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宇宙軍士官学校を書きながら思うこと。

「宇宙軍士官学校」を早川書房で書くことになったのは、その前のシリーズである「銀河乞食軍団・黎明編」が、共同執筆者の兄の長期入院により、4巻の途中で中断していたのを引き継いで、何とか完結に持ち込んですぐのことだった。

 シリーズ途中で約一年の空白を作ってしまった私には、もう早川書房から話は来ないだろうと覚悟していたが、担当編集の込山さんから「次はオリジナルで書きませんか?」という話を戴いて、一も二も無く「書きます」と返事をしたわけである。

 銀河乞食軍団黎明編を書く前に、込山さんと「翻訳物のミリタリーSFは売れ行きがいい」
「日本でもああいったSFを出しても行けるのではないか?」と言う話をしたことがあるのだが、日本人の基礎教養には「軍事」に関するものが決定的に欠けているので、書くとするといわゆる仮想戦記のSF版になってしまうかもしれない。
 そういう「SF戦記」とは違う切り口で何か書けないだろうか?
 そういう話をしたことを覚えている。

 その後、しばらく、どんなSF戦記を書こうか色々考えたのだが。そのとき私の脳裏に浮かんでいたのは「末期戦」と言う文字だった。

 私が小学生の頃、何かでベルリン攻防戦のゼーロウ高地における対戦車戦闘に参加していた十五歳の少年兵の話を読んだことがある。

 リーダースダイジェストに抄訳が連載されていた「第三帝国の興亡」の中のエピソードだと思っていたのだが、完訳本を読むとその記述は無く、いったいどこで読んだのか、出所不明のエピソードなのだが、今でも覚えている。

 手記の主は、十五歳の少年で、ベルリンの下町に住んでいた。
 第二次世界大戦の末期に徴兵され、ほとんど訓練を受けることも無く、そのままベルリン防衛部隊に回され、ゼーロウ高地の対戦車陣地に配置された。
 対戦車砲は口径50ミリのPaK38である。
 配られた砲弾は十五発。そして、この陣地には、下士官も士官も配置されていなかった。
 砲を操作するのは、5名の15歳の少年兵だけだったそうだ。

 士官は、時々やってきて、色々な話をして、また去って行った。
 僕たちは、自分たちがどんな状況で、敵がどこまで来ているのか何も知らされていなかった。
 塹壕と陣地の中だけが、僕たちの世界だった。
 僕たちは、木の枝や草を持って来て砲を偽装した。
 遠くまで離れて、見えるか見えないか言い合って笑った。
 僕たちは戦争を知らなかった。戦争は僕たちとは違う世界で 行われている、ドラマチックなイベントみたいに考えていた。
 戦争が終われば家に帰れる、家に帰れば今までと同じ生活が続くのだと考えていた。
 スターリンのオルガンが、頭の上から降って来て、戦争は死と痛みと、絶望だと言うことを教えてくれるまで、僕たちは戦争とは無縁だった。
 
 戦争によって、無理やり大人にされていくこの少年兵の手記が、小学生だった私には衝撃的だった。
 元の手記が誰によって書かれたのか、何の本の一部なのか、今となってはわからないが、この部分だけは今でも私の記憶に残っている。

「宇宙軍士官学校」は、最初、もっとハードな、大人向けの書き方をするつもりだった。
 だが、書き始めて見るとどうにも、上手く行かないのだ。

 なぜ、上手く書けないのか。それを考えた私はひとつのことに思い当たった。
 私は、自分の脳内にあったこの「少年兵の手記」が書きたかったのだ、と……。

 そして私は書き方を変えた。ジュブナイルとして書き直したのだ。
 児童文学と同じ視点、書き方。それによって見えてくるものは、まさしく、私の記憶の中にある「少年兵の手記」そのものだった。

 私が書きたいのは、ビジネスのやり方をミリタリに例えた本でもなければ、派手な戦闘シーンだけが続くウォーモンガー礼賛の書でもない。

 片田舎で暮らして、地球だけが世界だと思っていた少年が、戦争の中に引っ張り出されて、無理やり大人にされていく悲しさ。

 これを書きたかったのだ、と気がついたのだ。
 その悲しさは個人のものであるのと同時に、人類全体のものでもある。

 そして、私は宇宙軍士官学校を書き始めた。
 人類は「末期戦」に駆り出されて行く少年兵である。

 「末期戦」とはどういうものなのか。
 戦場ではない、その後方でも、人材の枯渇により、多くの少年たちが、大人たちの代わりに職務についていた。
 太平洋戦争末期の国鉄では、わずか十五歳で蒸気機関車の機関助士として蒸気機関車で石炭を焚いていた人もいる。

 交通新聞社新書から出ている「15歳の機関助士」と言う本がある。
 太平洋戦争末期から終戦、戦後の混乱期を、蒸気機関車のカマ焚きとして勤め上げた方の手記である。
 空襲と、機銃掃射によって殉職者の出る中を、命がけで東海道本線を運転した機関士や、終戦のその日もいつもと同じように列車を運行させた人々の話は、鉄道と言うシステムが、どれほど多くの人々によって支えられていたのかを教えてくれる。

 鉄道に興味のない方もぜひ、一度お読みになっていただきたい本である。








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