SSブログ

「宇宙軍士官学校」の2巻が22日に発売されます。

 二ヶ月放置していたブログの更新である。

 ブログと言うのは、いわゆる日記のようなものだが、これでは「日記」ではなく「月報」。 下手をすると「季報」になってしまうかもしれない。【苦笑

 なんで書かないのかというと、私の中にある執筆用のリソースが振り向けられないからである。

 人間の余裕と言うのは、可変である。いつも一定の余裕を保てる人間はそういない。どんなにキャパシティのある人間でも、するべきこと、考えるべきことが多くなれば、余裕はどんどん少なくなっていく。

 何をするか、と言う優先順位をつけて、その順番にリソースを使っていくわけだが、私の場合「ブログを更新する」というのは、かなり後の方に位置する。
 最優先は、当然「家族と自分のこと」であり、次が「仕事」である。

 私が若くて独身なら、この家族の部分に「彼女」とか「恋愛」とかが来るのだろうが、来年1月に55歳になるオヤジには、そういう部分は縁が無い【笑

 そして、家族と言っても長男はもう就職して自活しているし、次男も今年の春に金沢の大学に行って、向こうで一人暮らしをしているので、実質的に手が離れたようなものである。
 となれば、優先すべきは仕事である。

 私は現在電撃文庫から「ご主人様は山猫姫」。早川書房から「宇宙軍士官学校」の二つのシリーズを刊行している。
 この二社以外にも、角川つばさ文庫と角川スニーカー文庫、の二つのレーベルとも付き合いがある。
 
 角川スニーカーは電撃文庫でデビューする少し前に「でたまか」で拾って戴いた縁があり、電撃文庫と同じくらいの長い付き合いであるが、ここしばらく本を出していない。
 新シリーズを立ち上げる、ということで、色々プロットを立てたのだが、どうにも要求されるものをクリアできない。
 「属性」とか「要素」というものを要求されても、私の書くものは、そういうものと縁が無いのである。
 
 なんと言えばいいのか、良い言葉が見つからないが。簡単に言ってしまえば、私は書きたいものしか書けないのである【笑

 「メガネ」だとか「委員長」だとか「幼馴染」と言う属性を要求されても、それが、私にとって面白ければ書くが、面白くない、関心が無い場合は、書けないのである。
 
 作劇の用語に「マクガフィン」という言葉がある。
 これはアルフレッド・ヒッチコックが用いた言葉で、意味は、物語が動く際に、そのきっかけとなる品物。という意味である。
 たとえば、怪盗が「宝物」を狙っている。という物語だとすれば、その物語のメインは「宝物」を巡る攻防を描くことであり、その「宝物」は美術品でもいいし、宝石でもいいし、絵画でもいいわけである。
 品物のサイズや重さによって、トリックや、逃走方法に多少の違いは出るにしろ、物語が描くのは「その品物がなんであるか」ではなく「その品物を巡ってキャラクターがどう動くか」である。
 
 ライトノベルの多くは、この「品物」の方を重要視する。
 つまり「空から女の子が降ってきた物語」をライトノベルで描くとすれば、最も重要なのは「なぜ落ちてきたのか」と言う理由ではない。「どんな女の子が落ちてきたのか」であり「落ちてきた女の子と主人公との関係性の推移」である。
 空から女の子が落ちてきたことで事件が起こり、巻き込まれるとしても、その事件の中で描かれるのは女の子との関係性だけである。
 なぜなら読者の多くは、落ちてくる理由には興味がないのだ。興味の対象は「どんな女の子」なのか、なのだ。
 だから、女の子に関しては詳細な設定がある。髪の色、眼の色、容姿、バストサイズ、そして、ぱんつの色【笑

 だから「ラノベは絵で売る」のである。
 そういうマーケティングのほうが、メディアミックスには向いているのである。書いていない、というか考えていない部分を、マンガやアニメで埋めることができるのである。
 ライトノベルの多くが「ボーイ・ミーツ・ガール(女の子ちょっとワケあり)」なのだから、それはまあ当然のことである。

 だが、私が書くとすれば、私が書きたいと思うのは「なぜ女の子が落ちてきたのか」と言う理由であり「落ちてきた女の子によって、個人だけでなく社会がどう動くか」かである。それが書きたいのだ。
 私は「落ちてきた女の子」には、はっきり言ってあまり重点を置かないだろう。
 
 私の書く物語は、デビュー作の「時空のクロス・ロード」から今まで、全部、主人公がいなくても物語を続けていける構造になっている。
 私は主人公やキャラクターを使って物語世界を描き出しているだけなのだ。
 キャラを描くことで、同時に世界を描いているわけで、キャラクターと言うのは絵筆に過ぎないのである。
 極端な話、もし、物語の途中で主人公が死んでも、物語は続いていくだろう。
 キャラクターと世界は、同じ場所に存在しているが別々のものであり、キャラクターは世界を構成する要素でしかないのだ。

 つまり、もし、私が「女の子が空から落ちてきた話」のプロットを書くとすれば、その大部分を占めるのは、落ちてきた理由であり。その理由に関連して、追われるようになった女の子を助けて、活躍する主人公。という「物語の展開」である。
 女の子も、主人公も、私が求めているキャラクター性は「読者に嫌われない」程度でしかない。
 スニーカーの編集部が欲しがっているプロットとは。おそらくまったく違うものだったはずだ。編集さんも困ったに違いない。

 ライトノベルで要求されるのは、ビジュアルである。
 メディアミックスし、より多くの読者、顧客を獲得し、映像展開を進め、キャラクターグッズやDVDを売ることで利益を拡大する。
 これが今のライトノベルのビジネスモデルである。

 だが、私にはそれは無理なのだ。私が書きたいものは、そういう展開に合致するものではない。、
 そういうビジネスモデルに合致するものを要求されても、私には書けないのだ。

「面白い小説」は書ける、書く自信はある。しかし「アニメ化されてどかんと売れる小説」は無理である。私に書けるのは「面白くてそこそこ売れる小説」なのだ【笑
 
 というわけで、現在スニーカー文庫の新シリーズを書いている。
 かくして、、3つのレーベルで、3つのシリーズを同時進行することになった。

 これが、ブログの更新ができなかった理由である【笑

 さて、タイトルの「宇宙軍士官学校2」であるが、11月22日に発売予定である。
 「ただのライトノベルだ」というご感想をいくつも戴いたが、ライトノベル的な書き方をしているが 実はライトノベルではない。
 なぜなら、キャラクターを完全に抑えて書いているからである。

 私が書きたかったのは、物語の展開である。キャラクターではない。
 物語の展開さえ面白ければ、キャラクターのビジュアルが皆無でも、読者は楽しく読めるはずだ。
 私はそう考えて「宇宙軍士官学校」を書いた。
 記述や描写がわかりやすく、物語の見通しがいいのは、ライトノベルとジュヴナイルの技法である。
 なぜ、この技法を使ったのかというと、これによって、読み手のストレスを軽減し、物語の筋を追う、展開を追う楽しさ、面白さを味わって戴きたかったからである。

 宇宙軍士官学校はSFではないかもしれない。でも、面白ければ無問題だと、私は思っている。【笑 
 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。