雪のリゾートマンションで小説講座・続きを書く
大雪の越後湯沢のリゾートマンションに閉じこもって小説を書いていた。
気が付くとテキストエディタでずっと
All works and no play makes Jack a dull boy All works and no play makes Jack a dull boy
All works and no play makes Jack a dull boy All works and no play makes Jack a dull boy
と打っていた……。
みたいなことは今のところ無いが、深夜、寝静まったマンションの廊下に出ると、窓の外は雪が舞い、吹き付ける北風が「びょぉおおおおうぅ……」という音を立てて、がらんとしたロビーに響いていたりする。
この映画「シャイニング」のようなシチュエーションは、実に不気味である。
何年か前、真夜中の二時ごろに、一階のロビーにある自動販売機にコーヒーを買いにいくためにエレベーターに乗った。一階に着いてドアが開いたら、そこに
金髪の外国人の双子の少女が立っていた。
驚きのあまり、心臓が止まると思ったが、どうやらその子達は一階にあるハーゲンダッツの自販機でアイスクリームを買い求めに来たらしい。
驚いている私を見て、くすくす笑いながら、入れ替わりにエレベーターに乗って行ったが、後にも先にも、あれほど驚いたことは無い【笑
さて、昨日のブログで「小説の書き方講座・のようなもの」を書いたら、なんだか好評だったようで、色々な人からツィッターでリツィートされた。
調子に乗って、昨日の続きをちょっとだけやってみたい。
昨日、私は「夏の終わりのコンビニで後輩に出会う」と言うエピソードを書く訓練を提案した。
このお題でエピソードを書くとした場合、重要なのは「誰が」でもなく「どんな後輩が」でもない。
そういったキャラクターを描くことも重要だが、そっちの方は、大概の人が書ける。
多くの人が書けないのは「夏の終わり感」と「コンビニ感」である。
これはある意味仕方ない。マンガでもアニメでも、もちろんライトノベルでも、読者の目はキャラクターを追いかけるようにできているし、作者もそれをメインで書いている
いわば、マンガのキャラクターだけ、表情や仕草や、セリフだけを読んでいるわけである。
読むだけならそれでいい、自分の興味の及ぶところだけを読み取ればいい。しかし、書くときはそうは行かない。マンガでそれをやればどうなるか。
キャラクターだけしか書かれていない、背景も何も無い真っ白なコマが並ぶことになるわけである。
昨日私が言った『色々あって』というのは、マンガで言うところの背景である。
マンガを読むとき、ほとんどの人は背景を読んでいない、背景は意識して読むものではなく、キャラクターに付随して、一緒に無意識のうちに読み取っている情報である。
意識していないから、いざ、自分が書く段になると、そこを再現できない。
「主人公のキャラもかっこいいシーンも書けるのに、なんでこれが繋がらないで、ぶつ切りな物語になってしまうんだろう?」
ということになる。読者の視点で作者側に回ると、様々なことが抜け落ちていることに気が付く。それに気が付かないまま小説を書いても、それは、実に内容の薄いダイジェスト版にしかならないのである。
さて、話を戻すと、私の出したお題の「夏の終わり」と「コンビニ」をどう書くかということである。
一番手っ取り早いのは「夏の終わりのコンビニ」と書いてしまうことである。
こう書けば、読者が勝手に脳内に夏の終わりのコンビニを思い浮かべてくれるのだから、余計なことは書かないでもいい。と言う人もいる。
確かにそのとおりである「放課後の教室」「朝の校門」と書けば、読者にはその情報が伝わる。間違っても「1943年の東部戦線」や「ワイキキの浜辺」を思い浮かべる読者はいない。
しかし、これだけの情報で、読者に投げてしまったその情景は、実に頼りないものとなる。
読者の脳内に、どんな映像が浮かぶのか、それをコントロールできないのだ。
情景描写というのは、読者をその場所に連れて行くことである。
「夏の終わりのコンビニ」に連れて行くこと。そしてそこで、キャラクターの会話を見せるのが作者の仕事である。
ここで重要なのが「連想」である。
もし、あなたが、夏の終わりのコンビニに行ったとしたら、なにを見て「ああ、夏も終わりだなあ」と思うか。ということである。
売り場に目を落として、「ああ夏も終わりだな」と感じる品物にはどんなものがあるだろうか?
「値引きされた日焼け止めクリーム」「売れ残った花火」
他にも色々あるかもしれない。
答えは自分の中にあるのだ。
あなたが、そう感じるものを、書くのだ。
その言葉を読んだ読者の中には、あなたが感じたのと同じ「夏の終わり感」が浮かぶだろう。
おそらく読者は明確に意識はしていない。さっと読み飛ばしてしまうだろう。だが、意識の中にはしっかりと「夏の終わり感」が残るのだ。
そして、その感覚が「リアリティ」に通じるのである。
リアリティというのは、微にいり細にわたって説明することで出るものではない。
書かれた文章が、読者の体験や記憶と一致するときに、読者はそこにリアリティを感じるのである。
「ああ、あるある、こういう感じって」と読者に思わせれば、それはまごう事なきリアリティなのである。
これがマンガで言うところ背景であり、「色々あって」の根幹になる部分だと私は思う。
そして、こういった言葉を思いつくには、観察力と記憶力が必要となる。
観察力と記憶力の訓練の方法もあるのだが、それはまた次の機会にしようと思う。
本日の広告は、スタンリーキューブリック監督の「シャイニング」である。スティーブンキングの原作を、キューブリック流に解釈して作られた映画であり、この映画によって生じたキングとの確執が、後にキング監修のテレビドラマ「シャイニング」を生むこととなる。
原作とは異なるが、この映画版は、映像の美しさと、何よりもホテルの亡霊に取り込まれ狂っていくジャック・ニコルソンの演技が実に素晴らしい。
このシャイニングは後に、様々な映画でオマージュとして取り込まれていることでも有名で、いかに、当時の映像作家に影響を及ぼしたかがわかる。
寒い冬、雪の中でぜひとも見ていただきたい映画である。
気が付くとテキストエディタでずっと
All works and no play makes Jack a dull boy All works and no play makes Jack a dull boy
All works and no play makes Jack a dull boy All works and no play makes Jack a dull boy
と打っていた……。
みたいなことは今のところ無いが、深夜、寝静まったマンションの廊下に出ると、窓の外は雪が舞い、吹き付ける北風が「びょぉおおおおうぅ……」という音を立てて、がらんとしたロビーに響いていたりする。
この映画「シャイニング」のようなシチュエーションは、実に不気味である。
何年か前、真夜中の二時ごろに、一階のロビーにある自動販売機にコーヒーを買いにいくためにエレベーターに乗った。一階に着いてドアが開いたら、そこに
金髪の外国人の双子の少女が立っていた。
驚きのあまり、心臓が止まると思ったが、どうやらその子達は一階にあるハーゲンダッツの自販機でアイスクリームを買い求めに来たらしい。
驚いている私を見て、くすくす笑いながら、入れ替わりにエレベーターに乗って行ったが、後にも先にも、あれほど驚いたことは無い【笑
さて、昨日のブログで「小説の書き方講座・のようなもの」を書いたら、なんだか好評だったようで、色々な人からツィッターでリツィートされた。
調子に乗って、昨日の続きをちょっとだけやってみたい。
昨日、私は「夏の終わりのコンビニで後輩に出会う」と言うエピソードを書く訓練を提案した。
このお題でエピソードを書くとした場合、重要なのは「誰が」でもなく「どんな後輩が」でもない。
そういったキャラクターを描くことも重要だが、そっちの方は、大概の人が書ける。
多くの人が書けないのは「夏の終わり感」と「コンビニ感」である。
これはある意味仕方ない。マンガでもアニメでも、もちろんライトノベルでも、読者の目はキャラクターを追いかけるようにできているし、作者もそれをメインで書いている
いわば、マンガのキャラクターだけ、表情や仕草や、セリフだけを読んでいるわけである。
読むだけならそれでいい、自分の興味の及ぶところだけを読み取ればいい。しかし、書くときはそうは行かない。マンガでそれをやればどうなるか。
キャラクターだけしか書かれていない、背景も何も無い真っ白なコマが並ぶことになるわけである。
昨日私が言った『色々あって』というのは、マンガで言うところの背景である。
マンガを読むとき、ほとんどの人は背景を読んでいない、背景は意識して読むものではなく、キャラクターに付随して、一緒に無意識のうちに読み取っている情報である。
意識していないから、いざ、自分が書く段になると、そこを再現できない。
「主人公のキャラもかっこいいシーンも書けるのに、なんでこれが繋がらないで、ぶつ切りな物語になってしまうんだろう?」
ということになる。読者の視点で作者側に回ると、様々なことが抜け落ちていることに気が付く。それに気が付かないまま小説を書いても、それは、実に内容の薄いダイジェスト版にしかならないのである。
さて、話を戻すと、私の出したお題の「夏の終わり」と「コンビニ」をどう書くかということである。
一番手っ取り早いのは「夏の終わりのコンビニ」と書いてしまうことである。
こう書けば、読者が勝手に脳内に夏の終わりのコンビニを思い浮かべてくれるのだから、余計なことは書かないでもいい。と言う人もいる。
確かにそのとおりである「放課後の教室」「朝の校門」と書けば、読者にはその情報が伝わる。間違っても「1943年の東部戦線」や「ワイキキの浜辺」を思い浮かべる読者はいない。
しかし、これだけの情報で、読者に投げてしまったその情景は、実に頼りないものとなる。
読者の脳内に、どんな映像が浮かぶのか、それをコントロールできないのだ。
情景描写というのは、読者をその場所に連れて行くことである。
「夏の終わりのコンビニ」に連れて行くこと。そしてそこで、キャラクターの会話を見せるのが作者の仕事である。
ここで重要なのが「連想」である。
もし、あなたが、夏の終わりのコンビニに行ったとしたら、なにを見て「ああ、夏も終わりだなあ」と思うか。ということである。
売り場に目を落として、「ああ夏も終わりだな」と感じる品物にはどんなものがあるだろうか?
「値引きされた日焼け止めクリーム」「売れ残った花火」
他にも色々あるかもしれない。
答えは自分の中にあるのだ。
あなたが、そう感じるものを、書くのだ。
その言葉を読んだ読者の中には、あなたが感じたのと同じ「夏の終わり感」が浮かぶだろう。
おそらく読者は明確に意識はしていない。さっと読み飛ばしてしまうだろう。だが、意識の中にはしっかりと「夏の終わり感」が残るのだ。
そして、その感覚が「リアリティ」に通じるのである。
リアリティというのは、微にいり細にわたって説明することで出るものではない。
書かれた文章が、読者の体験や記憶と一致するときに、読者はそこにリアリティを感じるのである。
「ああ、あるある、こういう感じって」と読者に思わせれば、それはまごう事なきリアリティなのである。
これがマンガで言うところ背景であり、「色々あって」の根幹になる部分だと私は思う。
そして、こういった言葉を思いつくには、観察力と記憶力が必要となる。
観察力と記憶力の訓練の方法もあるのだが、それはまた次の機会にしようと思う。
本日の広告は、スタンリーキューブリック監督の「シャイニング」である。スティーブンキングの原作を、キューブリック流に解釈して作られた映画であり、この映画によって生じたキングとの確執が、後にキング監修のテレビドラマ「シャイニング」を生むこととなる。
原作とは異なるが、この映画版は、映像の美しさと、何よりもホテルの亡霊に取り込まれ狂っていくジャック・ニコルソンの演技が実に素晴らしい。
このシャイニングは後に、様々な映画でオマージュとして取り込まれていることでも有名で、いかに、当時の映像作家に影響を及ぼしたかがわかる。
寒い冬、雪の中でぜひとも見ていただきたい映画である。
シャイニング 特別版 コンチネンタル・バージョン [DVD]
- 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
- メディア: DVD
2012-02-18 02:20