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読者は好敵手である。

以前、私はここで「ライトノベルは仲間小説である」と書いた。
作者にとって読者は近い存在であり、それがゆえに、ライトノベルは、読者にわかりやすい、読みやすい形で書かれている。

 私の書くライトノベルも、読者にわかりやすく読みやすく書いている。
 リズムを重視し、平易な言葉づかいと、簡潔な文章で、ひっかからないように、ということに全力を傾けて書いている。

 私が書いているライトノベルが、他の人と異なる点があるとしたら、そこは私が読者を仲間だとは思っていない。という点だろう。

 私は、まず、読者を好敵手として捉えている。
 読者からは、一切の甘えや猶予を与えてもらえないものだ、と言う前提で物語を作る。

私は「敵対する相手ですら面白い、と言わざるを得ないもの」を書かなければ、私は生き残れないのだ、と思っている。

 読者に対し甘えも仲間意識もない。読者は、実に怖いお客さんであり、それ以上でもそれ以下でもない。
 読み手に対する一切の依存感情を排して、書かなければ、私は生き残れない。

「なぜこうなるのか」を書くときにそれを読者に「察してもらう」ことを前提にした文章は、私には書けない。
 
「なぜ、こうなるのか」その原因と結果を、確実に、なるべく誤読をさせないように書いて、初めて文章は意味を持つと思っている。

 この、読者に「察してもらう」ことを前提にした文章というのが、いわゆる「仲間向け」文章だと私は思う。
 そして、この「仲間向け文章」というのは、ライトノベルにだけ存在するわけではない。いわゆる「ジャンル」と呼ばれる小説には、すべてこのジャンルの「仲間」に向けて書く部分が存在する。

「察してくれ」系の文章があれば、そういう仲間になりたがる読者は「おお、こいつも同類だー、仲間だー」ということになる。

 私は、どうにもそういう文章が書けない。だから「椎出啓」氏や、「銅大」氏に援助してもらって、そういう成分をなるべく含むようにして山猫姫を書いている。

 「宇宙軍士官学校」は、設定のご協力を戴いて説明文などに銅氏のご助力を戴いているがそれ以外の本文はすべて私の文章である。

 ライトノベル的な、読みやすくわかりやすい書き方でありながら、キャラクター性を抑えた書き方はライトノベル的ではない。という一風変わった書き方になっているのは、私なりに「SFの入門者向け」に考えた書き方である。

 その昔、もう30年くらい昔のことだが「わかりやすいSFはSFじゃない」と言われたことがある。

 これはいわゆるSFマニアの冗談の一つなのだが、この言葉はいまでも私の根っこに刺さっている。

「わかりやすいSF」があってもいい。
「わかりやすいSF」でSFを読んでSFを好きになってくれる人を一人でも増やしたい。

 私はそんなことを考えながら「宇宙軍士官学校」を書いている。

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