を書き始めたその頃。兄の書いた仮想戦記が編集さんの眼に留まり「大日本帝国第七艦隊」として出版されることになった。

 この頃から、小説は互いに書いたものを見せ合い、筆を入れ合いながら書くパターンが確立していた。
 つまり「鷹見一幸」のペンネームは、私と兄の合作の名前だったのだ。
「時空シリーズ」「でたまか」は私がメイン「大日本帝国第七艦隊」は兄がメインで執筆している。
 
 その後、紆余曲折を経て、兄はしばらく表立って執筆をしなくなった。
 プロットを練る時に、協力することはあっても、具体的に文章にすることが無くなった。
 そんな兄をもう一度作家に引き込んだのが、早川書房から来た「野田昌宏さんの銀河乞食軍団のリメイクを書きませんか?」という話だった。
 兄と二人でプロットを組み立て、設定を作り、文章の八割は兄、二割が私、という体制で執筆が始まった。
 
 だが、三巻を書き終わったあたりで、兄の体調が悪くなった。腎梗塞を発症したのだ。 腎臓の動脈に血栓が出来て片方の腎臓の機能が完全に失われた。
 数ヶ月に及ぶ入院生活の後、退院してきた兄は、なぜか全く小説が書けなくなっていた。

 これは、脳梗塞を発症した際にCTスキャンを撮影して判明したことだが、このとき、腎梗塞だけ無く、右脳の後ろ側にも梗塞を発症していたらしい。
 この部分は高次障害と呼ばれる、運動や言語などとは異なる部分の障害を発症する。

 退院してきた兄は、車の車庫入れができなくなっていた。
 普通に運転する分には何の問題もないのだが、鏡に映った映像から距離感を掴むことが出来なくなっていたのだ。
 車庫に車を入れようとして、柱や壁にバンパーをこすることが当たり前になって、車のバンパーは瞬く間に傷だらけになってしまった。
 そして、奇妙な事を言い出した。
「車のナンバーの三番目の数字だけが読めない」というのだ。
 目が悪くなったのかと思ったのだがそういうことではなく、どうやら文字列の認識がおかしくなり始めていたらしい。

 そして三年前。兄は越後湯沢のマンションで脳梗塞の発作を起こした。左半身の麻痺である。言葉は話せるが左の手足が動かない、というのだ。
 
 電話でその話を受けた私は即座に119番するように告げて、越後湯沢に向かって車を走らせた。
 兄は、六日町の病院に入院し、それから長い入院とリハビリが始まった。

 そして、リハビリを終えて退院してきた兄は、なんとか日常生活が出来るまで回復していたが、今度は、心労が祟って母が心臓発作で入院した。
 母の入院も数ヶ月に及び、退院してきた時には、かなり痴呆が進んでしまっていた。

 痴呆が進んだ母と、身障者となった兄だけで生活できるはずも無く、私が妻と交代で、兄と母の面倒をみることになった。

 ちょうど、山猫姫の12巻を書き始めた頃だった。

 そんな中で兄が今度は心筋炎を発症した。心臓が普通に鼓動を打つことができずに、通常の二倍から三倍近い頻度で脈を打つようになってしまったのだ。
 こうなるともはや血流を押し出すと言うよりも心臓が痙攣するのと同じ状態である。
 血流が滞ることから内臓が機能不全を起し、ましてや腎臓の片方が無いわけだから、体から水分が抜けず、肺に水が溜まるようになって、ベッドから起き上がることも難しくなってしまい、埼玉医大の国際センターに緊急入院したのが、去年の秋口だった。

 重篤状態にまで陥って、意識不明になったままの状態が数週間続き、この間に母が老衰で死去した。

 兄は入院中、母が死去、と言う状態で、母の葬儀を終え、兄が退院してきたのは、昨年の暮れだった。

 今までの兄が暮らしていた家では、とても生活できないということから、私の家と兄と母の家の間にあった、書庫を改造し、バリアフリー住宅に改築し、兄の住まいにした。

 それから一年間。兄は、天気の良い日には杖をついて近くのスーパーに買い物に行くほどまでに回復した。
 
 だが、11月に入ってから体調不良を訴えるようになり、22日に病院に連れて行ったところ、血糖値が500以上、ということで、緊急入院となった。

 最初は意識もあり、会話も出来たのだが、三日ほど過ぎてから熱が上がり意識が無くなった。
 解熱剤も抗生物質も効かないことから、再度CTスキャンを撮影したところ、新たな脳梗塞と、脳の中心部における出血が判明した。
 糖尿病から来る動脈硬化により、脳梗塞によって滞った血流が、もろくなった血管壁から出血を始めたのだ。
 出血は、体温調節を行う脳幹部に及んでいる可能性があり、高熱はそれが原因では無いか、とのことだった。

 体温調節を行う機能がある脳幹部は、呼吸などもコントロールする部位に近い。
 脳内出血が呼吸中枢に及べば、呼吸が止まる。

 この時点で、私は兄の死を覚悟した。

 医師から説明を受け、自宅に帰り、数時間過ぎた頃、携帯電話が鳴った。
 病院からだった。
「呼吸が止まりかけています、すぐに来てください」
 すぐに病院に向かった私の前で、兄はまだ呼吸を続けていた。
 それから十五分ほど過ぎた頃。血圧がさらに低下し、血圧計で計れないほどになった。
 そして、呼吸が止まり、心電図の波形が少しずつ緩慢になり、12月2日午後5時56分に、兄はこの世を去った。

 兄は独身で、妻や子供を残しているわけではない。
 こう言うと悪いが、結構行き当たりばったりで、その場その場でなんとかして生きてきたようなところがある。
 年金も、十二年以上未納付で、障害者年金ももらえない。
 健康保険も滞納していて、心筋炎で入院した時は全額私が立て替えた。
 晩年は収入も無く、母の年金で暮らしていたような状態だった。

 はっきり言って、私がすべての面倒を見てきたようなものだ。

 それでも、やはり、私は兄に生きていて欲しかった。
 
 兄が暮らしていた小住宅には、入院するまで向かっていたノートパソコンが、まだ、そのまま置いてあった。
 電源を入れて立ち上げた画面には、いくつもの文書ファイルが並んでいた。

 その、どれもが、書きかけの小説だった。

 更新の日付は、一年前のままで、ほとんど更新されていない、小説の書き出しとラフの群れを見て、思うのは。

 もし、兄に、心残りがあるとすれば、それは、この、世に出ぬままで終わってしまった物語なのかもしれない。ということだった。

 明日書こう。
 いつか、書こう。
 そのうち、書こう。

 もう、その言い訳は、やめよう。

 今日、書こう。
 今、書こう。
 書ける時に、書こう。

 明日が来る前に、明日が終わってしまうかもしれないのだから。
 

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